喧嘩板を除くと掲示板トップに議論板をお勧めする告知掲示されているが…喧嘩板から流れてくる者は少ない
人は生まれつき負けん気が備わっている生き物である
論争過程、論争の果てにやってくる感情は所詮負けん気という怒りの感情に近いものだ
怒りの感情を煽り、暴言と置き換えるのなら…それを禁じている議論板は今一面白味が欠けてしまい…その内容がセーブしたものになる
議論板には、勝敗が無いのもまた過疎化の理由である
勝敗には拘らないクール気取りな論争はナルシストな話し手の語りが主であり、自身の知識を披露出来たのなら…自己満足を果たし相手の主張などは二の次なのである
そんな独りよがりな内容、勝敗も無く感情の高ぶりも起きない論争に何の魅力があるのだろうか?
論争バトルに破れ現役を退いた元喧嘩師達の天下り先の議論板では、その議題は喧嘩板の二番煎じであり、
ナルシスト達の集まりには論争の発展は望めないだろう…
以上の理由から議論板は喧嘩板の劣化板であり日の目を見る日は来ないのである
Q.E.D
女は男より優れており、ロシア人はアメリカ人より優れており、クリケット選手はテニス選手より優れており、イスラム教徒は仏教徒より優れている
これらは各々の所属人口をもとに暫定した優劣である
一方、体力測定の平均では男の方が優れており、昨年度のGDPではアメリカ人の方が優れており、
世界大会の開催数ではテニス選手の方が優れており、歴史的深度では仏教徒の方が優れているともいえる
どちらの対比がより正当かという議論が無意味であることは論を俟たない
あらゆる対象には球の半径と同じくらい数多くの、つまり無数の面があると論じた文士がいるが
文化圏という対象についても同様に、無限ともいえる視点と尺度が存在するといえる
多面的な物事を単一の価値尺度で測り優劣を論じることに意義を感じるのは
己の定規がこの世界の全貌だとするミスリーディングのなせる業である
13.5氏の"指摘"の列挙は個人的な趣味とイズムの独白に過ぎない
なお、当該文章には議論板の規定に違反しかねない表現を含んでいるので
以後の議論板では規範遵守を心掛けて発言していただきたい
「僕のこの考え、合ってますよね?皆さんはどういう考えを持っていますか?」
というのが議論で
「君のその考え、間違ってますよ?僕はこういう考えを持っています、認めなさい」
というのが喧嘩
前者は考えやテーマに焦点が向けられているのに対し
後者は人に焦点が向けられている
噛み砕いて言うと
前者は「このテーマについて話そう、話せるなら相手は誰でもOK」
後者は「君について話そう、テーマは何でもOK」
という違いがある
例えば「なぜ人を殺してはいけないのか?」というトピックが立っているけど
この議論板のスレッドは、このテーマについて話したい・考えたい・聞きたい人が
集まる場なんだけど
喧嘩板の場合は、人を殺してはいけない理由とか本当は興味ないんだけど
喧嘩をするためにそのテーマを利用する人たち、が集まるスレッドになるよね
喧嘩板では喧嘩をすることが目的でテーマが単なる代替可能な手段に過ぎないのだから
相手の間違いを指摘したり論点がずれたりしてるうちに
「なぜ人を殺してはいけないのかがハッキリしないまま決着がつく」ってのも
往々にしてあるんじゃない?
・・・なので、本来ならば「相手の主張などは二の次」どころか
議論においてこそ相手の主張を尊重すべきだよね、と思います
>3
劣化という言葉には気をつけないといけない様だね。
喧嘩板と議論板の優劣を分かりやすく示す羅針盤は閲覧数と利用者数かな
議論板人口は喧嘩板人口より少ない事実は否めない
Q.E.D
>4
「テーマ」で論争するのが議論板
「人」と論争するのが喧嘩板
これはちょいと違うかな
喧嘩板は定期的にランキング発表が成されているんだが…強者(人)に弱者がわざわざ喧嘩をふっかることは少ない
「少ない」という表現がポイント!明らかに自身より喧嘩ランク上級者にそれでも喧嘩をふっかける場合はこのテーマなら俺の方が詳しい、俺の方が語れる、という論争テーマが基準になっている
議論板はテーマのみに論争が留まる二者択一な狭い視野での論争
かたや喧嘩板とはいえ幅を広げ過ぎるとスレチになる点では議論板と変わらないが
漁夫の利という言葉がある様に突如第三者の視点が評価される場合もある
それが意味するのは同じテーマでも広い視点で論争されているからであろう
サンプルは多ければ多いほど質の良さを吟味する選択肢も増え、より良い質が選出出来るのだ
Q.E.D
>>6
統計を提示しただけやん
閲覧数から優劣を定めることが誰にとってどんな利益をもたらすか
持論を展開するのがあなたの仕事でっせ
>>7
そういうのも論争テーマが基準というよりは
「そのテーマにおいて相手よりも詳しい自分」
あるいは「そのテーマにおいて有利である自分」
つまりは「強い相手/弱い相手/強い自分/弱い自分」
といったように、人が基準になっているというのが僕の言いたいことです
そのテーマにおいて相手より自分のほうが詳しいから喧嘩を吹っ掛ける
・・・という行動理念は、つまるところ、言い換えると
「自分のほうが詳しくて有利なテーマなら何だってOK」
といったところでしょ
僕の抱くイメージとしては
議論板は商品開発、喧嘩板は販売営業、みたいな感じだ
例えば開発部が加熱式タバコ(iQOUのような)を開発するときは
副流煙やニオイをなるべく出さないというテーマに意識を向けて、いろいろ試行錯誤するわけです
「より煙が少なくて、より風味が楽しめる」ものを作ることが商品開発における成功となる
かたや販売営業においては
例えば煙とかぜんぜん気にしてない人に対しても
「1日**本吸うなら、*ヵ月目以降は従来品のタバコを使用するより**円安くなりますよ」
みたいな、客に合わせてこういうアプローチもできちゃう
開発部がランニングコストを特に意識せず商品を作ったとしても
買わせたい相手が副流煙とか全く気にしてない人だったとしても
結果的にそれがセールスポイントとして利用できるなら、それでOKなんだ
作る「モノ」に焦点を当てるか、使う「ヒト」に焦点を当てるか
そういう違いが議論板と喧嘩板にもあるんじゃないかな、って思うよ
>>10
僕はルールの異なるカテゴリを「勝敗」「怒りの発露」「閲覧数」「ランキング制度の有無」といった同一の価値観で評価し
優劣をつけることの意義にのみ疑問を呈しているので
>>7は僕への回答ではないね
>>11
行動理念については…
このテーマなら俺の方が強い、彼の方が強い
それを認識把握してからそのスレで論争参加したのなら…
「そのスレ限定にその『テーマ』で論争する喧嘩師」として捉えるべきであり「喧嘩板における喧嘩師の論争理由」として喧嘩師としての『人』として一緒くたにした概念で捉えてはいけない、というのが当方の意見
電子タバコのサンプルについては…
俺は逆の発想かな
議論板は販売営業、喧嘩板は商品開発にした方が良いだろう
>7の文末でも書いたが商品開発にあたりサンプルは幾つでもあった方が質の良い商品作りに繋がるだろう
副流煙や匂いなどの絞りこんだテーマの二者択一の最終判断はより多くの消費者達の声を活かした物作り対応を念頭にしつつ弊社でも作れる電子タバコとして絞り込むのが望ましい
つまり副流煙や匂いの他にもデザイン性やら経済性やら耐久性やら味の向上性やら消費者の広い意見を商品開発部は取り入れてプロジェクトチームを増やして対応するのが望ましい
販売営業は、議論板の様に喫煙者がタバコから電子タバコへ移行するか?否か?の二者択一な場面において上手く弊社の電子タバコのセールスポイントだけを論述出来れば良い
そうでないと弊社商品以外に同業他者の商品にも消費者の目が向かってしまう恐れもありその選択肢を広くさせない方がいいだろう
>>12
板における多種スレッドは議論板も喧嘩板も条件は同じ
異種格闘技戦の試合会場が議論板会場か?喧嘩板会場なのか?の違いであり
そこに足を運ぶ観客数が喧嘩板会場の方が多いのは事実
そして観客は選手に代わってリングに上がっても良いのだし、参加者が多ければそれに比例してより良い論争が成される対戦機回数も多くなる可能性が高まる条件として見なしても何ら問題はないという確率の話であり個々の試合内容に触れた確証ではない
下手な鉄砲撃ちでも持ち玉の多さに比例して当たる可能性も高まるに似た発想だと思ってくれ
>>14
議論と喧嘩を「異種格闘技戦」と同一視して会場のみが違うように例えるのが不適
双方のルールが違うということはあなたが>>1の対比で自ら言及したでしょ
格闘技を引き合いに出して、「空手」と「剣道」を例にとってみようか
世界空手連盟によれば、世界の空手の競技人口は約6000万人
剣道連盟によれば、世界の剣道の競技人口はわずか161万人
その差は5800万人と非常に大きい
では、あなたの論理をこの統計に当てはめて考えよう
「『空手』は『剣道』より競技人口が多い。従って『空手』は対戦回数が多い分、絶対値としては『剣道』よりも<優れた試合>が多く行われている」
ここまでは理論として正しいかもしれない
では、あなたは「『空手』という競技は『剣道』という競技より優れた武術」と断言できる?
あるいは「『空手家』は『剣道家』より優れた武術家である」と断言できる?
答えはNOだ
なぜなら異なる競技を「競技人口」という単一の価値尺度で測り優劣を定めるという試みがナンセンスだから
同様に、たとえ同系列であっても2つの文化圏(当スレでいう議論板と喧嘩板)を閲覧数や利用者数で捉え
質的な優位性を説くことは不可能であるということがいえる
Q.E.Dでいいかな
>>15
>なぜなら異なる競技を「競技人口」という単一の価値尺度で測り優劣を定めるという試みがナンセンスだから
同様に、たとえ同系列であっても2つの文化圏(当スレでいう議論板と喧嘩板)を閲覧数や利用者数で捉え質的な優位性を説くことは不可能であるということがいえる
俺の説明不足だったかな
剣道も空手も議論会場でも喧嘩会場でも試合出来るよ、同じく剣道も柔道も楽しめるのに…
何故?議論会場が人気無くて喧嘩会場が人気あるんだい?
それは、試合会場に人気を左右する理由があるんじゃないの?という主張です
剣道と柔道という異種ジャンルのスポーツ競技の優劣を評価してるわけではありませんよ
喧嘩会場の方が議論会場より人気がある理由を>1で説明しました
負けん気という闘志剥き出しにした試合の方が見ていても面白いし、
選手達もセーブせずに闘志という暴言やらを遠慮なく使えた方が思う存分楽しめるからどうせ内容が被ってるのなら喧嘩会場で思いっきり楽しみたいのでは?
だから議論板は喧嘩板の二番煎じで不人気なんですよ、という話をしてます
>>16
>>剣道も空手も議論会場でも喧嘩会場でも試合出来るよ、同じく剣道も柔道も楽しめるのに…
うーん勝敗の判定法や馬頭表現の許容といったルールの差異を剣道・空手で例えたんやけどね……
剣道家と空手家が同会場で戦ったらルールかち合って勝敗つかないじゃん?
喧嘩と議論は主張の交錯という面で類似しているが同一ではない
そもそもあなたは喧嘩板に添付されたリンクを踏んできたのだから差異を認知した上でこのスレを立てていなければならないんやで
>>負けん気という闘志剥き出しにした試合の方が見ていても面白いし
"面白い"というのはあなたの主観であって普遍的事実ではありません
たとえ面白いと感じる人間が全住民の多数派であったとしても
そうでないと考える人の一定数いる事実がコミュニティ多様性保護の観点で議論板の存在意義を示しています
>>喧嘩会場で思いっきり楽しみたいのでは?
喧嘩板が併設された以後も議論板に利用者が存在することがそれを否定します
>>議論板は喧嘩板の二番煎じ
時系列的に「二番煎じ」という表現は不適切です
>>不人気なんですよ、という話をしてます
もしそう思うなら活性化の手段を模索する方が有益な議論になるのでは?
僕も喧嘩のエンターテイメント性については認める立場だけど
それは議論板の地位を貶める理由にはならないし
互いのコミュニケーションのためにそれぞれ立ってんだから住み分けくらいしような
>>17
話が噛み合ってなかったねw
>うーん勝敗の判定法や馬頭表現の許容といったルールの差異を剣道・空手で例えたんやけどね……
剣道家と空手家が同会場で戦ったらルールかち合って勝敗つかないじゃん?
↓
こちらは剣道対決も空手対決も混同することなくそれぞれが対戦できる意味を指していて其れはスレッドを意味している
つまり議論板という会場でも喧嘩板という会場でも
〇〇対〇〇の形式でどちらの板にも同スレッド内容で立てられるという意味
喧嘩と議論は主張の交錯という面で類似しているが同一ではない
そもそもあなたは喧嘩板に添付されたリンクを踏んできたのだから差異を認知した上でこのスレを立てていなければならないんやで
↓
暴言を使用出来るという、言葉を選ばずに二者択一以上の視点で論争できる大きなサークルがあり、そのサークルグラフの中に議論板という小さなサークルグラフは含まれているという話だね
>負けん気という闘志剥き出しにした試合の方が見ていても面白いし
"面白い"というのはあなたの主観であって普遍的事実ではありません
↓
論争するからには対戦相手の主張は自身の主張とは真逆なものであり揚げ足取りをその勢いのまま熱い感情を持って煽れるのが喧嘩板で、クール気取りで一旦寝かせたり冷ましてから否定する議論板では第三者の視点からもどちらの対戦様子が感情の変動が面白く見れるか、の意味で捉えて欲しい
>たとえ面白いと感じる人間が全住民の多数派であったとしても
そうでないと考える人の一定数いる事実がコミュニティ多様性保護の観点で議論板の存在意義を示しています
↓
なるほど、それでは面白い面白くないのこの問題はフィフティフィフティということにしときましょうかね
>(喧嘩板の方が需要がある)喧嘩板が併設された以後も議論板に利用者が存在することがそれを否定します
↓
その主張は…バカスカと売れるラーメン屋とそこそこ売れるラーメン屋を比べた様なもの
そりゃあバカスカ売れるとまでは言わないがそこそこ売れるのだし「売れる」という観点を否定はいるのではなく「どちらが」売れるラーメン屋なのか?と両者を比較したもの
>議論板は喧嘩板の二番煎じ
時系列的に「二番煎じ」という表現は不適切です
↓
時系列的な部分ではなく南雲氏やサイフォン氏の様な喧嘩師だった者が落ち着く先として天下り先として二番煎じと表現したもの
>不人気なんですよ、という話をしてます
もしそう思うなら活性化の手段を模索する方が有益な議論になるのでは?
↓
ならないでしょうなw
議論板の様に熱い感情を押し殺して表現するのは煩わしいしリアルタイムで論争を楽しめてるなら、それに越したものはないからね
13.5氏は喧嘩板でトーナメントクイズを出題した13氏でしょうか…?
それはまあ良いとして
びーくんも言ってるが議論と喧嘩は別々の競技である。
CDショップでクラシックよりもポップスの販売数が多ければクラシックはポップスの劣化版なのか。
本屋さんで純文学よりも漫画のほうが売れていたら純文学は漫画の劣化版なのか。
テレビで吉本新喜劇の視聴率がドキュメンタリーを上回ればドキュメンタリーは新喜劇の劣化版なのか。
そして喧嘩板に議論板よりも多くの人が集まれば、議論板は喧嘩板の劣化版なのか。
>時系列的な部分ではなく南雲氏やサイフォン氏の様な喧嘩師だった者が落ち着く先として天下り先として二番煎じと表現したもの
私は議論板のほうが先ですよ。それに現在も、つい先日テレジョンに言われたけど私が喧嘩板でやってることは「議論の延長」であり喧嘩ではないと。
13.5氏が議論よりも喧嘩に魅力を感じているのはよく分かったし、現に喧嘩板のほうが利用者数が多いけど、それと優劣とは別の問題です。
>>20
お久しぶりですね
BB氏や南雲氏が言わんとすることは理解出来ていますよ
人気の優劣のみで異種なものを比べるのは間違えだということですよね
だから此方は完全に異種では無いという立場を取っているのですよ
喧嘩板と議論板は論争という立場では同じ
キャスフィの板の紹介にもお互いの板に誘導を勧めていることから、それは理解していただけますよね?
つまりポップとクラシックなんてほど離れていないのですよ
「ミクスチャー」というポップとロックの融合した早いテンポのミュージックを喧嘩板と例えたなら…ポップのみが議論板だと考えてくださいよ、という話なのです
そのあたりを>>19の中でサークルグラフを使って説明したのです
◎が論争ジャンルグラフを指してる場合、◎の外側の大きなサークルが喧嘩板、小さな内側のサークルが議論板だと考えて下さい、という話です
そして南雲氏が説明しているのは
サークルが音楽を指してるときの→◯●◉⚪︎⚫︎こんな様々なジャンルを指しているのです
ポップ、ロック、パンク、ジャズ、クラシック等々…
喧嘩板も議論板もキャスフィフ掲示板という意味では一括りでしょうけれど
板分けした場合に各板を〇で表したのなら
〇〇〇〇〇〇◎と成り◎の内側の小さなサークルが議論板となります
同論争ジャンルの喧嘩板を〇とし、それを詳細化すると◎になりますよという話です
何故?外側の大きなサークルが喧嘩板ではあるか?は、論争に暴言も許されている制限無しの喧嘩板の中に制限を設けた議論板のサークルがあるからです
スポーツで例えるのなら…南雲氏は野球とサッカーを私が比べてると勘違いしてる様ですが…
私の主張はサッカーゲームを喧嘩板、
サッカーゲームで決着がつかなかった場合に行われる「PK戦」を議論板だと考えてくれるのが分かりやすいでしょう
11名対11名のサッカーゲーム中にボールをキープしている1名の選手からボールを取り上げる為に何名がかりでも取りにかかって良いのが喧嘩板
対してPK戦の様に1対1で交互に攻守を繰り返していくのを議論板と考えてくれたなら分かりやすいことでしょう
なるほど、13.5氏のとらえ方はわかった。
私は議論板と喧嘩板の関係を、「音楽」という共通する大きな区分の中の異なる分野、あるいは「本」、「テレビ番組」という仲間に属する異なるジャンルと考えていたけれど、13.5氏は「◎」で示したように、「サッカー」という単一のものにおいて、喧嘩がその全体(外側の大きな○)であり、議論が「PK戦」という一部分(内側の小さな○)というとらえ方をしているわけだよね。
そして、喧嘩の方が広く、議論のほうが狭い理由は、喧嘩のほうがルールが緩く、煽りや罵倒などが許容されている(もちろんしなくてもOK)なのに対し、議論はそれらが禁じられている。だから、議論は喧嘩の一部分という認識でいいのかな。
しかし、私はそうは思わない。喧嘩は「相手を倒すこと」が目的であるのに対し、議論は相手を論破することも目的の一つではあっても、また「互いに論を深める」ことも目的に含まれる。従って、議論をした結果、共通の結論に至る場合もある。
私が過去にここで共産党支持者さんとやった議論などは、まさに議論しているうちに双方の見解の共通点と相違点とが明確になり、結果的には、細かい意見の相違はあるけれども大筋では一致しているという結論に達することが多かった。議論は、このように合意して終了することも目的となる。しかし喧嘩は、どちらかが論破するか、それが明確にならなければ判定に頼る場合もあり、とにかく勝敗を決するという終着点を目的としている。
目的が異なるものを同一のものに括り、議論は喧嘩の一部分というのは無理があると思う。むしろ、論を戦わせるという共通点、重複した部分をもつ別々のものだという認識が妥当だと思う。
また、仮に、仮にだけれども議論が喧嘩の一部分だとする。その根拠は喧嘩はルールが緩く、議論はルールが厳しいからということだ。喧嘩板で議論(煽り等抜きで)は可だけれど、議論板で喧嘩は不可だから、喧嘩の中に議論が含まれると仮定する。そして現実としてあるのは、喧嘩板の人口のほうが、議論板の人口よりも多い。
そうだとしても、喧嘩が議論よりも優れていると言うことはできない。たとえば、殴り合いの喧嘩に様々なルール、制限を設けたのがボクシングと見ることができるように、議論は喧嘩を洗練したもの、という見方も可能だ。世の中に、殴り合いの喧嘩をする人のほうが、ボクシングの競技人口よりもはるかに多いだろう。それは殴り合いの喧嘩がボクシングよりも優れているからではなく、ルールによって制限された結果、ただの無法な乱暴者が排除されたからであり、ボクシングのほうが優れていると言える。ネット喧嘩と議論の関係も、そのような見方ができる。
私は別に、議論が喧嘩よりも優れていると言うつもりはない。私の主張は、共通部分はあっても別々のものなので優劣を論じられないということだ。しかし、仮に別々のものでなく議論を喧嘩の一部と位置づけたとしても、13.5氏のように人口(人気)で評価するか、私の示したようにルールを設けることで洗練されたと見るか、見る角度によって優劣が変わってくる。
つまり、「優劣を測る定規はひとつではない」ということだ。
>>22
こちらの主張は議論は喧嘩の一部分という認識で構いません
南雲氏の主張を理解しているうえで何点か反論させて頂きたい
>喧嘩は「相手を倒すこと」が目的であるのに対し、議論は相手を論破することも目的の一つではあっても、また「互いに論を深める」ことも目的に含まれる
↓
本来の喧嘩の目的は南雲氏の主張通りだと思います
ただ今現在の喧嘩板は本来の目的通りにスレ立てしてますかね?
ひとつひとつのスレが論破等、決着が着いてスレが終わってませんよね?
例えば「てきとうに仕事する」は「適当に」と字に表せば「的確な仕事する」と本来の意で使われてることが理解出来ますが…日常会話で「テキトーに仕事する」なんて言葉を耳にした時は「いい加減な仕事をする」の様な悪い印象を受けませんかね?
「いい加減」も本来の意味は「良い加減」であり褒め言葉ですが…「いい加減にしろ!」とか「お前はいい加減な奴だな」の様に悪い意味で使われる様になってしまいましたよね…
「ネット用語」とかもその一種ですね
辞書の意味(本来の意味)とかけ離れた独自な意味での使われ方です
私達の喧嘩はネット喧嘩でありネット用語が現代語の意味より重視されてると思います
話を戻すと今の喧嘩板は本来の使われ方はされてません
強者同士がランク発表を見て馴れ合っているのは事実です
その馴れ合いの理由の一つとして過去の対戦から論破を超えた対戦者同士にしか分からない何かがきっかけでわだかまりが無くなったのかも知れません
その何かは、議論板でいう「論を深めた仲」と同じものに値すると思います
>議論は、合意して終了することも目的とし、かたや喧嘩は、どちらかが論破するか、それが明確にならなければ判定に頼る場合もあり、とにかく勝敗を決するという終着点を目的としている
この考え方は議論や喧嘩というより「論争の起源」として捉えるべきではないでしょうかね?
例えば政治家による日米会談やら南北会談があった場合、洗練された議論交渉が行われます
其処には暴言は勿論無いはずです…ただし、その目的は相手国に対して自国の有利になる条約やらの押し付けが目的にあるのです
その会談が終了してにこやかに大統領同士が握手してる場面を映して「行われた会談(洗練された議論)は両国合意して終了」と表現することも出来ますが…その奥底にあるものは、論争に勝てる交渉を持ってどれだけ自国の論を相手国に認めさせたか?喧嘩板でいう論破と似たものではないでしょうか?
その意味でも洗練された議論も喧嘩も結局は論争を通して自己の奥底にあるものを吐き出せて、その結果に自己が納得したか、しなかったかで捉えて良いものだと思います
北の大将ロケットマンの南国や米国への煽りは今もなお続いてますね…
もしも、これで韓国やら米国が北朝鮮との会談後に北朝鮮側の交渉に何らかの譲歩した条件をのむ様なら…
論争中の煽りは有効なものとして成立してしまいますねw
煽りが許されてるのは喧嘩板です!
…なんていう主張は、
喧嘩が議論より上だなんていう優劣を測る定規のひとつには値しませんかね?(笑)
>>23
>ただ今現在の喧嘩板は本来の目的通りにスレ立てしてますかね?
>ひとつひとつのスレが論破等、決着が着いてスレが終わってませんよね?
ここの喧嘩板は「喧嘩ができる板」であり、「喧嘩をしなければならない板」ではない。つまり、喧嘩をせず、議論もせず、雑談をしても良いし、単発スレを立ててもよい。今、自由板で「喧嘩板に乱立する単発スレを自由板でやってくれれば」という話も出てきているが、単発スレは本来的には自由板の担うべき部分であっても、喧嘩板で禁止というわけではない。
私は、喧嘩の目指すところと、議論の目指すところは異なると言ったが、ここの「喧嘩板」は、必ずしも喧嘩の目指すところを目指さなくても良い。ただ、純粋に「喧嘩と議論」を比較したならば、双方の目的が異なるのだから、喧嘩が議論よりも優れているわけではないということだ。
また、「喧嘩と議論」という視点ではなく、「喧嘩板と議論板」という視点に立った場合は、議論板のほうがルールが厳しい、制約が多いという特徴がある。しかし、ルールが厳しく、利用者数が少ないことを根拠に優劣を決めることができないことも、ボクシングを例に>>22で述べている。
ここの「喧嘩板」は、待合室を除けば全ての機能を包含している。雑談をしても単発スレを立ててもよい。仮に、ルールが緩く許容範囲が広いことが優れていると断ずる根拠になるなら、喧嘩板は全ての板に勝ることになる。また、待合室は他板を規制されても最後まで規制されない板であることから、待合室が最も優れた板であることになってしまう。その考え方によれば、無法地帯こそが究極の優秀なる状態ということになる。おかしいとは思わないか。
逆に、最もルールが厳しく自由の利かないのが雑談板だから、雑談板が最も劣った板ということになる。13.5氏の論法ではそのようになってしまう。
ちなみに、>>22では国際政治における議論を例示しているが、これは全く別の範疇だ。外交の世界では、「戦争も外交の手段」である。他国との対立を自国有利に解決するのが外交であり、それは穏便な話し合いから、喧嘩、恫喝、買収や暗殺、最終的には戦争まで、外交の手段に含まれる。
そんな背景を持つ外交上の議論は、ここの議論板で言うところの議論とは全く異質で、喧嘩よりもはるかに広い内容を含むものだ。広いほうが優れているという価値観によるならば、喧嘩よりも外交上の議論が広く優れていることになる。
>>22で私は「優劣を測る定規はひとつではない」と言ったが、人口(人気)が、定規のひとつであることは否定しない。>>19の例で言えば、売れているラーメン屋とそうでないラーメン屋を比較して、「売れている」という事実が、優劣を判断する材料のひとつであることは否定していない。同様に、CDや本の販売数や番組の視聴率も、優劣を判断するための指標のひとつとなり得るのであって、「優劣を測る定規のひとつに値しないのか」と尋ねられると、それは値する。それを否定している訳ではないよ。
ただ、それは「定規のひとつ」だが、それのみで全てが語れる「唯一の定規」ではないと私は言っている。私の言ったような観点、何でもありの喧嘩よりもルールの整備された議論のほうが洗練されているという視点も、また「定規のひとつ」に値する。優劣を論じるときは、一面で判断すべきでなく、多面的な視点に立つ必要がある。
議論板は喧嘩板の劣化版というのは、そういう多面的な視点に欠けた一面的な判断ではないだろうか。
>>南雲氏
>>議論板の皆さまへ
議論板に対して二番煎じやら劣化板などの失礼な発言を取消します
論破に至らず雑談やら馴れ合い、くだらない煽り暴言で終わりを告げてしまう喧嘩板より
南雲氏をはじめ、BB氏やコテハンの無い人と真面目に論じられ、議論板への印象が変わりました
議論板と喧嘩板は論争という一部の共通部分がありつつも両者は別物であり、洗練された議論にはルール無用の喧嘩には無い質の良い論争部分を感じ取ることが出来ました
お世話になりましたm(_ _)m
ぼくはイタリア人とフランス人の見分けがつきませんが、日本人と中国人の見分けはなんとなくつきます。
ここのスレッドでやられている事は、喧嘩なのか議論なのかわかりませんでした。
何故なら、喧嘩板にあってもなんら違和感のないやり取りだから。
でも多分、ぼくが思うに、議論板で行われているやり取りだから議論なんでしょう。
あなた達がイタリア人だとして、自分たちはフランス人ではないと、そう仰っている事は重々わかるのですが、
少なからず、ぼくのような日本人から同一視されていることは問題視すべきでは?
「イタリア人だからフランス人ではない」でばっさり切られても、
でも議論板の劣化の一因に喧嘩板の存在があるんですよね?
そこを無視して議論が終着することへの違和感がぬぐえませんでした。おしまい。