常々思うが、文学が何故アカデミックを纏ってるのか理解できないのだ
たかだかテキスト創作分野
同じ創作ならシナリオも映像も創れる映画他映像クリエイターの方がよっぽどすごいと感じる
漫画家もそうだ。
漫画は絵とコンテとテキストの総合芸術である
いずれも娯楽ではあるが、
小説も所詮娯楽である
何故か小説というと一段高い位置にあるアカデミックなイメージをわざわざ付けたがる
小説を熱心に読んでいるやつを見かけると思うよ
貧乏ゆすりしながら小説を読んでいる
きっと小説愛好者は知性も知能も足りないんだろう
確かにテキストで表現するのは、ある程度スキルが居るだろう
しかしその作家性のあるテキストはまやかしに過ぎない
小説なんてたかがテキスト
変に高尚振るのは愚かであり、本来の創造を否定していると思うのだ
まだ文学が意味を持っていた時代を生きていた
アラウンド50、
いや、
アラウンド還暦、
いや、
アラウンド古希
のワナビーが、哀れでならない。
俺の人生は何だったのか、と。
そして島田雅彦なら、ならばそれを小説にしなさい、
と余計なことを言うかもしれない。
天使があと20年はやく生まれていれば、彼女はその文学的資源をほとんど島田雅彦のために浪費していたであろう
三島由紀夫(つまりワシ)と平野啓一郎が並列される時代に生まれたのはラッキーだった
小谷野敦(文芸評論家)『芥川賞の偏差値』より
高橋揆一郎『伸予』・・・偏差値72
村田沙耶香『コンビニ人間』・・・偏差値72
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松本清張『ある「小倉日記」伝』・・・偏差値64
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又吉 『火花』・・・偏差値49
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綿矢りさ『蹴りたい背中』・・・偏差値44
平野啓一郎『日蝕』・・・偏差値42
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石原慎太郎『太陽の季節』・・・偏差値38
おいおい、大学の教授ってこんなものなんか?
ま、日本の大学レベルが世界的に見て下位にあるのは、こんな教授がいるせいなんだろうね。