> 仮定1~3を認めてるので
だから・・・俺がそれを認めた(ときみの目に映った)のはどこですか・・・?
>>111より
>> 「AはAである」という文章がトートロジーであり、よって「Aである」は情報量として計上されない・・・というきみの言わんとする理屈は理解しているよ
>> (それについては「AはBであるという見方もできる」という視点の話を>>91でしているよ)
これとかは、まさに「認めていないこと」を示す発言だと思うのだけれど、なぜスルーしているのですか
俺が>>129で言った「言外の意味」についての説明も、なぜスルーしているのですか
> 何個もあるから面倒
と言うのであれば、まずは1つに絞ってみますが
>> 1. 当初は会話相手のハンドルネームを「ぶ闇」だと誤認していた
>> 2. 途中で視力が良く解像度の高いモニタの使用者が「ぷ闇のハンドルネームはぷ闇だ」と発言した
>> 3. 2の発言をうけて、俺は「彼のハンドルネームはぶ闇ではなくぷ闇だったのか」という新たな情報を得る
この例はなぜ成立しないのですか
俺はいろいろなシチュエーションに言及しましたが、その中でもこの例は「仮定1~3を(本来認めてはいませんが)仮に認めたとしても」成り立つかと思います
Aが何らかの文字列にすぎない場合に、
「AのハンドルネームはAである」ことは知っている知識に計上できますか?
太:トートロジーなので、できない
俺:シチュエーションによる
というのが「確認できた内容の範囲」だよ
なぜ「太:トートロジーなので、できない」が仮定の側に差し替えられているのですか
興味が薄れてきたのならば俺は「もういいよ」と返しますが
やはりそれでも下らない抵抗は続けるんだろうなあ