会話の際は話し手、読み手の労力は共に充分であってほしものですね…
天使さんとかおでんさんを見ていると、相手の労力100、自分の労力0の姿勢を心掛けているような気がしてなりません
だからくだらない解釈ミスなんぞを「脳内補完できそうなものにもかかわらず」問題視するような喧嘩になりがちなんじゃないんでしょうか
今回、俺はある程度読み手の読解力、解釈力を信じて発言した節はありましたが、パーツだけを用意して矛盾だ、と叫ぶのは藁人形論法なんじゃないんでしょうか?
俺は「事故死したかどうか知らない、でも事故死した現場を見た」という意味の言葉を発しているわけではなく
「事故死した現場を初めて見た(俺の推測が正しいのならば)」という意味の発言をしたんです