や、私も改めて名乗っておこう
コロネル 「最弱」という言葉がよく似合う者。
日本についてか。
自我を排除し共有や共栄というモノに支配された国。最早それは凡百の狂国と大差ない。
「馴れ合い」の本質は妥協だ。
だが妥協は自我の敵だ。日本人は馴れ合いを理由に 妥協し、争いを避けている。これはとても悲しいことだ。
争いが悪であるかのような風潮がそうさせたのだろうか?
然り。
傷を負ってまで守るほどの自我がない。自我の欠如 。五臓六腑より重んじられるべきものをゴミのように扱っている。
おかげでこの国にはそうした腐敗が浸透している。平和ボケは即ち「死」だ。
呑気にも一人夜道を歩く女子供。
社会を全く見ようとせず、人気者の粗探し。
独立志向がなく、自国のことすら外国に守ってもらおうとする腐れ国民。
そして、そんな状態で自我を守りきれるだろうと思い込むその傲慢さ。
ごもっとも、このような有り様に成り果てて尚日本がしつこく残っているということには、滅法納得がいかない。
いずれ壊さなければ、日本は─日本人は何もかもを忘れてしまう。
己というものも 戦うということの意味も 何もかもを忘れて、更に平和ボケが進行してしまう。
異を唱えることの本質 戦いの本質 それは生だ。生がそれらを可能にし、それらをすることで生を謳歌出来る。
戦いの場で降伏すれば、二度と本来の戦には戻れない。戦えなければ得られるものなどひとつもない。
それは自我と自我の戦においても何一つ変わらない。自我のために全てを投げ捨て、裸となっても尚執念で戦う。
それが唯一の道だ。刺されたら敗北だ。だが敗北が待ち受ける道であろうと進まなければ、そんなものはただの植物と同じだ。
戦いの結果が敗北ならばその敗北は素晴らしい。たとえ踏まれ蹴られ詰られようと、戦いによって得られた結果ならば良い。
戦わないモノにはそれすらも無いのだから。
日本人は戦わないままここまで来た。過去の戦争が自分たちの自我を保証してくれていると勘違いし、都合よく戦いを放棄した。
私は最弱だろうが戦うことを好む。
自我のため、結果のために戦う。そうして人間であり続ける。
他者を拠り所にし、完全に本質から逃げ出した多くの国民たちとは根本から違う。
個性、性格 それらもそうだ。
何もせず他者と比べられるようなものではない。戦ってこそ、それらを主張出来るのだ。
どこを探そうと、無傷で 不戦で 誰も傷つけずに得られるもの、見せつけられるものは無いということに それくらいのことにも 日本人は気付いていないのだ。
そんな日本人のことは「最弱」にも値しない 最早強弱の世界にも置けないモノだと思ってるよ。