人を殺せるが、自分が殺されるリスクが高い社会と
人は殺せないが、自分も殺されるリスクが低い社会。
前者のほうが全体にとって都合がいい。そういうことだと思う
何故人を殴ってはいけないか、に置き換えると分かりやすい。一つの理由としては、社会的に考えるなら「強い者が弱い者を殴る世界が構築されるから。」道徳的に考えるならば、「殴られる事はすごく痛くて辛いから。」←こういう共感性を持ってない人間は殴られた(殺された)ほうがいい
別に殺人を許される殺伐とした社会を望んでるわけじゃないんだけど、
まず「人を殺してはいけない」っていうルールは人間が勝手に考えたものだというのは事実。(そもそも「ルール」という概念そのものが人間特有のもの)
ただその人間が生きやすい社会を作ったため、わざわざ人を殺す必要性がなくなっていった。
その単なる「事実」を脳内で発達した新皮質によって「ルール」と錯覚してるのが人間なんじゃないかなって思う。
つまり、「人を殺してはいけない」というのが普遍的なルールだと本気で思い込んでいる人達は、
どこかの誰かによる生存戦略のいい駒として動かされてるんだろう。
今のこの社会は、元々存在していたルールによって作られているのではなく、
所詮は個々の人間を起点としたそれぞれの戦略の一致がドミノ倒しのように広がっていった結果なんだと思う。
基本的に人間は人に殺されたくないと思ってるんだよね
だから人を殺す人は自然に社会から追い出される
社会で生きていく上での最低限のマナー
>>32
「ルール」として決めたのは人間しかいないけれど殺す必要がなければ殺さないように動物はなってる
そもそもわざわざ同族を殺す必要性が存在するなんて動物でも滅多にないよ。
人間は言語を使えたから共通認識を明文化しただけでしょ
「いけない」ってのは、道徳的な絶対的普遍ルールみたいな感じでよくわからない基準に基づいての「人としてしてはいけない」みたいな類のものなのか、はたまた自分あるいは特定の人物にとって好ましくない事が起こるという意味なのか、どういった意味を込めての「人を殺してはいけない」なの?
人は文明として利益がないと殺しはしないと思う
動物でも食料や研究の対象になったり人間に害を与える存在を消す等の利益になること以外では無闇な殺生はあまりしていない
殺人に関しても戦争などその文明(国単位になるけど)として利益が望めることになれば躊躇わない
もし私怨での殺人が日常茶飯事になったら優秀な人材なんかも些細なことで殺される
そんなことがあったら文明の発展が望めない、大損害
だから人殺しをしづらい環境を作った
簡潔に言うと文明発展に不利だから殺しはしちゃいけないことになってるってことかと
>>43
人として利益がないと殺しはしないのに私怨や通り魔が発生するの?
その殺しはしないっていうのは殺しづらい法があった場合の状況?ない場合の状況?
人間社会が暴力に支配されるから。
生命と財産が暴力により奪われるなら、社会の体を成さない。
だからこその法治国家であり、法により生命と財産を守り、社会を維持、反映させるため。
厳密には「正当防衛」によって、
「刑法」が個人や集団の自由の妨害を阻止出来なかった時に「殺す」ことが認められているので
「人を殺してはいけない」ことはない
叉、金正恩のような、国際社会を揺るがす人間も、いざとなれば「殺す」ことが認められる。
みんな殺されるのは嫌だから…?
誰かが殺されたらその人の家族とか友達も悲しむから?
一方的に殺されたらその人が損するだけだから?
みんな平等じゃなきゃいけないから
殺す人だけ満足して、殺される人が損することになったら不平等だから?
あれでもなんで平等じゃないといけないんだ……?
それとも殺してもいいことになってたら
殺し合いが発生していずれ人間が絶滅してしまうから?
ダメだバカすぎて分からない。
でも文明のためにっていうのはなんか違うような…
なんかもっと道徳的な何かがある気がする…というかそうであってほしい。
理由なんてその時代、その時、その国の文化とか色々な環境
背景で変わってくるものだと思う
昔なら自分の利益のために殺し合いもあってそれが容認される時代もあったし
今でも国によっては道徳的なこと抜きに粛清として殺されることもあるし
これからもし食糧難になり、人口だけが膨大になれば
簡単に人を殺すなんて環境になるのかもしれない
そのとき、そのときの生きている人、環境によって理由なんてころころ変わるだろうしずっと価値観が変わらないのかもしれないし
結局理由なんてそのときの時代やらなにやらのとってつけた理由でしかないのかもよ
>>1
藻塩さん。素晴らしい疑問ですね!
「なぜ殺人は違法なのか」についての答えが多くあがっているので、
少しひねくれて「善悪」という観点から考察してみたいと思います。
(先に言いますが結論は出ませんので悪しからず...)
現在、私達の生きる社会においては基本的に「最大多数の最大幸福」が目指されており、
善悪の基準はおおよそこの功利主義的な観点によって左右される事が多いのです。
どういうことかと言うと、例えば幸福を数値化できるとして、
1人の人間が幸福100を得るよりも、20人の人間が幸福10ずつ得た場合のほうが、
結果として後者のほうが幸福の総数が多いので、後者を選択することが善であるという考え方です。
(※凄く簡単な、そして極端な例です)
しかしながらこの功利主義的な考え方が本当に正しいのか否かは未だ議論されることの多いテーマです。
貴方の前に赤いスイッチがあります。貴方がそれを押すと10人の人間が死にます。
ですが、10人が死ぬと、死ぬはずだった100人の命が助かります。
上記のよう(功利主義的)な考え方が正しいのならば、「100人を救うために10人を殺す行為」は善であると結論付けられますね?
ですが、もちろん10人を殺害するわけですから、この行為も「人殺し」に他なりません。
では、「人を殺してはいけない」という理念に基づき、10人を殺さずに、100人の人の死を待つのが善なのでしょうか?
(功利主義に対立する思想として義務論という考え方があります調べてみてね)
これらの道徳論が抱えた数多の道徳的ジレンマを考えるにあたっては有名な"トロッコ問題"という思考実験があります。
これはマイケル・サンデル教授がハーバード大学の講義で学生達にした問題提起としても有名です。
(Wikipediaなどで簡単に見つかりますので興味があったら読んでみて下さいね~!)
あなたはハーバードの学生でもなかなか答えの出せない難問に、中学生にして挑戦する素晴らしい哲学者です。
自分を馬鹿だと卑下する姿もさながらソクラテスですね!(無知の知と言います)
これからも知の探究に励んで下さいね~!
まず前置きだけど、人を殺してはいけないっていうのはあくまで期待可能性がある前提での話であって、例外的に人を殺してもいいことはある。
急迫不正の法益侵害が起きた場合。法益(自己または他人の生命)が急迫不正の侵害を受けた場合に最低限の反撃をして、仮にそれで殺してしまっても罪に問われない。
あと、二者択一の場合。これは、どちらか一方しか生き残れないという状況に陥った時のことを指す。
例えばAはBを殺さないと生き残れないし、BはAを殺さないと生き残れないってシチュエーション。
この場合AとBは二者択一関係にあると言える。なのでここではA及びBが適法行為に出るという期待可能性は持てない。
さて例外の話はこれくらいにしておいて本題へ。人を殺す行為は法律で罰せられる行為、つまり禁止された行為だから。
実際、刑法第26章殺人の罪 第199条にはこう記されてる。
「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」
一般に、この規範(ルール)による行為の評価は規範の評価を理解できると想定される構成員の意識に働きかけて、これに従って行動する構成員の行為によって秩序が維持される(またはそのように図られる)。
規範は、行為者に対して規範に合致した意思決定を行う義務を課しているから、その義務に違反して、違法な行為を行うという意思決定をし、これを実行した場合に社会的非難や呵責性が生じることになる。
1一般的に人を殺すと、殺された人の生命が奪われるが、この生命というのは法によって保護されることが容認されている利益(法益)という解釈がなされているので、人の生命を奪うことは違法なことだと評価出来る。
2近代社会とは 自由で平等な個人が自由意思のもとで他人との関係を構築していくもの。そのため、「個人(構成員)」は自律的且つ理性的な存在でなければならない。
日本国憲法は国民が国家に対してそれらを委託し、個人の基本的人権を示した上で人権侵害がない統治体系を構築することを目標としている。
そしてその目標を達成するための基礎的状況を確保すること(社会秩序維持機能を通じた自由及び法益を保護すること)が刑法の目的。
そのため刑法は行為の善悪の基準を記しており、その基準に違反した者に対しては刑罰を科する。
3少なくとも日本は一般的に「他人を殺さなければ自分が死ぬ」という、某世紀末漫画のような世界ではないので、「人を殺すことはいけないことなのか?」について議論する余地はない。
日本は、どのような基準かはさておき大抵のことを多数決で決めており、
その結果決まった規則に関しては多数派が説得し、少数派がそれに従う(結論には反対でも)という関係が成立している。
そしてその多数派の考え方は「社会は人間がその中で生きることができる空間でなければならない」というものなので、殺人はいけないものと解釈されている。
殺しても良い、殺してはいけないの基準は人それぞれだと思うので
殺したかったら殺せば良いと思います。
自分は、動けない高齢者は殺しても良いと思ってます。
>>53基準は刑法が定めています。それに賛成するか反対するかは自由ですが、違反は許されていません。
個人が「自律的且つ理性的」という近代社会における人間の定義に反する実行行為を行うと処罰されます。
この場合人を殺すということがそれに当たりますが、これは生命という法益に対する侵害なので処罰されるわけです。法益侵害は近代社会が定める秩序を乱すものであると評価出来るので、「悪」といえます。
自律的で理性的な人間は「殺されなければ殺される」というような特殊な状況でもない限り人を殺さないという適法行為が求められています。
法学面の話も興味深いけど
ここでいう殺してはいけないってのは近代国家の政治哲学というより
無政府状態も含めたあらゆる地域・時間軸において
「すべてを説明する原理」としての殺人の禁忌なんちゃうかな
ちなみにたびたび浮上してる論点っぽいけど
僕は「法律が定めたから禁止」っていう理由付けには妥当性がないと思う
法治国家に生まれたというだけで市民がすべての法を暗黙的に承諾してるっていうのは
多数派思想の人間に無制限の権限を与えることを少数派が(死票を入れた有権者だけでなく、たとえば思想を持たない乳児でさえ)事前に同意しているのと同義であって、これは契約の在り方として万全ではないから
世界には人を殺してもいい国もあるわけだから[s30]確実に[/s]「人を殺してはいけない」という共通認識を持ってる日本という共同体の中での話をしてると解釈するのは無理もない
人を殺してもいい所もある
人と殺してはダメな所もある
何かの都合や、事情でよしともなるしだめにもなる
なぜ人を殺してはいけないのかはその生まれた所のルールてでしかないのかもね
理由を求めてもその時そう決まったからって話で
またいつかは変わるかもしれないし
まず、単純に人を殺してはいけない!というだけでないのよ
どういう場合で殺してよくてどういう場合で殺しちゃいけないのか
そこをまとめていくと見えてくる
少なくとも>>1が知りたいのはこういう法律があるから禁止なんだよって知識よりも、
なぜその法が立法されるに至って、どういう合理的な裏付けがあるのかってレベルまで掘り下げた話だと思うんだけど。
単純に人殺しを許したら無秩序状態になるからだよ
ピッコロ大魔王が目指したような「無秩序」は人にとって有害だから。
プロレタリア等に苦しめられてきた人々は革命を起こして自由を手に入れた。
でもその自由は際限がないものだったから、結局無秩序となった。
何でもそうだよ、人間に過度に自由を与えると必ず問題が起きる
掘り下げていくと多分理由はそれぞれ変わっていくものだと
その時の権力や、背景やらで理由は色々で
その時々の都合とかで決まってしまっているものだと
殺してはいけないなんて法律はないし、「刑法199条に書いてあるから」といっても、『殺してはいけない』ということにはならない
罰則を受ける覚悟があるなら殺していいよ
無知の知
現世において神の他に真の知識を持つ者はいません。
唯一絶対たる主が悪と定めたから、悪なのです。
殺してもいいよっていう世界だったら
自分はいつ殺されるかわからないそんな環境にビクビクすることになるぞ。
なんか色々しんどそうだし怖いから。
だから人間同士が自分らより強い絶対的強者な存在、国家を作り、その上で法を作って、それらに逆らうといけないことになるよって罪や罰を人間が作るんだよ。
人を殺してはいけないていうのは、教育でもあり洗脳なんだと思う。
国家の下にあるルール。
ルールで禁止されていなかったら殺しても良いのか
「自分が殺されても構わない」という人は殺しても良いのか
失う家族や友人がいない人は殺しても良いのか
まず、いくら考えてもこの問いに答えを出せる者はいない。
問いそのものが不完全であるから答えも不完全なものにしかならない。
「法律で禁止されているから」というのは不完全は答えであって、
「その法律は○○という理由で作られた」という追加説明があってもやはり不完全な答えでしかない。
所詮、法律が無ければ人を殺しても良いという結論を導くだけだからだ。
だから、「人を殺してはいけない」理由の説明としては色々不足している。
こんな問いには、生憎不完全な答えしか出せないというわけだ。
今は「人を殺したらいけないかどうかは場合による」という答えだけしか出せまい。
だって、君達 「人を殺す」という純粋な行為を、何を根拠に責められる?