殺してはいけないというものは人間の心にある感情で逆に殺そうという感情もある。つまり人を殺してはいけないわけでもない。殺してはいけないというきまりを作ったからである。
>>9
そんなもん知らん
俺の考えは、人として生きていく以上、同じ人間同士で殺す殺されるという事は望ましくないから。
なんのために作ったのか
権力者とか力を持った人が殺されないために
設けたルールじゃない
自分に危害がないようにするための
1つとして作られたもの
>>10みたいに道徳的な理由を言っても
実際には権力者とか力を持った人に都合が悪ければ
適当にそれっぽい理由で人を殺させることもできる
というかしているわけだし
その時の力を持った人の都合がいいように作られた
ルールなんじゃないのかな
https://youtu.be/rCptEOgHyUs
これは酷い。最後らへんに教師が刃物で生徒を刺してる
「人を殺してはいけない」という法律的、または道徳的なルールがありながら、戦争で敵兵を殺すことは賞賛されるし、たくさん殺せばむしろ英雄として尊敬の対象にさえなる。この部分を含めて考えるべきだと思う。
根本的に、人間は個体での身体能力は他の動物に比べて劣っている。原始時代を考えれば分かるが、狩りで獲物をとる場合でも、猛獣から身を守る場合でも、人間は集団でこそ可能なうえ、ただの集団でなく役割分担を持った組織的な集団だからこそ生存することができた。チームプレイということもできる。集団内で殺し合いが次々と起きたら、チームプレイも何もあったもんじゃない。集団全体が獲物もとれず身を守ることもできず自滅するだけだ。
ところが、人間にとって最大の敵は猛獣よりも人間というのが特徴的だ。これは他の動物には見られない現象だ。他の動物も群れ同士で縄張り争いはやるが、自分たちの生存に必要な範囲を超えて、かつ自集団のかなりの犠牲もかえりみずに他集団を滅ぼしてしまうところ、人間の縄張り(領土)拡張欲は特別に強烈だと言える。
何故か知らないが人間はそういう習性を持ってしまった。食物連鎖の頂点に立っても満足しない。そういう人間同士の戦争行為に勝利し、または他集団の侵攻から自集団を守るためにも、自集団内での殺人行為は厳に禁止しなければ集団の滅亡につながる。一方で「敵」である人間を殺すことは、自集団の防衛や勢力拡大において賞賛されてきた。
皮肉なことにそれこそが人類繁栄の原動力になっている。単に猛獣相手に頂点に立てばいいだけなら、組織や役割分担も単純なもので事足りる。人間最大の敵が、常に自分たちと同じ能力を持つ人間だからこそ、国家や軍隊のように高度で複雑、統制された組織が発展していった。テクノロジーも戦争のために発展した部分が見逃せない。そういうものが未熟な文明は、より発展した強力な文明に滅ぼされてきた。もしかしたら人類は、進化し繁栄するための手段として、人類同士で殺し合う習性を身につけたのかもしれない。
一般的には外国の人間だって殺してはならないが、戦争の場合の敵兵だけは百八十度価値の逆転が起きる。敵国だって民間人を殺すことはアウトだと言っても、原子爆弾や東京大空襲などで民間人の大量殺戮が行われてもそれは結局、咎められずに終わる。ただ、敵国といえども人間同士だという同胞意識、人類全体を大きな「自集団」と見なすことで批判は受けるけれども。
結局、人が人を殺してはならないのは、「自集団の繁栄のため」ということだろう。その「自集団」が国家単位になるのか、宗教(宗派)単位になるのか、人類全体をさすのか、それは集団の支配階層や個人の考え方になるだろう。「殺してはいけない」というのは正当防衛の場合は外される(「自集団」が集団ではなく最小単位の自分だけになる)し、または法律論は別にして、自分の子供が危険に晒された場合、我が子を守るために、脅威となった人間を親が殺してしまうことが必ずしも批判されない場合もあるだろう。これは自集団の範囲が「家族」という小集団になる例だと思う。このように「自集団」の範囲は場合によって変動するが、議題である「殺してはならない」理由は、自集団の生存と繁栄のためということになるだろう。その生存と繁栄という目的に合致するならば、殺すことが容認、場合によっては奨励されてしまうこともある。
>狩りで獲物をとる場合でも、猛獣から身を守る場合でも、人間は集団でこそ可能
そうなの?
そこらへんにいる野ウサギとかなら、一人で捕まえられそうな気がするんだけど
人を殺せるが、自分が殺されるリスクが高い社会と
人は殺せないが、自分も殺されるリスクが低い社会。
前者のほうが全体にとって都合がいい。そういうことだと思う
何故人を殴ってはいけないか、に置き換えると分かりやすい。一つの理由としては、社会的に考えるなら「強い者が弱い者を殴る世界が構築されるから。」道徳的に考えるならば、「殴られる事はすごく痛くて辛いから。」←こういう共感性を持ってない人間は殴られた(殺された)ほうがいい
別に殺人を許される殺伐とした社会を望んでるわけじゃないんだけど、
まず「人を殺してはいけない」っていうルールは人間が勝手に考えたものだというのは事実。(そもそも「ルール」という概念そのものが人間特有のもの)
ただその人間が生きやすい社会を作ったため、わざわざ人を殺す必要性がなくなっていった。
その単なる「事実」を脳内で発達した新皮質によって「ルール」と錯覚してるのが人間なんじゃないかなって思う。
つまり、「人を殺してはいけない」というのが普遍的なルールだと本気で思い込んでいる人達は、
どこかの誰かによる生存戦略のいい駒として動かされてるんだろう。
今のこの社会は、元々存在していたルールによって作られているのではなく、
所詮は個々の人間を起点としたそれぞれの戦略の一致がドミノ倒しのように広がっていった結果なんだと思う。
基本的に人間は人に殺されたくないと思ってるんだよね
だから人を殺す人は自然に社会から追い出される
社会で生きていく上での最低限のマナー
>>32
「ルール」として決めたのは人間しかいないけれど殺す必要がなければ殺さないように動物はなってる
そもそもわざわざ同族を殺す必要性が存在するなんて動物でも滅多にないよ。
人間は言語を使えたから共通認識を明文化しただけでしょ
「いけない」ってのは、道徳的な絶対的普遍ルールみたいな感じでよくわからない基準に基づいての「人としてしてはいけない」みたいな類のものなのか、はたまた自分あるいは特定の人物にとって好ましくない事が起こるという意味なのか、どういった意味を込めての「人を殺してはいけない」なの?
人は文明として利益がないと殺しはしないと思う
動物でも食料や研究の対象になったり人間に害を与える存在を消す等の利益になること以外では無闇な殺生はあまりしていない
殺人に関しても戦争などその文明(国単位になるけど)として利益が望めることになれば躊躇わない
もし私怨での殺人が日常茶飯事になったら優秀な人材なんかも些細なことで殺される
そんなことがあったら文明の発展が望めない、大損害
だから人殺しをしづらい環境を作った
簡潔に言うと文明発展に不利だから殺しはしちゃいけないことになってるってことかと
>>43
人として利益がないと殺しはしないのに私怨や通り魔が発生するの?
その殺しはしないっていうのは殺しづらい法があった場合の状況?ない場合の状況?
人間社会が暴力に支配されるから。
生命と財産が暴力により奪われるなら、社会の体を成さない。
だからこその法治国家であり、法により生命と財産を守り、社会を維持、反映させるため。
厳密には「正当防衛」によって、
「刑法」が個人や集団の自由の妨害を阻止出来なかった時に「殺す」ことが認められているので
「人を殺してはいけない」ことはない
叉、金正恩のような、国際社会を揺るがす人間も、いざとなれば「殺す」ことが認められる。
みんな殺されるのは嫌だから…?
誰かが殺されたらその人の家族とか友達も悲しむから?
一方的に殺されたらその人が損するだけだから?
みんな平等じゃなきゃいけないから
殺す人だけ満足して、殺される人が損することになったら不平等だから?
あれでもなんで平等じゃないといけないんだ……?
それとも殺してもいいことになってたら
殺し合いが発生していずれ人間が絶滅してしまうから?
ダメだバカすぎて分からない。
でも文明のためにっていうのはなんか違うような…
なんかもっと道徳的な何かがある気がする…というかそうであってほしい。
理由なんてその時代、その時、その国の文化とか色々な環境
背景で変わってくるものだと思う
昔なら自分の利益のために殺し合いもあってそれが容認される時代もあったし
今でも国によっては道徳的なこと抜きに粛清として殺されることもあるし
これからもし食糧難になり、人口だけが膨大になれば
簡単に人を殺すなんて環境になるのかもしれない
そのとき、そのときの生きている人、環境によって理由なんてころころ変わるだろうしずっと価値観が変わらないのかもしれないし
結局理由なんてそのときの時代やらなにやらのとってつけた理由でしかないのかもよ
>>1
藻塩さん。素晴らしい疑問ですね!
「なぜ殺人は違法なのか」についての答えが多くあがっているので、
少しひねくれて「善悪」という観点から考察してみたいと思います。
(先に言いますが結論は出ませんので悪しからず...)
現在、私達の生きる社会においては基本的に「最大多数の最大幸福」が目指されており、
善悪の基準はおおよそこの功利主義的な観点によって左右される事が多いのです。
どういうことかと言うと、例えば幸福を数値化できるとして、
1人の人間が幸福100を得るよりも、20人の人間が幸福10ずつ得た場合のほうが、
結果として後者のほうが幸福の総数が多いので、後者を選択することが善であるという考え方です。
(※凄く簡単な、そして極端な例です)
しかしながらこの功利主義的な考え方が本当に正しいのか否かは未だ議論されることの多いテーマです。
貴方の前に赤いスイッチがあります。貴方がそれを押すと10人の人間が死にます。
ですが、10人が死ぬと、死ぬはずだった100人の命が助かります。
上記のよう(功利主義的)な考え方が正しいのならば、「100人を救うために10人を殺す行為」は善であると結論付けられますね?
ですが、もちろん10人を殺害するわけですから、この行為も「人殺し」に他なりません。
では、「人を殺してはいけない」という理念に基づき、10人を殺さずに、100人の人の死を待つのが善なのでしょうか?
(功利主義に対立する思想として義務論という考え方があります調べてみてね)
これらの道徳論が抱えた数多の道徳的ジレンマを考えるにあたっては有名な"トロッコ問題"という思考実験があります。
これはマイケル・サンデル教授がハーバード大学の講義で学生達にした問題提起としても有名です。
(Wikipediaなどで簡単に見つかりますので興味があったら読んでみて下さいね~!)
あなたはハーバードの学生でもなかなか答えの出せない難問に、中学生にして挑戦する素晴らしい哲学者です。
自分を馬鹿だと卑下する姿もさながらソクラテスですね!(無知の知と言います)
これからも知の探究に励んで下さいね~!
まず前置きだけど、人を殺してはいけないっていうのはあくまで期待可能性がある前提での話であって、例外的に人を殺してもいいことはある。
急迫不正の法益侵害が起きた場合。法益(自己または他人の生命)が急迫不正の侵害を受けた場合に最低限の反撃をして、仮にそれで殺してしまっても罪に問われない。
あと、二者択一の場合。これは、どちらか一方しか生き残れないという状況に陥った時のことを指す。
例えばAはBを殺さないと生き残れないし、BはAを殺さないと生き残れないってシチュエーション。
この場合AとBは二者択一関係にあると言える。なのでここではA及びBが適法行為に出るという期待可能性は持てない。
さて例外の話はこれくらいにしておいて本題へ。人を殺す行為は法律で罰せられる行為、つまり禁止された行為だから。
実際、刑法第26章殺人の罪 第199条にはこう記されてる。
「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」
一般に、この規範(ルール)による行為の評価は規範の評価を理解できると想定される構成員の意識に働きかけて、これに従って行動する構成員の行為によって秩序が維持される(またはそのように図られる)。
規範は、行為者に対して規範に合致した意思決定を行う義務を課しているから、その義務に違反して、違法な行為を行うという意思決定をし、これを実行した場合に社会的非難や呵責性が生じることになる。
1一般的に人を殺すと、殺された人の生命が奪われるが、この生命というのは法によって保護されることが容認されている利益(法益)という解釈がなされているので、人の生命を奪うことは違法なことだと評価出来る。
2近代社会とは 自由で平等な個人が自由意思のもとで他人との関係を構築していくもの。そのため、「個人(構成員)」は自律的且つ理性的な存在でなければならない。
日本国憲法は国民が国家に対してそれらを委託し、個人の基本的人権を示した上で人権侵害がない統治体系を構築することを目標としている。
そしてその目標を達成するための基礎的状況を確保すること(社会秩序維持機能を通じた自由及び法益を保護すること)が刑法の目的。
そのため刑法は行為の善悪の基準を記しており、その基準に違反した者に対しては刑罰を科する。
3少なくとも日本は一般的に「他人を殺さなければ自分が死ぬ」という、某世紀末漫画のような世界ではないので、「人を殺すことはいけないことなのか?」について議論する余地はない。
日本は、どのような基準かはさておき大抵のことを多数決で決めており、
その結果決まった規則に関しては多数派が説得し、少数派がそれに従う(結論には反対でも)という関係が成立している。
そしてその多数派の考え方は「社会は人間がその中で生きることができる空間でなければならない」というものなので、殺人はいけないものと解釈されている。
殺しても良い、殺してはいけないの基準は人それぞれだと思うので
殺したかったら殺せば良いと思います。
自分は、動けない高齢者は殺しても良いと思ってます。
>>53基準は刑法が定めています。それに賛成するか反対するかは自由ですが、違反は許されていません。
個人が「自律的且つ理性的」という近代社会における人間の定義に反する実行行為を行うと処罰されます。
この場合人を殺すということがそれに当たりますが、これは生命という法益に対する侵害なので処罰されるわけです。法益侵害は近代社会が定める秩序を乱すものであると評価出来るので、「悪」といえます。
自律的で理性的な人間は「殺されなければ殺される」というような特殊な状況でもない限り人を殺さないという適法行為が求められています。
法学面の話も興味深いけど
ここでいう殺してはいけないってのは近代国家の政治哲学というより
無政府状態も含めたあらゆる地域・時間軸において
「すべてを説明する原理」としての殺人の禁忌なんちゃうかな
ちなみにたびたび浮上してる論点っぽいけど
僕は「法律が定めたから禁止」っていう理由付けには妥当性がないと思う
法治国家に生まれたというだけで市民がすべての法を暗黙的に承諾してるっていうのは
多数派思想の人間に無制限の権限を与えることを少数派が(死票を入れた有権者だけでなく、たとえば思想を持たない乳児でさえ)事前に同意しているのと同義であって、これは契約の在り方として万全ではないから