喧嘩板を除くと掲示板トップに議論板をお勧めする告知掲示されているが…喧嘩板から流れてくる者は少ない
人は生まれつき負けん気が備わっている生き物である
論争過程、論争の果てにやってくる感情は所詮負けん気という怒りの感情に近いものだ
怒りの感情を煽り、暴言と置き換えるのなら…それを禁じている議論板は今一面白味が欠けてしまい…その内容がセーブしたものになる
議論板には、勝敗が無いのもまた過疎化の理由である
勝敗には拘らないクール気取りな論争はナルシストな話し手の語りが主であり、自身の知識を披露出来たのなら…自己満足を果たし相手の主張などは二の次なのである
そんな独りよがりな内容、勝敗も無く感情の高ぶりも起きない論争に何の魅力があるのだろうか?
論争バトルに破れ現役を退いた元喧嘩師達の天下り先の議論板では、その議題は喧嘩板の二番煎じであり、
ナルシスト達の集まりには論争の発展は望めないだろう…
以上の理由から議論板は喧嘩板の劣化板であり日の目を見る日は来ないのである
Q.E.D
女は男より優れており、ロシア人はアメリカ人より優れており、クリケット選手はテニス選手より優れており、イスラム教徒は仏教徒より優れている
これらは各々の所属人口をもとに暫定した優劣である
一方、体力測定の平均では男の方が優れており、昨年度のGDPではアメリカ人の方が優れており、
世界大会の開催数ではテニス選手の方が優れており、歴史的深度では仏教徒の方が優れているともいえる
どちらの対比がより正当かという議論が無意味であることは論を俟たない
あらゆる対象には球の半径と同じくらい数多くの、つまり無数の面があると論じた文士がいるが
文化圏という対象についても同様に、無限ともいえる視点と尺度が存在するといえる
多面的な物事を単一の価値尺度で測り優劣を論じることに意義を感じるのは
己の定規がこの世界の全貌だとするミスリーディングのなせる業である
13.5氏の"指摘"の列挙は個人的な趣味とイズムの独白に過ぎない
なお、当該文章には議論板の規定に違反しかねない表現を含んでいるので
以後の議論板では規範遵守を心掛けて発言していただきたい
「僕のこの考え、合ってますよね?皆さんはどういう考えを持っていますか?」
というのが議論で
「君のその考え、間違ってますよ?僕はこういう考えを持っています、認めなさい」
というのが喧嘩
前者は考えやテーマに焦点が向けられているのに対し
後者は人に焦点が向けられている
噛み砕いて言うと
前者は「このテーマについて話そう、話せるなら相手は誰でもOK」
後者は「君について話そう、テーマは何でもOK」
という違いがある
例えば「なぜ人を殺してはいけないのか?」というトピックが立っているけど
この議論板のスレッドは、このテーマについて話したい・考えたい・聞きたい人が
集まる場なんだけど
喧嘩板の場合は、人を殺してはいけない理由とか本当は興味ないんだけど
喧嘩をするためにそのテーマを利用する人たち、が集まるスレッドになるよね
喧嘩板では喧嘩をすることが目的でテーマが単なる代替可能な手段に過ぎないのだから
相手の間違いを指摘したり論点がずれたりしてるうちに
「なぜ人を殺してはいけないのかがハッキリしないまま決着がつく」ってのも
往々にしてあるんじゃない?
・・・なので、本来ならば「相手の主張などは二の次」どころか
議論においてこそ相手の主張を尊重すべきだよね、と思います
>3
劣化という言葉には気をつけないといけない様だね。
喧嘩板と議論板の優劣を分かりやすく示す羅針盤は閲覧数と利用者数かな
議論板人口は喧嘩板人口より少ない事実は否めない
Q.E.D
>4
「テーマ」で論争するのが議論板
「人」と論争するのが喧嘩板
これはちょいと違うかな
喧嘩板は定期的にランキング発表が成されているんだが…強者(人)に弱者がわざわざ喧嘩をふっかることは少ない
「少ない」という表現がポイント!明らかに自身より喧嘩ランク上級者にそれでも喧嘩をふっかける場合はこのテーマなら俺の方が詳しい、俺の方が語れる、という論争テーマが基準になっている
議論板はテーマのみに論争が留まる二者択一な狭い視野での論争
かたや喧嘩板とはいえ幅を広げ過ぎるとスレチになる点では議論板と変わらないが
漁夫の利という言葉がある様に突如第三者の視点が評価される場合もある
それが意味するのは同じテーマでも広い視点で論争されているからであろう
サンプルは多ければ多いほど質の良さを吟味する選択肢も増え、より良い質が選出出来るのだ
Q.E.D