掲示板へ戻る
スレッドへ戻る
カタギリ流儀な喧嘩論
タイトル:
名前:
メール欄:
編集パス:
内容:
お前ら、低脳喧嘩師とは才能が違うというところを見せつけてあげましょう! このカタギリ式喧嘩論を読んだら…お前ら、もう俺には生涯逆らえないぞ! 《喧嘩論 著者 カタギリユウイチ 参考文献 南雲》 喧嘩は「相手を倒すこと」が目的であるのに対し、議論は相手を論破することも目的の一つではあっても、また「互いに論を深める」ことも目的に含まれる。従って、議論をした結果、共通の結論に至る場合もある。 私が過去にここで共産党支持者さんとやった議論などは、まさに議論しているうちに双方の見解の共通点と相違点とが明確になり、結果的には、細かい意見の相違はあるけれども大筋では一致しているという結論に達することが多かった。議論は、このように合意して終了することも目的となる。しかし喧嘩は、どちらかが論破するか、それが明確にならなければ判定に頼る場合もあり、とにかく勝敗を決するという終着点を目的としている。 目的が異なるものを同一のものに括り、議論は喧嘩の一部分というのは無理があると思う。むしろ、論を戦わせるという共通点、重複した部分をもつ別々のものだという認識が妥当だと思う。 また、仮に、仮にだけれども議論が喧嘩の一部分だとする。その根拠は喧嘩はルールが緩く、議論はルールが厳しいからということだ。喧嘩板で議論(煽り等抜きで)は可だけれど、議論板で喧嘩は不可だから、喧嘩の中に議論が含まれると仮定する。そして現実としてあるのは、喧嘩板の人口のほうが、議論板の人口よりも多い。 そうだとしても、喧嘩が議論よりも優れていると言うことはできない。たとえば、殴り合いの喧嘩に様々なルール、制限を設けたのがボクシングと見ることができるように、議論は喧嘩を洗練したもの、という見方も可能だ。世の中に、殴り合いの喧嘩をする人のほうが、ボクシングの競技人口よりもはるかに多いだろう。それは殴り合いの喧嘩がボクシングよりも優れているからではなく、ルールによって制限された結果、ただの無法な乱暴者が排除されたからであり、ボクシングのほうが優れていると言える。ネット喧嘩と議論の関係も、そのような見方ができる。 私は別に、議論が喧嘩よりも優れていると言うつもりはない。私の主張は、共通部分はあっても別々のものなので優劣を論じられないということだ。 END
文字色
■
■
■
■
■
■
大きさ
中
大
小
File: