さいふぉんはサイポリとロカルに照らして当該行為は問題にあたらないと純粋にルール次元の議論をしているのであってその結果として雑民の行動を容認する形になってるだけじゃないの「問題のない行動は許容すべき」という至極当然の主張ではないかそもそも自由民が雑民を擁護してはならないと誰が決めた対立しなければならない宿命でも背負ってるの?