今が幸せかどうかなどと考えることは、まったく無意味なことです。
そんなことは後になってから自然に分かってくる。
仕事というのは、社会に空いた穴です。
そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。
それが仕事というものであって、自分に合った穴が空いているわけがない
ささいなことで「それは自分らしくない」「それをやると自分ではない」というようなことを言う人は逆に、自分についての確信がないのです。
どうもオンリーワンを主張している人は実はこういう側の人のような気がするのです
古典は読むべきだし、読む力をつけるべきである。それには自分で読むしかない。
他人を当てにしても無駄である。まして学校ではほとんど何も教えてはくれまい
変わっていくこと、それが学ぶということ。知るということです。
自分が変わっていなかったら、何も学んでいないと思えばいい
君たちだってガンになることがある。
ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。
そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう。
では桜が変わったのか。
そうではない。それは自分が変わったということに過ぎない。
『知る』というのはそういうことなのだ
先生方は教頭の顔を見たり、校長の顔を見たり、PTAの顔を見たり、教育委員会の顔を見たり、果ては文部科学省の顔を見ている。
子どもに顔が向いていないということでしょう
貯金通帳に入っている金というのは、使ったらこうだと想像する楽しみがあるだけです。
お金を使う権利を持っているというだけの話です
普通、誤解されて怒っている人は、誤解されることによって損するのは自分だという考えを
もっています。でも私は誤解して損するのは相手だというふうに思うようにしています
育つというのは、変わるということじゃないですか。教育の「育」は「育つ」ですよ。
それを、コンピュータの容量が増えると思ってるんじゃないんですか。それでは「育たない」
戦後日本は、短くいえば都市化しました。
戦後の日本社会に起こったことは、本質的にはそれだけだといってもいいくらいです。
そこでは皆さんは自然を「ないこと」にしています
とりあえず一度は雑用をやってみたほうがいいと思います。
若いときにはいろいろなことをやってみることを勧める。
ただし、それを雑用だと軽く見て半端にやってはいけない。それでは薬にならないから
ニートに腹を立てたり彼らを放りだしたりするよりは、そういう人が働かないから自分がちょっと働くだけで重宝されると思っておいたほうがいいのです
そもそもいちばん出来の悪いのがいるってのは、共同体では大切なことなんですよ。
ビリがいなくなれば、ビリから二番目がビリになる。ビリの人は、全体に恩恵を与えているんですよ
ある女性が中学生のときにいじめられたいきさつを書いた本を読むと、その中に出てこない要素があることに気づきました。
それは花鳥風月です。
世界が半分しかないから、いじめが相対的に重くなって当たり前です
楽をしたくなると、どうしても出来るだけ脳の中の係数を固定化したくなる。
それは一元論のほうが楽で、思考停止状況がいちばん気持ちいいから
その人が埋められる穴もあるけれど、埋められない穴が世の中には幾らでもあります。
埋めたい穴と埋められる穴は別のこともあります。
埋めているうちに、穴を間違えたことに気づくということも十分あり得る
自然とはもともと、どうなるかわからないものです。
子どもは車ではない。部品が全部、わかっているわけじゃありません。
そういうものが「どうなる」か、完全にはわからないのです
保育園の必要性を説くのはいい。増やすのもいい。
でも私はその議論が先行していることに、じつは危機感を持っています
若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことは言わない方がいい。 それよりも親の気持ちが分かるか、友だちの気持ちが分かるか、ホームレスの気持ちが分かる かというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないか
そもそも教育というのは本来、自分自身が生きていることに夢を持っている教師じゃないとできないはずです。
「おまえたち、俺を見習え」と言えるほど立派に生きている教師がどれだけいるのか
一つひとつの記事の中身に、虚偽や誇張があるかどうかではない。
問題は、言葉による伝達とは違う形で、メタメッセージがあったということなのです
人事の世界でいやなことがあったら、どうするか。やっぱり虫を捕りにいきます。
誰になんと言われようが、どんないじめ方をされようが、虫は関係ありません
現実のディテールを「わかる」というのは、そんなに簡単な話でしょうか。
実際には、そうではありません。
だからこそ人間は、何か確かなものが欲しくなる。そこで宗教を作り出してきたわけです
なんのことはない。見た目がきれいなうえに、便利な食品を手に入れた代わりに、税金より高いツケに苦しんでいるのである
どうして「自分に合った仕事」なんて、いわば世迷いごとが流行するのか。
「やってみなけりゃ、わかりません」が正解であろう。だからただ「働け」といえばいい
本当に好きなら苦労はいとわない。苦労が苦労ではないからである。
苦労したくないなら、結局それほど「好きではない」のである。
人間にとって100%のことは、
死ぬこと以外にには一つもないのです。
何もどうせ「死ぬんだから」と
投げやりになるということではありません。
恐る恐る生きる必要もない。
ただ、常に覚悟を心にもって
生きるということです。
不確定な未来に
軸足を置くのではなく、
今という時間に軸足を置くこと。
今日という日、
目の前の小さな命に
心を寄せることです。
やることがないとか
面白くないとか言っていませんか?
世の中が面白くないですか?
でも世の中簡単に変わらないですよ。
じゃあ、どうすれば面白くなるのか。
自分が変わることです。
人というのは、
いつ死ぬかわからないんです。
ボーッとしてたら、
あっという間に終わってしまう。
だから、まず一生をどうやって
生きていきたいのかというところから、
きちんと考え直したほうがいいと思う。
自己実現などといいますが、自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。より噛み砕いていえば、人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる。
私は、幸福論など語ろうとは思わない。むしろ馬鹿げているとさえ思っています。だって、今思っている幸せと、後から思う幸せとはまったく別のものだからです。
人は何かを知り何かを忘れ、生まれ変わり続けている。そういう経験を何度もした人にとっては、死ぬということは特別な意味を持つものではない。
皆が群がる場所ではなく、誰も行かないような場所へ行ってみる。人が行きたがらない所へ目を向けてみる。そこにこそ、皆が手に入れることのできない貴重なものが落ちているように思います。
自分の力で(幸せを)探そうとはせず、人任せで(幸せという)探し物をする。ほんとうにそこには幸せが落ちているのでしょうか。
人生は家康型なのです。一歩上がれば、それだけ遠くが見えるようになるけれども、一歩上がるのは容易じゃない、荷物を背負っているから。しかし身体を動かさないと見えない風景は確実にある。
確かに自分を変えるのは怖いかもしれない。どうなるかが、予想できなくなるからです。だからこそ、勇気が意味を持ってくる。
人気のある華やかな仕事、楽しそうな仕事、お金の稼げそうな仕事、そんな所に人々は群がります。なぜなら、そこには幸せがあるような気がするからです。
そもそも先のことなんか、だれにも分からないんです。どうなるか分からないけど、まずやってみよう。そういう気持ちが苦境を切り抜けるパワーを与えてくれる。
ちゃんと人の心が分かれば、誰とでも適切な距離感や関係性が築ける。これさえできれば、どんな状況でも生きていけます。
気遣われてると相手がわかるようにすることは大事。僕は遠巻きから女房の面倒を見ているわけです。そのことに相手が気がついたら効きます。「ほかのこともそうしてくれてるのかな」と想像力が働くから。一つでも気づいてくれたら大もうけ。
個性だ何だ、世の中が言うから悪い。そんなもんないと思えば、何ごとも「奥様のおっしゃる通りでございます」とできるんです。第一、間違ったことを言ってこっちが変なことになったら、向こうも困るんだからね。でも大体間違ってないですよ。「あいつの言うことを聞いてひどい目に遭った」というのはない。
記憶は感情に結びついている。強い感情に結びついた記憶は10年たっても残るんです。その傾向は女性のほうが強い。男のほうが抽象的で適当に生きている。男と女では、持っている情報量が何ケタも違う。
古典は、内容が抽象的なものが多い。読むうえで大切なのは、内容に自分で解釈をつけていくことです。特に、書かれていることに違和感を覚えた時こそ、「どういうことだろうか」とよく考えてほしい。同意できる内容は、既に自分が分かっていることですよね。逆に違和感を覚えるものは、今の自分に分からないこと。そこを考えることに、意味があるのです。
古典はただ読むだけなのに、必死に考えないと、なかなか先に進めない。つまり、古典は読み進めるだけでも頭を使うので、「考えることが苦にならない脳」を作ることができます。
自力で試行錯誤しないと、身につきません。人に教わるのは一見効率的ですが、大きな弊害がある。教わったことを真似すれば、物事はできてしまうことが多い。すると、なぜできたのか考えなくなってしまいます。いちいち「なぜ?」と考えることこそ、重要なのです。
教養は「身につく」という言い方をするでしょう。まさにその通りで、知識を披露するだけならそれは、「鼻につく」と言われるのが関の山です。
先行き不透明な時代を生きていくには、人間というものを理解しておくことが大切です。たとえ急に社会が変わっても、人間の本質は変わらないのですから。
同僚の足を引っ張ったり嫌がらせをするのも、適当な範囲であれば、人間の集団におけるごく普通の現象と言えるでしょう。しかし、度が過ぎていれば「問題児」ということになります。この種の問題が生じるのは、本質的には人が余っているからだと私は見ています。コンピュータの導入などあらゆることがスピード化・合理化された結果、実際には人が余っているということが、職場における人間関係のトラブルの陰に潜んでいるのではないかと考えていますが、仕事が本当に忙しくて必死に働いていれば、他人の足を引っ張ったり嫌がらせをしているヒマなどないはずでしょう。
ゴマスリは、独裁者がいる組織ほど現れます。独裁者は孤独です。なぜなら自分の決断一つで多くの人の運命を左右することになるから。だから、ゴマスリは状況が切迫しているほど効果があります。ゴマをする側の意図とは別に、結果的に独裁者を支え、良い効果をもたらすこともありうるので、一概に否定もしきれないと私は思っています。
普段、職場で能力のない問題児だと思われていた人物が、状況の変化次第では一番有能な存在になるかもしれない。たとえその人が問題児であっても、様々な人材を抱え込んだ多様性ある職場ほど状況の変化に強いという視点で、職場の人間関係をもう一度捉え直してみるのも一法かもしれません。
共同体の内側からだけ見ていると壁の外側の世界が見えません。しかし外側に出てしまえば、内側の一員ではいられない。だから会社で生き残る人間にとって今後一層大切なのは、内だけでもなく外でもない、壁の上に立った視点を持つことでしょう。
都市生活では、「体」が無視され「脳」だけで生きるようになる。文明は脳によって作り出されますから。でもその脳が乗っている「体」は自然そのもの。だから「脳=都市」だけの世界以外に、「体=自然」が主人公になる田舎の生活を織り込んだ方が心身ともに健康になります。
現代人は参勤交代をしたほうがいい。過疎地が増えているけれど、社会インフラが整った日本では田舎でも実は生きていける。過疎地対策も含め、日本人がみんな都市と田舎を参勤交代する生活様式を確立すれば、個人も社会も豊かになります。
いかに住まうかとは、いかに生きるかということです。天災はいつ起こるかわかりません。環境やエネルギーの問題などを考え合わせても、そのときどきで都合のいいところを選んで暮らす生き方があってもいいでしょう。
人間の脳は、社会を相手にするか、自然を相手にするかで、使う脳か違うことがわかっています。女性は社会脳が発達していて、だから人づきあいが上手。一人で黙って考えて、数学の証明をしたりするのは、自然脳を使います。こちらは男性のほうが得意。大事なのは、社会脳も自然脳も人間に備わっていて、どちらが暴走してもいけない、ということ。
夫婦の向き合い方は直角がいいと思っている。一点で一致しているけど、ベクトルが90度ずれている。お互いが同じ向きだと、喧嘩はしないけど一人でいるのと変わりません。お互いが正反対の向きでも、トータルの合力がゼロになっちゃう。直角は、夫婦の力が一番出る関係。全く異なる価値観だけど、それが合わされると大きな力が生まれる。「異質なものを取り入れる」と組織も言うでしょう。それですよ。
好きな虫とりをやってれば非常にハッピー、後は全部譲ってもいい。世の中には奥さんに眉をひそめられてる虫マニアもたくさんいる。そこはお金があるとか家が広いとか、余裕が必要なんです。僕が若い頃は、大学の先生の夫婦喧嘩といえば8割は経済問題。虫を飼うのも「家が狭いのに、邪魔だ」という話になる。僕は、その余裕をつくるため必死で働いているんですよ。働くモチベーションって大事でしょ。
女房に最初やられたとき、こういうプリンシプルで一生やられたらかなわないなと思った。それで妻を変えようとするじゃない。そうすると、ものすごい反応があって、晩飯が食えなかったり、茶碗が割れたりした。だから反省したわけです。これは割にあわないと。コスト計算すると、僕の考えを変えたほうが安くつく。だから今は、何ごとも「奥様のおっしゃる通りでございます」。
この板だけは暴言・粘着・個人攻撃OKです。
喧嘩もコミュニケーションの一種です。荒らしとの区別はつけてください
純粋な議論を求める方は議論・論争板を推奨します。
この板では名無しによる投稿はできません。
インタビュアー「彼女とかいる?今」
野獣「今はいないです」
──「今はいない?いつまでいたの?」
野獣「こ、去年ですね」
──「うん。去年?」
野獣「はい」
──「ふーん」
──「風俗とかは行くの?」
野獣「行ったことありますよ」
──「うーん。どういう系統が好きなの?」
野獣「そうですねぇ…やっぱり僕は、王道を征くソープ系、ですか」
──「あ、ソープ?高いでしょでもソープ」
野獣「ズズッ…(鼻水)」
野獣「ピンキリですよねでもね」
──「うーん」
野獣「うん」
──「じゃあオナニー…とかっていうのは?」
野獣「やりますねぇ!(大声)」
──「やるんだ」
野獣「やりますやります」
──「ふーん」
──「週何回とか、そういうのはある?」
野獣「シュー(週)…うーん…何回っていう感じじゃない、でもティンパニ(頻繁に)、やってますね」
──「やってる?」
野獣「はい」
──「じゃあ…えー…最近いつ抜いたの?」
野獣「最近は…3…日前」
──「3日前、ふーん」
(カメラがズームして行き、なぜか野獣の右の二の腕を大写しする)
(カメラ元に戻り、Tシャツを脱ぎ出す野獣)
──「それだけ体…鍛えてれば自信あるでしょ」
野獣「いやーそうでもないですよ」
──「うそ?」
野獣「服とか結構困りますよね」
──「ああー」
野獣「サイズ合わなくて」
──「サイズ合わなくて?」
(短パンを脱ぎ出す野獣)
野獣「うん」
──「どうこれ見られて、どう?恥ずかしくない?」
野獣「いや全然」
──「全然大丈夫?うん」
(野獣、パンツも脱ぎ全裸になる)
·実を言うとね、私の友達もキャスフィやってて、「一緒に荒そうよ!」って言われたんです。。。(謎だけど)
友達には口止めされていて、けどもう怖くて言ってしまいました。(荒らしていた時は、もう涙目でした。。。)
友達は即書き禁になったそうです。
名前も挙げたらヤバいので挙げませんが。。。
私は断れない性格で、荒らしの文章は友達が適当に挙げたんです。
そして、友達は今、横に居ます。
お姉ちゃんがいるとかは私が書いたんですが(一部友達が修正)、それ以外は友達です。
許されない行為だと思うし、私も友達もガチで謝ります。
昨日の夜に打っていたのは、友達の両親が入院しているので私の家に泊まっていたんです。
色々な重なりで、このようになったんです。
信じてくれないかもしれないけど、上記の通りです。
ホントにすいません🙏