アメリカ人 駄文に気づく

11天使◆kawaiiBoyQ
2019-07-18 00:01:00
ID:5PYiFh1U

>>9
どういう視座に立てば1,2の内容が言い回しのみに対する言及に取れるのか甚だ疑問である。
発言内容を抜き取り、それに対する論評の体をとっているからそうした思い違いを起こしたのかもしれないが、内容をよく吟味してもらえれば言い回しに対する言及でないことは火を見るより明らかであろう。
言い回しはあくまで表面的なものに過ぎず、問題にしているのはその発言内容から伺えるコナミの指摘の軽佻浮薄ぶり、そして喧嘩に望む姿勢の消極ぶりとである。
言い回し自体に主眼を置き論考を記述した部分はどこにもなく、言い回しに対しての指摘にとどまっているという認識そのものに誤りがあるわけで、本旨は性格あるいは姿勢の部分にあることを理解してほしいところである。

また、喧嘩の向き不向きについては、改善の余地のあるものや経験を経て上達を見込める要素については向いていないとは言わないという主張に対しての反論を書かせてもらう。
君の考えによると、論理性や言語能力が乏しいことを以て喧嘩に向いていないと判断できるという。
そのことから論理性や言語能力は改善の余地や経験による上達が見込めないものであるということが導き出せる。
しかし果たして論理性や言語能力は改善の余地、上達の余地がないのか。
答えは否である。
それらの要素についてはよほどの例外で無い限り改善、上達の余地はあり得る。
言うまでもないことだが、生まれたばかりの赤子には論理性も言語能力もない。
それらは成長の過程で育まれ、時間の経過とともに習熟度を高めていく。
喋れなかった子供が喋れるようになることは言語能力の向上である。
物事の仕組みを理解できなかった子供が仕組みを理解できるようになるのは論理性の向上である。
以て2つの要素には改善の余地、経験による上達の余地があるわけである。
こうした条件であるならば、向き不向きとは言わないということが君の理屈だが、どういうわけか君はこの条件であるにもかかわらず論理性や言語能力の乏しさを理由に向いていないと言えるという旨の発言を残しており、これは明らかな自己矛盾であることを指摘させてもらう。






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