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あらゆる行為の結果に所有権はない
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社会的成功を収めた起業家を褒めちぎったり、犯罪者を貶めたりするワイドショーや世間の態度っておかしい気がするなあと思って色々考えてみた。結論から言えば、人々は行為を結果のみで判断し、無数の原因のなかから最も都合の良い一つを選んでいるだけだと思う。 成功者が成功を収めたとき、それを努力の所産だと言い切ることはできない。仮にその人がほかの誰よりも努力したとしても、それを許すための土壌、時勢や社会的背景がなければ結果は生まれなかったからだ。 20世紀にコンピュータが発明され、ビル・ゲイツは億万長者になりえたれども、発明が一世紀遅れたらゲイツはただのPCオタクだった。マイケル・ジョーダンはバスケで大金持ちになったけど、バスケがアメリカでメジャーなスポーツでなかったら試合に金を払う観客はいないし、ジョーダンはボール遊びがうまいだけの凡人だった。 逆に、貧困から立ち上がり、一代で経済的に逆転した努力家の経営者というのも世間にはいる。しかし、そいつに教育を施したり働く場所を与えた他者が周りにいたのは常に偶然である。偶然の機会の集積がその成功の秘訣であって、本人の意思は成功に何ら関与していない。「努力の末に今の私があります」という奴がいたら、それは自惚れだ。 自由意思が事の顛末を決定しているという錯覚は多くの人が抱いている。誰かが横領やら談合を起こせば、大抵は本人が他者の努力を踏みにじるつもりで行った、意地汚い非人格者だったという結論が下される。僕はそうは思わない。人格は他者との相互作用によって生まれるというのはすでに科学が証明済みである。言い換えれば、誰かが「正しい道(観念として便宜的に使うけど僕はそんなものないと思ってる)」へ誘うことを怠ったからこそ、彼(彼女)は犯罪を犯したのだ。 「自分たちは悪くない、彼が勝手にやったことだ」という当事者意識の欠如が犯罪当事者という被害者を生む。秋葉原の通り魔は殺人者たらんとしてこの世に生を受け、殺人者になるために社会性を捨て、犯行に及んだわけではない。非正規労働者としての不安定な雇用、周りの無理解と孤独のためである。 人は自分の意思で生き方を選べるわけではない。死に方を自ら選べないのはそのためである。努力によって死因を選べるなら誰もがんにならないし餓死もしない。てかそもそも死なない。 誰も結果に責任を負えないのだから、あらゆる行為の結果に所有権はない。アルチュセールはフランス革命を例に物事が起きる過程の重層性を説いた。それらはすべて意思と無関係であるか、意思を形成するための偶発的な事象である。決して「自由意志」などというものの産物ではない。 なぜ人は「自由意志」を信仰するのか。それはおそらく、「今の自分が存在するのは偶然である」という事実に個人が耐え切れないからだ。心の平衡を保つために、「行為の責任」を他人に求める。メディアを通じて共同体間で喧伝し、強固な共同幻想を作り出しているのだ。成功者も失敗者もそれを見ている視聴者も、気づいた時には理性を外れ、防衛本能の術中というわけである。
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