有識者会議ハ逆賊ナリ

28南雲◆87JeOCepwE
2016-12-10 23:32:42
ID:562YoPNo

承久の乱の時、北条政子の呼びかけで御家人が結束したのは何故か。その時も、朝廷に弓を引けば朝敵の汚名を着ると尻込みする者が多かった。しかも北条氏は鎌倉幕府の家臣でしかない。ただ単に最有力家臣にすぎなかった。
だから北条政子は、頼朝の妻という立場と、亡き頼朝の権威を利用する必要があった。

そもそも武士を天皇や上皇が統率できていたら、鎌倉幕府は生まれていない。天皇や院を中心とする朝廷が、保元の乱以来、武士の力を利用しながら重んじないという不満が武士にあったから、平氏なり源氏なりに武士が従うようになった。平氏は武士の利益を代表することが出来なかった。頼朝が鎌倉に幕府を置いたのは、東国が源氏の地盤だからという理由もあるが、朝廷の秩序とは異なる武士の組織を作らなければ武士を統率できないことを平氏の失敗から学び、朝廷と距離を置きたかったからでもある。
源義経はそういう頼朝の構想を理解できず、源氏が平氏に取って代わる程度の政治観しか持てなかったので、いかに戦上手でも武士の代表たりえなかった。

承久の乱の時、朝廷にはいまだ権威があったが、「逆らえば朝敵」という最強カードを使ってさえ北条氏に勝つことはできなかった。すでに朝廷の権威で武士が団結することは不可能だった証明である。承久の乱の結果、朝廷の力が北条氏の手で尚更失墜させられたことは事実でも、それ以前に朝廷が武士を統率できなかったのがそもそもの敗因だ。

そんな朝廷を中心に元寇を乗り切ることができたのか。元寇は国難だから御家人も非御家人も朝廷も、襲ってきた敵に対しては利害を超えて協力したものの、そこに北条時宗というリーダーシップを取る人物なしではどれほど弱体であったか分からない。朝廷に武士を統率する力がなかったからこそ、承久の乱で敗れ、また、北条氏が天下を失ったあとも後醍醐天皇が武士を統率できなかった。

足利尊氏は本来、後醍醐天皇と争うことを望んでいなかった。北条氏を倒す時、後醍醐天皇が中心になり得ても、そのあと武士を統率できなくなって、逆らいたくない尊氏が反後醍醐天皇のリーダーにならざるをえなかったことも、朝廷が武士をまとめることが出来なかったからに他ならない。

北条氏は足利氏が源氏の名門だったような家格はないが、少なくとも当時において北条氏は平氏であると認識されていた。

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