リングアウトした者が負けっていう考え方も良いとは思うけど、不特定多数のオーディエンスが口を揃えて誰それの勝ちだって言ったら、それもまた勝ち負けの一つなんじゃないかな。
帰びゅ法を駆使して反駁する術を得るソフィストたちによるディベートの原点は、なるべく多くの民衆を納得させ、如何に自分を支持させるかにあったわけだから。
喧嘩板はその延長上に延びたものではなく、寧ろそれそのものと言える。
ここでは、いわゆる「論破」がキーポイントになるわけだが、実際に論破したとしても、それが論破として認められなければ、何の意味もない。
天動説が有力だった時代がそれを象徴しているよね。
地動説を唱え、確たる証拠を用意したところで、誰も信じてくれないどころか、コケにされ、見放されてしまう。
自己満足でやるのなら、それもまた一つの楽しみ方かもしれないけど、それだとどうもつまらなく感じてしまう。