学校で討論を行う目的というものは、「負けかたを習う」というところにある。勝つ工夫は誰でもするし、教えなくても努力するだろうけれど、負けかたは教わらないと泥試合になるし、「負けない」協議をどれだけ重ねたところで、負けかたは習得できない。