「なにこれて面白い名無しさん😂」/「暇からきた」
かつて存在した葉っぱ天国喧嘩板において、「五七五で喧嘩する」というスレッドが定期的に立てられていた。いわゆる「喧嘩俳句」という独特のジャンルであり、葉っぱ天国における喧嘩の幼児化、喧嘩の趣味化を象徴するものである。ただし、文字喧嘩の裾野を広げるという意味では、難解に堕する傾向のある「議論喧嘩」に対して一定の優位性を保っていた。
これに対して、江戸文学の本格的な教養を背景にもつ曙覧は喧嘩俳句のありふれた作風を「月並喧嘩」と呼んで批判し、「喧嘩は滑稽なり。喧嘩は挨拶なり。喧嘩は即興なり」と看破した。その代表的な句が
「なにこれて面白い名無しさん😂」
「暇からきた」
の二句であり、俳句の世界でいえば正岡子規による「俳句革新運動」と荻原井泉水による「無季自由律俳句」の提唱が同時に行われたようなものである。しかし、ここで起こったのは単なる喧嘩俳句の革新にとどまるものではない。「喧嘩とは、発話の無意味さを通じてなされる悪意のコミュニケーションである」とする喧嘩概念の更新であった。しかも、曙覧はそこに中国文化を背景とし江戸時代初期に成立した煎茶道の方法論(茶を一滴、舌の上に落として口中にて転がす)を導入し、「悪意はわずか一滴、あるのか無いのかわからないくらいが丁度よい」とした。
このような曙覧の方法論は、全く別の文脈からキャスフィ避難所に発達した「喧嘩ミニマリズム」と合流し、いまも独自の進化をみせている。
「お茶中毒入れときました」
日本の代表的な伝統文化【茶道】には、「抹茶道」と「煎茶道」が存在します。日本の茶道には粉末茶を使用する抹茶道(茶の湯)と葉茶を急須で淹れる煎茶道とがあります。一般的に、「茶道」と聞くと、抹茶をシャカシャカしているお点前を想像されるかと思いますが、それは厳密に言うと「抹茶」「茶の湯」と呼ばれるものです。
それに対して「煎茶道」とは、文字のごとく煎茶(葉茶)を用いたお点前をする式作法のことです。抹茶を用いる式作法との差別化のため、「煎茶道」と呼ばれています。
煎茶道と抹茶道は成り立ちが異なります。
抹茶道は、中国宋代に用いられていた抹茶法が日本に伝わり、能阿弥、一休宗純、村田珠光、武野紹鴎らの影響を受け、千利休が安土桃山時代に完成させたものです。そして、抹茶道は主に武家社会に浸透していきました。
それに対して煎茶道は、江戸時代中期以降に文人墨客(当時の文化人)たちの間に流行しました。当時は茶道の形骸化が進んでおり、それに異議を唱えた知識人たちが形にとらわれない茶道として見出したのが煎茶道です。そのため、煎茶道は茶室や道具に必要以上のこだわりを持たず、自由な精神や風流を重んじます。文人墨客たちが自然の中で嗜んだ煎茶道の精神は、堅苦しいものではなくより日常的な茶道として親しまれています。
抹茶道は禅の思想と密接に結び付いていましたが、時の権力者である織田信長や豊臣秀吉が重んじたことで、徐々に大名の権力を表す手段としての意味合いが強まり、茶会は自らが持つ高価な茶道具を見せびらかす場となりつつありました。
そして、天下泰平が果たされた江戸時代になると、抹茶道はすっかり形式的なものになってしまっていたのです。
こうした状況に一石を投じたのが、黄檗宗(おうばくしゅう)の僧であった高遊外(こうゆうがい)でした。高遊外は、長崎で習得した煎茶の知識を生かし、京の市中で煎茶を売り歩き始めたのです。やがて高遊外は売茶翁(ばいさおう)と呼ばれるようになりました。
売茶翁は「価格は客次第、無料でもOK」という独自のスタイルで煎茶を売り歩き、それまで上流階級に限られていたお茶と禅の世界を庶民にも広めていきました。また、精神世界と風流を重んじる売茶翁の思想は、形式化してしまった抹茶道を嫌う数々の文人墨客に広く受け入れられたのです。
このような背景から、煎茶道は形式を目的としない点が特徴となっています。当然のことながら煎茶道も「道」である以上、作法や型は存在するのですが、守ること自体が目的ではありません。
あくまでも、供する相手に煎茶を美味しく楽しくいただいてもらうことが目的であって、その目的を果たすための手段として形式が存在するということ。抹茶道は基準を満たす茶室で行われるのに対し、煎茶道は場所を選ばず外でも楽しめるというのも、形式を主目的としていないからなのです。
煎茶道はお茶を通じて精神世界に触れるものであり、形式を守ることばかりに捕われる必要はありません。日常の煎茶を淹れるひとときであっても、抽出を待つ間に自分と向き合うことで、煎茶道の精神に近づいていると言えます。
江戸文学の本格的な教養を背景にもつ曙覧は、以上のような煎茶道の思想を文字喧嘩に取り入れました。つまり、形骸化した「議論喧嘩」に対して、重要なのは言語表現に現れた言葉や議論の意味内容ではなく、喧嘩の背景に広がる精神性であるとしたのです。しかしそれは、かつてインターネットワイドショー掲示板で疫病のように拡がった「喧嘩神秘主義」などではなく、ごく日常的で常識的な精神性の世界です。
今度喧嘩を楽しむ際には、相手のレスの味わいに身を委ね、さまざまな制約から解放された「ありのままの悪意」を感じてみてはいかがでしょうか。
ただし、あまり填まり込みすぎると、喧嘩中毒になってしまいますよ。
「へれき人」
トルコでは地方ごとに織物文化が発展してきた。なかでも、シルク絨毯の最高峰として扱われるのが「ヘレケ」。非常に目が細かく繊細な柄が特徴。1㎝四方に100ノットを超えるものが多く、中には900ノットを超えるものまである。
ヘレケとは、イスタンブールから南東へ60㎞ほどのところにある小さな港町の名前。絨毯の歴史は、1843年にオスマン朝の皇帝アブドゥルメジドによって繊維産業が招致されたことにより始まった。多くの作品がカーテンやベッドカバーなどとして宮廷へ献上され、美術品としての価値を高めていった。モチーフにテキスタイル柄を多く用いたことでも人気をはくす。1878年の大火災で工場のほとんどが消失してしまい、約10年後、トルコ絨毯の名産地であるラディックやクラの町から熟練した職人を集めた。現在、高い評価を受けているフローラルデザインは、この時期に生まれている。20世紀以降、欧米でも高く評価され世界に広まっていった。
この「ヘレケ」を昭和時代の日本では「ヘレキ」と表記していた。「ヘレキ人」とは「トルコのヘレキ村の人々」というほどの意味である。
しかし喧嘩用語としての「ヘレキ」は、最大級の賛辞として使われます。ヘレケの絨毯は、長い歴史の中で、オスマントルコ帝国のスルタン(トルコ皇帝)に称賛を受けたことがきっかけでシルク絨毯の最高峰ともいわれる現在の地位を得ました。従って、「面白いおまえ達へれき人」とは、「おまえ達はトルコ皇帝に賞賛されるくらい面白い(かかってきなさい)」という意味なのです。
「喧嘩実存主義」
喧嘩に対する考え方は人それぞれです。個人個人の違った考え方がぶつかり合うからこそ、喧嘩は面白い読み物となるのです。しかし、それでも喧嘩掲示板ごとに主流となる考え方があるのも事実です。それは掲示板管理人の方針や主導によるものであったり、自然発生的に出来上がったものであったり、また時期によっても様々ですが、とにかくある種の「まとまり」として認識できる「喧嘩思想」「喧嘩哲学」というものが存在するのです。
現在、喧嘩界を牽引している『round table』(元は『喧嘩界』)においては、「喧嘩実証主義」が主流です。「喧嘩実証主義」とは、喧嘩の本質を「議論」に求め、「議論」の勝敗を「根拠」に求める考え方です。となると、必然的に「実証可能な最終根拠」というものを(実際に実証が可能かどうかは別として)理念として要請せざるをえません。「喧嘩=議論喧嘩」という近代喧嘩が長くネットの世界を支配してきた関係上、これが現在でも最も支配的な喧嘩思想だと言えるでしょう。
これに対して、「実存は喧嘩に先立つ」として、喧嘩という言語行為の背景にある「人生」や「生き様」こそが喧嘩を“真に迫るもの”とする、としているのが「喧嘩実存主義」です。その舞台として最も有名なのは、「喧嘩界のガラパゴス」と呼ばれている『晒しの楽園』で間違いないでしょう。掲示板の代表的な喧嘩師はまた他にもいますが、「喧嘩実存主義」の代表者としては「よしおのしお(通称・よしお)」や最近見かけませんが「りなめろ」を挙げるのが常道のようです。
ここ『キャスフィ避難所』は、こうした両極端な喧嘩思想の間で、その時々の情勢によって喧嘩スタイルの流行り廃りがありました。ざっくり言えば、旧喧嘩板は喧嘩実証主義であり、それが喧嘩実存主義的な傾向を強め「殺伐板」になって、移転先の新喧嘩板が喧嘩実証主義を続行していましたが、やがて衰退し『round table』(『喧嘩界』)に移っていきました。その後、廃墟となった新喧嘩板で喧嘩実存主義のよしおが「殺す!」を広めたことにより、「喧嘩ミニマリズム」という新しい潮流が生まれてきたのです。
「投刃人形ベルメラン」
喧嘩ミニマリズムの代表的な喧嘩師「佐久間」の二つ名。彼の代名詞ともいえる決め台詞「キモい」がしばしば自身に還ってくることから、こう呼ばれるようになった。派生的な用法としては、感情を抑えられず顔を真っ赤にした佐久間を「投刃人形エルメラン」、ブーメランの軌道を自在に操り、無敵状態になった佐久間を「投刃人形ギルメラン」と呼ぶ。
>>123
きも【肝/▽胆】
1 内臓の主要部分。特に、肝臓。「鳥の—」
2 内臓の総称。五臓六腑ろっぷ。
3 胆力。気力。精神力。「—の太い人」
4 物事の重要な点。急所。「話の—」
5 思慮。くふう。
「あまりに—過ぎてしてけるにこそ」〈沙石集・七〉
[補説]「肝に据えかねる」という言い方について→腹に据えかねる[補説]
[類語](1)はらわた・腑・心胆/(4)大切・重要・大事だいじ・肝要・肝心・緊要・枢要・要かなめ・肝心要・有意義・意義深い・千金・耳寄り・掛け替えのない
>>135知識なさそうこの方はやり方が気持ち悪いすぎるhttps://www.tenor.co/M31E.gif https://
「大論界」
キャスフィ避難所の喧嘩師「きいろちゃん」によって提唱された、ネットの言論世界を最も大きく総括する場合の類概念である。「大論界」は、次の三つの「論界」に分かたれる。すなわち、「議論界」「喧嘩界」「殺伐界」である。ジャック・ラカンの「schema RSI」を用いた「言論クラスタ」の分類であり、それぞれ
議論界=象徴界
喧嘩界=想像界
殺伐界=現実界
に対応する。「議論界」とは、言葉の秩序とそれによって切り取られる世界の断片を議論によって摺り合わせ、最終的な合意において真理が顕現することを目指す言語活動である。それに従事する者たちは「議論師」と呼ばれる。
「喧嘩界」とは何か。それは想像の世界であり、愛と憎しみの世界、そして悪意の世界である。彼らは「議論」に寄生し、それを利用することもあるが、その場合でも議論が目指す「合意」や「真理」には全く興味がない。彼らは「差異」を造り出し、「断絶」を楽しむ。たとえ「客観的真理」を求めるような外見をしている時でも、彼らが求めているのは「悪意がもたらす享楽」にほかならない。このような倒錯的変態衝動に突き動かされた動物たちを「喧嘩師」と呼ぶ。
「殺伐界」は「喧嘩界」がその臨界を突破することによって“向こう側から”現れた。そこには、もはやまともな言語活動と呼べるものは存在しない。言葉と言葉の隙間から単なる悪意を超えて噴出してくる黒い物質。アリストテレスが「純粋質料」と呼んだ無形の不気味な何かが、書かれた文字たちの間から染み出してくるのだ。時折、人の形をとるかのように話しかけてくる不気味な人形たちは「殺伐師」と呼ばれる。
このほかに、特定の「論界」を持たず様々な論界を移動したり周回したりしている人々がいる。
「煽り師」は、「議論師に寄生する喧嘩師」に寄生するという、特殊な生態をもつ。彼らは喧嘩における議論というものに意味も到達点もないということにいち早く気づいた人々である。この点では、「喧嘩実存主義」や「喧嘩ミニマリズム」などの喧嘩思想などと同じなのだが、彼ら煽り師は「それなら悪意も議論と同じように擬装できるのではないか」として喧嘩界での言語活動を超越してしまったのである。彼らが行う「煽り」は、もはや悪意の発露ではない。喧嘩師が行う議論があくまで喧嘩の手段にすぎないのと同じように、煽り師が行う喧嘩は「煽り」という全く別のコミュニケーションの手段にすぎないのである。では、「煽り」とはどのようなコミュニケーションなのか。それについては、5ちゃんねる初心者の質問板「煽り合って精神を鍛えるスレ」というところに行ってあなた自身の目で確かめて欲しい。「文字喧嘩」とはまた違った文化を味わえるだろう。
「荒し師」は「煽り師」からコミュニケーションを抜き去った存在である。彼らは一方的にメッセージを置きにくる。自分の脳髄で噴出する何物かを言葉として書きつけなければ死んでしまうかのように・・・。このため、荒し師は殺伐界と大変相性がよい。
「成済師」はあらゆる言論において言論の(つまり、書き込みをする)“主体”を曖昧にすることを目的とした一群の人々である。なかでも「よしお帝国」とも称される「よしお一族」は、いわゆる「成り済まし」を最も組織的かつ広範に行っている。『晒しの楽園』のよしおは、喧嘩師として「喧嘩実存主義」の代表的存在であり、なおかつ最近勃興してきた「喧嘩ミニマリズム」の開祖でもあるわけだが、彼の実際の言語活動の大部分は、この「成済師」としての活動に割かれている。その目的は、言論から主体を消し去り、言論を「人と人とのコミュニケーション」ではなく、「言論と言論のコミュニケーション」(間言論性)として再構成することにある。しかも、それを「大論界」の全体にわたって行おうとしているのである。これにより、議論界では「誰がそれを言ったか」ということをこれまで以上に排除して、純粋な「議論そのものの自己展開」が行われるであろう。人間存在はその手段にすぎなくなる。喧嘩界では、誰かから誰かに向けられていたはずの悪意が、「純粋悪意」として領域を漂うようになるだろう。殺伐界では逆に、擬制的な主体が読む者に語りかけてくるだろう。
「喧嘩ダダイズム」
一般に「荒し師」とみなされている梨乃とマスー君だが、彼らは正確には「荒し師」ではない。「喧嘩ダダイズム」という喧嘩思想の実践者なのだ。「喧嘩ダダイズム」とは、喧嘩から「意味」を抜き去り、「喧嘩というシステム」を脱臼させることによって初めて真の喧嘩が可能になるという思想である。それが芸術運動としての「ダダイズム」に似ているというところから、「喧嘩ダダイズム」と名付けられた。
第一次大戦渦中の1916年、チューリヒには合理主義を嫌悪する厭世的な気分が満ちていた。かの地でそのような気運に対応する反芸術運動を展開しようとしたルーマニアの詩人T・ツァラは、辞書に無作為にナイフを突き立てたところ、その刃先はフランス語では「木馬」を、スラブ系言語では「相槌」を意味する「ダダ」という一語を刺していたという。これ以降、ツァラがH・バルやJ・アルプらと創始した「ダダ」は明確な根拠を持たない、反芸術的な文芸運動として始まったが、F・ピカビア、K・シュヴィッタース、M・レイ(M・デュシャンを含める場合もある)らがその先鋭的な主張に刺激を受け、「アサンブラージュ」、「コラージュ」、「フォトモンタージュ」などの技法を駆使した造形作品を矢継ぎ早に発表した。なお、造形運動としてのダダの展開はほぼパリ一都市に限定され、この運動に参加した作家の大半は、20年代以降その理念や技法を「シュルレアリスム」へと継承していく。
「喧嘩ミニマリズム」が「喧嘩の元素」を探求して意味をそれ以上分割できない最小限にまで切り詰めるのに対して、「喧嘩ダダイズム」は喧嘩という言語活動のシステムや構造を脱臼させ、意味の流通や制御を不可能にする。それが目指すところは、結局、成済師よしおと同じなのかもしれない。
「いち万個のまんこ」
霧雨は何故、喧嘩サイトでナンパしようとするのであろうか?普通に考えれば、出会い系サイトや、もっと女の子が大勢いそうなサイトでナンパするのが合理的であろう。その答えを知るためには、彼の特殊な喧嘩思想を理解する必要がある。
通常、喧嘩師は喧嘩師と喧嘩をする。あくまで喧嘩の対象は人間なのである。それに対して、霧雨の喧嘩対象は“世界”である。ひとりひとりの喧嘩相手は、“世界”が寄越した使者にすぎない。そのため、時には喧嘩掲示板や、それより上位の掲示板群全体と喧嘩をすることもある。彼が時折、葉っぱ天国の中枢部にスレッドを立て、葉っぱ天国の運営者たちと喧嘩をするのは、そういうことである。葉っぱ天国の喧嘩師たちが霧雨を「荒らし」としか思えないのも無理はない。彼らにはそのような(対“世界”という)スケールの大きい喧嘩が存在するなど思いもよらないのだ。
そんな霧雨にとって、女の子は“世界の分泌物”である。“世界の表面にできたニキビから垂れて来る甘い汁”と言い換えてもよいかもしれない。彼は“世界との戦い”の中でしばしばそれを舐めとってきた。「他の人は何故、舐めないのだろう?」「この“汁”は僕にだけ見えているのか?」そんなことを中学生の頃から一万回も繰り返してきた霧雨は、独自の喧嘩思想に到達するに至る。
すなわち、霧雨にとって喧嘩とは即ちセックスであり、セックスとはこれ即ち喧嘩なのである。そしてその到達点は、「文字喧嘩の会話の流れで現実の女性とセックスすること」である。それこそ、霧雨が夢見る“世界への勝利”であり、その時、霧雨は青白いザーメンが垂れてくるその女性のまんこの空洞の肉壁に、「いち万個のまんこ」が隙間なく展開してこっちを見ているのを幻視するのである。