【リスト】棒人間 駆逐済リスト(佐藤IN)

489名無しさん
2022-04-15 06:11:39
ID:J2MahOYY

深澤英隆「無への転生―ショーペンハウアーの死後生論―」死生学年報, 105-129, 2013


死後生や死後存続の問題が哲学の真剣な主題となりえぬようになってから、すでに長い年月が経っている。「死」という限界問題については、今日も変わらず哲学的思索が重ねられている。しかし死という限界点のさらに向こう側について何らかの認識が成立するという考え方は、哲学の領域ではつとに失効してしまっている。それでもひとびとは、死後の生なるものにしばしば想いを馳せるし、また公認の哲学とは別の「スピリチュアル」な思想系譜にとっては、死後生はいまなお中心的問題でありつづけている。ただそれが哲学の第一線の議論に結びつくことは、もはやない。

それにしても、哲学はいつの時代まで、どのようにして、死後存続という問題を語りえたのであろうか。そのひとつの例を、ショーペンハウアーの死後生論に見てみたい。これまでのショーペンハウアー研究は、それ自身が近現代哲学の枠組みにおいてなされてきたがゆえに、ショーペンハウアーの思想のこうした側面にはあまり論及してこなかった。しかし、死や死後生、さらに「超心理学」的側面に関わるショーペンハウアーの議論の検討は、また別の角度からショーペンハウアーの思想的特徴を照射し、また死をめぐる思想の近代における変容を明らかにすると言っていい。

〔中略〕

死後、すべては無に帰すのだろうか。ショーペンハウアーはそれを誤
解と呼ぶ(「ある人間の死を目撃した場合に、ここでひとつの物それ自体が無に帰したというようなまちがった考えがどうして起こるのであろう」6/288=13/49)。しかしそうであるならば、いったい何が存続するのだろうか。

ショーペンハウアーの基本的な立場は、意志の絶対的一元論である。〔略〕そもそもショーペンハウアーによれは、われわれと世界とは元来ひとつなのである。

「根底においてわれわれは、ふつうに考えられているよりはは
るかに世界と「一つ」なのだ。世界の内的本質がわれわれの意志をな
し、それの現れはわれわれの表象という形をとる。この一体的存在を明瞭に意識できるほどの人にとっては死後の外界の存続と自己自身の存続とのあいだの相違は消失し、両者は同一不二のものと映るであろう。」(3/556=7/44-45)

なによりも死は、われわれのわれわれ自身からの解放なのである。死は「もはや自我でないものとなる大いなるチャンスなのだ」(3/582=7/78)。こうした事情をもっとも端的に表すのが、われわれは死後「存続する(fortdauern)」のではなく「不壊」(unzerstörbar)なのである、とのショーペンハウアーの語法であろう。

「……現象と物自体の例の区別をしっかりとつかむならば、人間は現象としては死滅するが、しかしその本質そのものも同様に死滅するわけではなく、したがって、この本質に死後の存続を付与することはできないけれども―存続のような時間概念を除去することはこの本質にとって本来のことである―、にもかかわらず本質は不壊である、と主張することはできる。かくてわれわれは、存続とは異なる意味における不壊性の概念までたどりついたことになろう。」(3/565=7/57)



ショーペンハウアーからの引用は以下の原典および邦訳による。引用にあたっては、邦訳を基礎としたが、原典を参照して修正を加えた箇所も少なからずある。引用頁数は、文中の括弧内に、まず原典の巻数/頁数を、つづいて邦訳の巻数/頁数を示した。

Arthur Schopenhauer, Sämtliche Werke, 7Bde., Wiesbaden: Brockhaus Verlag 1949-1950.

『ショーペンハウアー全集』全 14 巻、白水社、1972―1973。


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