「北日本」…「日本民主共和国=DRJ (Democratic Republic of Japan)」社会主義国家の日本
「南日本」…「日本国(=Japan)」史実とよく似た日本
この二つの勢力に分れた日本で、ロシアによるウクライナ侵攻にも似た事態が起こり、「日本戦争」が勃発します。
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1950年6月25日未明、日本民主共和国軍は南北暫定境界線を一斉に突破。
一路、東京を目指して南下を開始した。
距離にして最短で約150キロメートル。
この距離を約4個師団、支援部隊を含めて約9万の兵力が、東京目指して突進を開始した。
他にも日立、水戸を経由して脇を固めるのが2個師団、新潟方面で攻勢を仕掛ける1個師団あった。
合計7個師団、約15万人の赤い兵士達が、平和へと歩みだしていた南側の日本へとなだれ込んだ。
これに対して南の日本軍は、北関東には第2師団が、その少し後ろにアメリカ第77師団が駐留していた。
新潟では、第3師団が当面の防衛に当たった。
また関東中心部には、第1師団とアメリカ第1騎兵師団が存在していた。
特に習志野を中心に駐留する第1騎兵師団は機甲師団であり、北日本軍の最大の障害であると共に南日本及び現地米軍の切り札だった。
平時状態であっても、当座の武器弾薬を与えただけで、日本列島ではモンスターとなる戦力だった。
北日本軍としては、東京と第一騎兵の間に割り込んで、東京を人質に取ることで動きを封殺する積もりだったと言われている。
それ以外に、自らが勝てる見込みがなかったからだ。
しかし、当初奇襲に成功した北日本軍は圧倒的だった。
アメリカからの情報を信じて、ほとんど通常の警戒配置(デフコン3状態)のままだった第2師団は、圧倒的兵力差もあって一部が壊乱してしまう。
その後、狭隘な谷間の地形が多いという地の利を活かして何とか態勢は立て直したが、圧倒的な劣勢下に置かれた。
北の侵攻後すぐに出動した第77師団も、部隊が戦時動員を行っていない上に「抑止力」として北関東各地に分散していたため、書類上の戦力は発揮できなかった。
戦力差の少ない新潟の第3師団は、事前に構築されていた山岳部の野戦要塞群に頼ることで十分に踏みとどまっていたが、関東では一週間で60キロメートル近くも進撃を許した。
一見たいして前進していないように思えるが、福島地方から北関東にかけては当時まだ開けていない場所が多く、道も不十分だった。
そうした場所で十万の大軍が不十分な道で長い縦列を作り、尚かつ敵と戦闘を行いながら前進したことを思えば十分な前進距離だった。
実際、少数部隊によるねばり強い遅滞防御戦闘が北日本軍の前進をこれだけに抑え込んだのであり、僅かな阻止爆撃でも有効な戦果が挙がったほどだった。
しかし北日本軍は自らの味方である時間を重視して、犠牲を省みず突進を繰り返し、強引な前進を実現していた。
そして自らの血によって活路を切り開いた北日本軍は、国連総会で国連軍派遣が決まった7月2日に宇都宮、水戸前面にまで迫った。