というわけで、文字喧嘩は、たとえそれが音声ではなく「文字」でなされているとしても、人間主体が行う「話すこと」に属する。一方、メモ書き、およびその極限としての「小説」は、人間主体の“外”で、自分自身の「生」を生きはじめる。だから、「私」が「書くこと」に逃げ込むのは不可能であるが、それに参与することはできる。ちょうど、自分の子供を育てることが「自分の拡張」ではありえず、ただ遺伝子か法か人情かによってつながった何者かに対して参与できるだけのことであるのと同じように。