とある引退喧嘩師の落書き

16I1◆i1b8rn8Zr.
2022-08-14 21:56:03
ID:Ac9aLn4c

>>trueさん

私の落書きに対してご丁寧にどうも。
名も知られていない廃墟掲示板を不法占拠して、板の主旨とはまったく無関係な落書きを残すという悪趣味なことをしていただけです。当時は閲覧者の目を考えたこともありませんでしたが、閉鎖されてしまうと一抹の寂しさを感じました。私の存在はまるで最初から無かったかのように落書きとともに電子空間上に消え失せてしまったのですから。その余りの空虚さに耐えられなくなってしまい、ここにやってきました。この文字の羅列が私という現存在の叫びなのであり、ただ一つの存在根拠なのです。人間は自己の存在を常に確実なものにしたいという本能があるように思います。哲学の営みは、理性的営みであると同時に、人間という種が有する本能の営みなのかもしれません。

存在と認識、そして主体の問題は複雑な網の如く絡み合い、我々の理解を永遠に遠ざけているようにすら感じます。
対象という概念は認識の主体と客体があって初めて成立する概念です。したがって認識の前に、対象が存在することはあり得ません。自然科学の分野では、主体は世界という自然を客体に変換することで、世界を対象化し、我々の認識の下で再構成します。しかし、この自然科学的認識は、実は自然という絶対者の存在を仮定しています。我々は自然科学の世界に浸り過ぎたたために、この認識を当然のように受け入れていますが、科学がその認識の対象としている自然の存在を保証してくれるのはいったい誰なのでしょうか?なぜ私たちは今見ている景色が幻覚ではなく、間違いなく存在していると信じているのでしょうか?
こんな意地悪な質問に対して、私ならこう答えます。

「私が見たからである」と。
私という主体が認識したから、目の前の世界は存在しているのである、と。
すなわち世界とは私が認識する全てであり、認識の外に存在はありえない。

不変の真理たる存在Xを仮定しても、それは概念として存在を認めることが限界で、仮定以上に押し上げられることはないでしょう。我々が不変の真理を認識したとき、存在Xは認識の客体という次元に下がってしまいます。認識が変容する可能性を認めるならば、認識の客体もまた常に変容に晒されます。客体化した瞬間にXは不変という真理の条件を喪失します。こんな存在Xを人類が扱えるはずがありません。ture氏の仰るように人類に解明することなど不可能です。論理的証明を神のように崇める喧嘩師の皆さまであれば、証明しようがない概念上の存在Xを信じることなど到底できないはずでしょう。

自然科学的認識とは、自然という巨大な聖書を解読することであって、我々はその手法に絶対的な権威を付与し、自然世界を真理として認識しています。真理とは人間が作り出した一つの偶像に過ぎないのではないでしょうか?我々は真理というアッラーを無意識のうちに信じてしまっているのではないでしょうか?
論理的証明と科学的観測の正しさを我々は疑わずにいます。そこに懐疑的になったとき、陰謀論ですら容易に否定できないという事態に陥ってしまう。それは確かに恐ろしいことかもしれません。しかし、二度の大戦を経て、科学の正しさに疑問を抱いた現代哲学はまさにtrue氏が恐れるものを導き出しかねない代物なのです。だからこそこのテーマはあぶなかっしいのです。
科学の強力で眩しい光は、個人の目を盲目にさせてしまいます。しかし、余計なものを目に入れずに済むわけですから、その方がよっぽど幸せに生きられるのかもしれません。

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