とある引退喧嘩師の落書き

8◆i1b8rn8Zr.
2022-08-13 23:01:41
ID:LdXw//YM

認識・存在・真理・・・これらのテーマは古代ギリシアの時代から何世紀にも渡って、多くの哲学者の心を魅了し、今なお色褪せない輝きを放っています。時に我々の存在自体が危うくなってしまうような危険な論理展開をする者までおりました。せっかくなので存在論の危ない世界に入っていくことにしましょう。

世界とは私が認識する全てであり、認識の外に存在はありえないと考えることは可能です。その逆も仮定することが可能ですが、いずれも他者への実証をすることは不可能です。「私」という個人の認識から普遍性を抽出するということは、私に出来うるはずがなく、他者にも不可能です。宗教はそれをもっとも如実に示す良い例でしょう。イスラム教徒にとってアッラーは間違いなく世界に存在しており、絶対的な真理です。イスラムに限ったお話ではないですが、宗教世界ではすべての存在が神から始まります。アッラーが世界の存在を保証し、真理を保証します。しかし、ここに時間という一つの軸を挟んだ瞬間、その様相は複雑になります。ハイデガーが『存在と時間』で提示しようとして、ついに完成を見れなかったテーマです。アッラーは未来永劫に渡って絶対的な真理たりえるのでしょうか?そしてそれはいったい誰が保証してくれるのでしょうか?歴史の中で変容してしまうとしたら、それを真理として良いのでしょうか?時間にも普遍な完全なる真理とは、神のさらに上位の形而上の存在を仮定するしかないのでしょうか?人類が認識できるはずのない時間を超越した形而上的存在にどれほどの意味があるのでしょう?
少なくともイスラム教徒は、アッラーこそが時間を超えた唯一の神であると認識しています。それを他者が否定することは出来ようがなく、自分の首を絞める自殺行為にしかなりません。これもまた一つの真理として認めてもよいのではないでしょうか?存在論と認識論という古いテーマを持ち出さずとも、上記のように真理を相対化することは容易にできうるのです。

真理が相対化された世界では、いみじくも名無しさんが仰るように常に真理の根拠たる何かを探してしまいます。もっと噛み砕いて述べましょう。私が目で見ているものは、本当に存在しているのだろうか、単なる幻想ではないのか、という不安に我々は常に晒されています。個人の経験世界が真実と幻想の狭間で揺れ動いたとき、人は正気を保っていることができません。統合失調症の患者が発狂してしまうのはこのためであり、彼らにとって目にする全ての存在は固定化されてない思考の浮遊物に過ぎません。
人類はそこで、根拠となる存在を認識する特定の記号を生み出すことになります。かつてはそれは聖書のテキストであり、現代では科学的観測がそれに当たるでしょう。人々はその認識の手法に絶対的な権威を与え、あたかも普遍的認識かの如く振る舞うようになるのです。正気を保つために。

そのような普遍的認識に基づいた存在や概念を我々は「真理」と呼んでいるのではないでしょうか?

さて、陰謀論のお話に戻しましょう。
かつて地動説は陰謀論であり、異端とされていました。薬草を作っていた科学者が、魔女とされ、火あぶりに処されていた時代もありました。未来永劫に真理が変容しないということは最早なくなりました。魔女の時代に戻る可能性もあり、いやもっとさらに現代人が想像しえない真理に遭遇する可能性もあります。現代の科学はかつての宗教社会の虚構性を暴きました(科学的観測に絶対の権威を与えた我々の目からはそう見えます)。絶対的真理のはずだった神の権威を叩き落としたのです。
今度はいったい何が我々の世界の在り様を変えてくれるでしょうか?それを考えるとワクワクしてきませんか?

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