>>880
htmlファイルひとつで一話になる
そのファイル同士を<a href=" ">でつないでストーリーにしていった
>>882
確かに…なんでだろう
でも実際の画面はおかしくなってないはず
>>883
せっかくなので遊んでください
エンディングは全部で13種類!
>>885
WOXページズってhtmlソースを自分で書かなくて
ブログみたいに管理画面で適当に設定したらソースは自動的に作ってくれるんだけど…
だから日向ちゃんの指摘に自分では対応できない
でも実際の表示画面が崩れてないことはPCでもスマホでも確認ずみだから気にしない!
>>887
それでーすw
私に自分で作る能力はありましぇん
自分で打ち込んだのはa hrefのところだけよ
美しさを求める気持ちはわかる気がする
プログラミングでも結果は同じでも冗長な構文だとなんか気持ち悪いとかあるからなー
>>888
HTMLくらいはだねw
だからこそ独自関数とかClassが使われるよねぇ
別に原始的に毎回コピペして処理複数個書いても出来るけどClassとか関数にして
何度も書かなくて良いようにするのが基本
>>889
勉強するほどの動機がない
やるなら11年前にネットデビューしたときちょっと興味持ったからあのときやっとくべきだった
似たような処理をいくつも書いてると「美しくねえ」って思うのはみんな同じなんだなー
私の場合は大昔のBASICだったけどやっぱり見た目のスマートさへのこだわりがあったなー
かつてWinXPからWin7にアップグレードしたノートPCをXPに戻した
と言ってもXPから7にしたとき別のSSDを使ったから元のSSDに付け替えるだけでXP環境再現w
裏蓋のネジ外してちょいと入れ替えればいいんだから別々のSSDにしといて良かった
ちなみにデュアルブート環境は作り方がわからん
マシンはコレ
http://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/0609/14/news058.html
CPUはCore2 Duo T5500でメモリは1GBという構成(1GBなのでギリギリWin7に対応)
HDDがIDEでなく当時はまだ珍しかったSATA接続なので今でも容易に交換できる
>>893
そーてっくは性能の割に安くてよかった!
作りが雑だったけど気にしない!
一部で「総鉄屑」と言われたけど私は気に入ってた
どうでもいいけどドスパラってDOS/Vパラダイスの略だったよね…
DOS/Vっていう言葉自体がもう懐かしくてたまらないんですけど…
富士通FMVのVもDOS/VのVの名残だもんな
頭のなかでタブレット、スマホ、パソコン、ノート、2in1って部類ワケされてた
ちなみにオレも最近ノート欲しい寝っ転がってPCやりたい
>>905
私の頭のなかではスマホ、タブレット、ノートPC、デスクトップPCって分類
2in1はタブレット+専用キーボードみたいな感じ
それからネットブックという分類がいまだに残ってる(たまに使うし)
http://jin115.com/archives/52199232.html
冗談だろ.....。
常々思うんだけど、親を敬えっておかしくない?
自分より優れていて見習うべき能力があるから敬うんであって、年上なだけで敬うとか頭おかしいんじゃねえのって思う。日頃家事をしてくれたり、養ってくれたり、感謝はしてるけど、それだって敬うべきものじゃない。子や家庭を持ったのならそうするのは当たり前の話でしょ。家事をすることのどこを敬えって言うの。働くことのどこを敬えって言うの。当たり前のことを当たり前にやってるだけのくせに何でそこまで偉そうなんだよ。
こう言ったら大抵の大人はこう言う。
>その当たり前のことすらできない子供なのはお前、お前より親が優れてるんだから敬って当然だろ。
いや、違うでしょ。当たり前のことすらできない自分を低く見るのは何もおかしくないけど、だからと言って、宿題やってこない人に宿題やってる人に敬えっておかしすぎる。だってやってくるのが当たり前なんだから。敬うべきなのはテストで良い点数を取る”+のこと”であって、宿題みたいな当たり前のことは”±0”でしかない。
±0を敬うとか本当に低レベルな人間だなって思っちゃう。当たり前のことができるようになるのなんて大前提すぎるわ。そこから+のことができるようになろうとするのが人間なんだよ。
>>911
なんてことだ
>>912
まあ敬えと言われて本気で敬えるものなら、北朝鮮で金正恩は国民から真に尊敬される存在になってるよね。
優れた能力を持つことは敬う理由のひとつになるけど、敬うのはそれだけじゃないと思う。例えば、大した能力がなくても人格的に尊敬できる人もいる。
じゃあ、能力的にも人格的にも特別優れていない場合の親はどうなのか。
単純に言えば、親がいるから自分がいるわけだ。親がいなければ自分は生まれてないし、育ててくれなければ今のようなあり方をしている自分はいない。
生まれてきたこと、生きていること、そして今の自分を作ってくれたことに本当に感謝できれば、強制されなくても親を敬うことになるよ。
でも実際には少なくない子供が、「生まれてきたくなかった」と思ったり、「こんな自分は嫌いだ」と思ったりする。そういう子供は、生んでほしくなかったとか、こんなふうに育てられたくなかったと思って、親を恨む。それは子供自身にとって不幸なことだよね。
自分を好きであれば、幸せであれば、そんな自分を作ってくれた親を自然と敬うようになる。自分が嫌いで不幸であれば、親を嫌うようになるだろう。親を敬えるかどうかは、結局、自分自身が幸せかどうかによる。
幸せかどうかは、社会的や経済的な地位も関係するけど、それよりも本人の人生観によるところが大きいと思う。下層貧乏でも幸せを感じている人がいるし、上流富裕層でも不幸な人はいくらでもいる。「親を敬え」ということは、北朝鮮みたいに首領様を無理やり尊敬しろということじゃなくて、「親を敬えるようになれ」、つまりは「自己肯定できるようになれ、幸せであることに気づけ」ということだと思う。
自分の人生を肯定し、自分が幸せであることを知れば、そんな自分を形作った両親のことは自然と敬えるようになるからね。
…とは言っても、どう考えても敬いようのない親がいるのも、残念ながら事実。虐待されてる子供が加害者の親を敬うなんて無理な話。親を敬えと言うのは一般論であって、一部にはどうしようもない親もいるよ。
あるところでこういう相談を見たことがある。ネタかもしれないけど。
自分の父親は犯罪者で刑務所に入ってたこともある。で、あるとき学校で「尊敬する人について作文を書け」と言われて、父親のことを書いたら、犯罪者を尊敬するのかと言ってみんなにいじめられた。自分は親を尊敬したらいけないのでしょうか? という内容。
ネタかもしれないけどマジかもしれないから私はこういう答えを書いた(実は書いてないかもしれない。試し書きを送信せずに消すこともあるから)。
あなたのお父さんは社会的に悪いことをしたから、周りの人に恨まれたり軽蔑されたりすることもあるかもしれない。それは仕方がないかもしれない。でも、あなたにとってはかけがえのない親なのだから、あなたが尊敬したいのなら、誰にも遠慮せずに尊敬してほしい。悪いことをしたとしても、少なくともあなたに対しては、それだけのことをやってきた証拠だ。悪いことという行為は肯定できないが、あなたのお父さんという人間そのものを、子供に尊敬するなとか強制できる人はいない。恥じることなく尊敬するように。…という感じの回答。
これは反対に、敬いたいのに「悪い奴だから敬うな」と言われた例だけど、子供にとってはいい親なのだろう。それに、親を尊敬してるということは、その子は親に感謝して、生まれてきたことも肯定してるのだろう。社会的には最低でも、それでも尊敬できるのは、本人が前向きに生きることができてる証拠だと思う。
親を敬えという道徳は特に儒教で強調されるけど、儒教以前からある道徳だよね。なぜ尊敬すべきなのか、理由付けは教えによっていろいろあるだろうけど、私は親を敬うことは自己肯定で、自分が幸せであることだと思う。
「自分を不幸と思うな、幸せであることに気づけ。…そしてそんな自分を作ってくれた親を敬え」というように私は考える。
現在私は改名の時期を迎えておりまして、
やはりキャスフィ避難所の代表ともうたわれる方に一つ
私の改名後の名前を提案していただければと思います。
大変忙しいなかご迷惑をかけますが、私からのお願いでございます。
お題はダッセー名前なのでもし考えて頂けたならご足労ですが喧嘩板
にたててある改名します!!!というスレに書き込んで
頂けたならと思います。
>>913
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2007/0319/123538.htm?o=0&p=0
この掲示板サイトのスレが一番参考になったんだけど、”尊敬”っていう言葉のニュアンスがそれぞれで違ったりしてるね。
だからかもしれないけど、
>今の自分を作ってくれたことに本当に感謝できれば、強制されなくても親を敬うことになるよ。
というのが理解できなかった。というのも、俺の思う”尊敬”というのは、自分が見習うべき指標だと見定めることだっていうニュアンスが強かった。でも辞書で調べてみたら、相手に礼儀を払うとか、礼をつくすだなんて意味もあった。
見習うべきか否かで言えば、>>912で言った通りなんだけど、礼儀をはらうか、相手を尊重するか、といった相手を大切にして自分以上に扱うという意味では否定しない。
>>918
私の言ってる「敬う」は、辞書の意味と同じかどうか分からないけど、自発的に相手を自分の上に置こうとするような気持ち、という感覚になる。
「見習うべき指標」と考えたら私の意見もちょっと変わる。親だって普通の人間だから、長所もあれば短所もある。別に短所を見習えとは言わない。長所を見習い短所は見習わないというのは、相手が親だろうと他人だろうと年上だろうと年下だろうと区別はないと思う。
でも、「親を敬え」という時の「敬え」は、そういう意味じゃないと思うよ。たとえば親の能力とか人格とか様々なものをひっくるめて数値化できると仮定すれば、偏差値40の親は大して敬うに値しないけど偏差値60の親は敬うべき、という話になるのか。見習うという意味ではそうなると思う。でも、親を敬えという時の敬うは、親偏差値の高い低いの問題じゃない。敬うべき理由は能力などの高低ではなく「親だから」なんだよ。
礼儀を払う、礼を尽くすというのは、ちょっと表面的な感じがする。たとえば学校の先生や職場の上司には礼儀を払わないといけないけど、それって内心でどう思ってるのかと関係ないじゃん。内心「なんだこの野郎」と思いつつ表面では丁寧な態度をとってきたことは誰でもあると思う。それは「社会的に目上だから」という理由に過ぎなくて、親に対する敬い方とは違う。社会的地位の高い人には表面的には丁寧に接しても、内心軽蔑してたり恨んでたりする例はいくらでもあるだろう。
親を「敬う」のは、心の中で親を自分よりも上位の存在として大切にしつつ、そのうえで礼を尽くすことだと思う。そういう意味で、なぜ親を敬うべきかというと、親は自分の存在の源だからだ。自分を大切に思えば、そんな自分を作ってくれた親に感謝し敬うことになる。だから、親を敬うというのは、親を大切にするとともに自分を大切にすることでもある。
親は年長者でもあるけど、ただの年長者じゃない。だから、ナチュラルの示したサイトの質問とは別の問題だと思う。
>>913で一部には虐待親など敬えない不幸な場合もあると書いたけど、それは自分を大切に思うことと親を大切に思うことが決定的に対立してて両立できないからだ。自分の幸せのためには親を排除しないといけない、という不正常な極限状態では、さすがに親を敬えないだろうからね。
南雲の道徳的な口ぶりが納得行かないな
間接的にお前不幸だからそんな事思えるんだよwってのをめちゃくちゃオブラートに包んでるだけじゃん
なんかすっごいその親に対しての話だけは
読んでてイライラするからメタクソ煽りながら反論したくて仕方ないのだけど
この20何年間で何度か親に殺されかけて
家に2〜3回は警察来てるし児相だかとも何度か面談みたいなのしたのって
南雲の言う虐待のソレっぽいのかと思えて
反論消す時間があるって言う
13くらいの時にもうお前と一緒に生活したくねえって家追い出されて
祖母の家に送られた時に児相に
俺も親と暮らしたくないから施設が良いって言ったのに家に帰った時は少し絶望したの思い出した
>>919
>親は自分の存在の源だからだ。
要するに、自分の成長を担う何らかの世話をしてくれたからってことだよね。だったら”親だから”だなんていうのは違うんじゃないかな。親でなくたって、先輩とか親戚とか、何かしら自分によくしてくれる人を尊敬するのと同じだと思う。
一番理解できないのは”産んでくれたから”っていうところなんだ。別に不幸に育ったわけじゃないから、恨む理由なんてないけど、それでもこっちは勝手に産まされた立場だ。確かに、今幸せな自分があるのは産んでくれたからだけど、逆に言えば、産まれなければ不幸だとか幸せだとかいう概念もない”無”の状態なんだから、そこをとって幸せだとするのはおかしいと思う。
自分が産まれたその時以降に尊敬とか感謝とか生じるのであって、産んでくれたことを感謝するというのはなんとも理解し難い。
楽しく雑談したいのにいつも暗くて真面目な話になってしまう.....。
なんか楽しい話しようぜ...話題ないけどなw.....。
>>923
もちろん、今の自分を形作ったのは「親だけ」じゃないから、先輩やら親戚も同じような意味で尊敬すべきだと思う。でも普通は、親とそのほか先輩や親戚とは、その度合いが全く違う。
>一番理解できないのは”産んでくれたから”っていうところなんだ。
>それでもこっちは勝手に産まされた立場だ。
やっぱり究極はそこに行き着くだろうね。こっちは産んでくれなんて頼んでいない。特別不幸な人生じゃなくても、特別幸福に生きてもいない。むしろ人生、辛いことのほうが多い。プラスとマイナスと比べてマイナスのほうが多ければ、生まれなかった「ゼロ」のほうが良かったかもしれない。そう考えても不思議じゃない。
結局それは、生きること自体の価値の問題になってくる。人生の根本的な問題になりすぎて、私もうまく説明できないんだよね。というか、生きる価値そのものは、理屈で説明することは難しいと思う。
私は今のナチュラルと同じ年頃に漱石の『行人』を読んだけど、すごく聡明な主人公の一郎ですら、「解」を見出しながら自分自身はその「解」に到達できなかった。むしろ一郎は、物凄く聡明な知恵がかえって邪魔をしているように見えた。
生まれてきたこと自体、生きていること自体に感謝できるようになれば、産んだ親を「産んだこと」のみで敬えると思う。でもそれは一種の境地であって理屈ではないんだよ。納得できないかもしれないが、こればかりは知識で識るのではなく、体感する以外にない。それが容易にできないから、人は宗教なんかに頼るようになる。
でも私は、「生きていて何の価値があるのか」という問いに対しては、「生きていることそれ自体を超える価値なんて無いし必要もない」と答える。これはいろんな人に対して答えてきた。私なりに到着した「解」だからね。
結局一番重要なところはまともに説明できないじゃん!と思うかもしれないけど、人生の大問題を上手に簡潔に説明できるほどの能力は持っていないし、不可能かもしれない。どこかにそれを出来る人がいたら、その人の説明さえ読めば誰も人生に疑問なんて感じなくなるはずだけど、そんな説明見たことないからね。むしろどっかの怪しい教祖サマくらいしか自信満々に説いてないように思える。
でもここにいる我々全員が「産まれてきた」という現実を持っているし、今現在「生きている」という現実もある。それなら、そのことを肯定できるようになるのは、究極的な目標であることには違いない。産まれてきたことを歓ぶことが究極的な目標であるなら、産んだ親への感謝もそれと一体になる目標といえる。「生きてることに感謝しろ」と言われても「なんで感謝すべきなの?俺そんな幸せじゃないよ」という話になって急にはできないだろう。それでも、産まれて生きているという現実を持ってる我々は、それを歓ぶこと以外に"目指すべきゴール"は無いし、それは同時に親に感謝するということにもなる、ということかな。
真正面からの説明じゃないことは分かってるけど、私が言葉で説明できる限界はそのあたりだと思う。他人を納得させる力はないけど、自分では納得してる。まあどれほど実践できているかと言えば怪しいけどね。