言語の機能を社会的・公共的な規則に還元したり、それに準ずるものの中で収めようとする立場とそこからの離脱・脱線・揺さぶりなどに可能性をみようとする立場がある。もう言語学とほとんど見分けがつかなくなり、差別化のために学問として問題のある「形而上学」をひっそりと付け足している分析哲学(公務員哲学)ならともかく、フランス現代思想の人間が後者の可能性に賭けない、とはどういうことなのか。哲学そのものが公務員化している、とでもいうのだろうか。