喧嘩のずるい勝ち方の例:最低限の論理的表現力あるやつこい

187cope
2018-09-12 21:37:12
ID:6OFDx4KA

少し補足すると、「旅」と「物語」が哲学的には類義語と言えるというのは、
別に”哲学的だから特別”という話じゃないんだ。
英語ではよくある事で、ある特徴を持った状況を、同じ特徴を持った言葉で説明し、それがのちに正式な用語になるっていう事は
不思議なことではなく、言葉の使い方として正しく、自然に起きる事なんだ。

例えば「確信犯」という言葉は「間違いに気づかないで、正しいと信じこみ行われる行動」を指し示す言葉だけど
「確信的」という、よくにた別の言葉は「間違いを心の底で気づいている様子」を示す言葉で
この2つの言葉が似ている影響から、確信犯が「間違いを心の底では気づいているが、あえて行動をする事」という意味に変化していった。
これは「言葉の意味が分かっていない、いけない間違い」ではなくて、「よくにた言葉の、よくにた概念が混同されてしまった結果」でしかない。
そして、この新しい「確信犯」の解釈は今では辞書にのっている。「~から転じて」という注釈の元に。
さらに、辞書で言葉を調べて言えると「~から転じて」という言葉が少なからずある事もわかると思う。
ここからも分かるように、言葉とは概念の区別をするために使われるものであって、意味の定義ではなく、概念が先行する。
その概念の混同によって、後追いする言葉の意味の定義そのものが変えられる事は「間違い」ではなく、”言葉の法則”からいって「正しい」事なんだ。
これが「言葉」というものの仕組みだよ。

だから、クレームを「知恵、主張、閃き」と表現する事は、言語化さえしていないが、
”その人の個人性に依存する経験、あるいは思考から導きだされた意見・知識”を概念的に表す言葉の使い方として正しい。

じゃあ、最初の疑問に戻ろう。
共通認識が成り立たない言葉は本当に使えないのか?
ここでの共通認識とは”概念が共有できているかどうか”である。
この意味において「概念が共有できていなければ、言葉は使えない」という事が言える。
しかし「概念が共有できていれば、言葉は使える」という結論がわかるね。

すると、やっと「言葉」についての本題が見えてくる。
それは「概念は主観であるか、客観であるか?」という問題だ。
そして残念ながら、この答えば「概念とは原則主観的なものであるが、実証において客観的なものである」という答えになってしまう。
というのも、ぼくの持っている概念と、キミのもっている概念を、明確に比べて、
それがまったく同一であるか、あるいは一定の基準以上で共通性が認められるか?というのは、調べようがない。
調べようがないが、”言葉”を通じて概念を運用する限り、
少なくとも、この日本で「概念の区別を言葉で区別する事で示す、表したいもの」は、そこまで食い違いは起こっていない。
一定の基準値以上の共通性が実証的に観測できると言っていいだろう。

それを、仮にここでは、”言葉”としての客観性を、こう定義しよう
「原則主観によって発せられる言葉が他者に受け取られたとき、話に食い違いがない事を、主観から言葉が”切り離された”とし、客観とする」

名前:

メール欄:

内容:


文字色

File: