感想文がいかに論理的で正当性を帯び説得力があるのかを競うのが喧嘩w

120ななし
2018-11-19 08:18:41
ID:fD19.nQ.

【論理的というものについて】
佐藤 十号

僕は、論理的というものは結局の所、何だか厳かでそれっぽいものだと思いました。
何故なら、論理的というものの基準自体が、個人の感性によって違っていて
そして、その中でもより正確で明確な論理的を求めることは無駄だと思ったからです。

例えば、僕はこの間遠足で動物園に行きました。
動物園には色んな動物がいて、中でもゴリラがとても印象的でした。
でも、一口にゴリラと言ってもどんなゴリラだったのかはみんなにはわからないと思います。
仮に、ここでより正確なゴリラをみんなに示す(より論理的に説明する)必要があるなら
僕が見たゴリラは、サル目ヒト科ゴリラ属に類する哺乳類-通称ゴリラであり、そしてその中のニシローランドゴリラ(英名-Western Lowland Gorilla)というものだと説明するのがより論理的だということになります。
そしてこれは、ゴリラの説明に留まりません。
使った言葉の意味、なぜ書くに至ったのか、動物園はどこなのかなどなど・・・あげたらきりがないほど説明しなければならないことになります。

ということは、論理的というものはどこかある一定の所で線引きをしなければ
説明の平易性を損なってしまう状況に陥っていることになります。
では、ある一定の所とはどこなのか。
それは結局、個人の感性による所になると思います。
「ここまで言えばわかるだろう」
「ここら辺でも伝わるだろう」
そういった、ある種の諦め、または希望を覚える(持つ)事が絶対的に必要になってきます。
論理性と平易性のバランス。
その釣り合いをうまくとることがある意味での論理的な答えになると思います。
そして、そのバランスも結局の所感性による所となります。

なので僕は、論理的というものは一見素晴らしくて、実に明確で的確なものだと思われがちだけど
実際にはそんなことがなく、個人の感性によって差が生じる曖昧なものとして
だから「なんだか厳かでそれっぽいもの」と表現しました。
そして、論理的を今後どう捉えればいいかという点に関しては、
端的に言うと「主張、主張に至る道筋、根拠の提示、それらの信頼性を担保する説明」
がなされているなら、それは論理的とみなしていいと思いました。

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