殺していいとは思っていませんがじゃ何故殺していけない
のかって聞かれると分からなくなるからです。
自分も殺しては駄目とは分かってるけど何故いけないのかが根本的にわからないからです。
文章破壊しててすいません
人を殺していいってなったら
自分が理不尽に殺されるかもしれない
安易に殺されたらたまったものじゃないから
罰則を設けて抑止もしている
だからといって完全になくなるわけじゃないけど
抑止には一応繋がっている
だけどテロでの無差別な殺人を防ぐためという
理由付けて理不尽にミサイル飛ばして関係の無い人
まで巻き添えに人を殺すこともある
何故殺してはいけないのかの理由なんて
ルールを決める立場の人次第で変わってくる
殺してはいけないというものは人間の心にある感情で逆に殺そうという感情もある。つまり人を殺してはいけないわけでもない。殺してはいけないというきまりを作ったからである。
>>9
そんなもん知らん
俺の考えは、人として生きていく以上、同じ人間同士で殺す殺されるという事は望ましくないから。
なんのために作ったのか
権力者とか力を持った人が殺されないために
設けたルールじゃない
自分に危害がないようにするための
1つとして作られたもの
>>10みたいに道徳的な理由を言っても
実際には権力者とか力を持った人に都合が悪ければ
適当にそれっぽい理由で人を殺させることもできる
というかしているわけだし
その時の力を持った人の都合がいいように作られた
ルールなんじゃないのかな
https://youtu.be/rCptEOgHyUs
これは酷い。最後らへんに教師が刃物で生徒を刺してる
「人を殺してはいけない」という法律的、または道徳的なルールがありながら、戦争で敵兵を殺すことは賞賛されるし、たくさん殺せばむしろ英雄として尊敬の対象にさえなる。この部分を含めて考えるべきだと思う。
根本的に、人間は個体での身体能力は他の動物に比べて劣っている。原始時代を考えれば分かるが、狩りで獲物をとる場合でも、猛獣から身を守る場合でも、人間は集団でこそ可能なうえ、ただの集団でなく役割分担を持った組織的な集団だからこそ生存することができた。チームプレイということもできる。集団内で殺し合いが次々と起きたら、チームプレイも何もあったもんじゃない。集団全体が獲物もとれず身を守ることもできず自滅するだけだ。
ところが、人間にとって最大の敵は猛獣よりも人間というのが特徴的だ。これは他の動物には見られない現象だ。他の動物も群れ同士で縄張り争いはやるが、自分たちの生存に必要な範囲を超えて、かつ自集団のかなりの犠牲もかえりみずに他集団を滅ぼしてしまうところ、人間の縄張り(領土)拡張欲は特別に強烈だと言える。
何故か知らないが人間はそういう習性を持ってしまった。食物連鎖の頂点に立っても満足しない。そういう人間同士の戦争行為に勝利し、または他集団の侵攻から自集団を守るためにも、自集団内での殺人行為は厳に禁止しなければ集団の滅亡につながる。一方で「敵」である人間を殺すことは、自集団の防衛や勢力拡大において賞賛されてきた。
皮肉なことにそれこそが人類繁栄の原動力になっている。単に猛獣相手に頂点に立てばいいだけなら、組織や役割分担も単純なもので事足りる。人間最大の敵が、常に自分たちと同じ能力を持つ人間だからこそ、国家や軍隊のように高度で複雑、統制された組織が発展していった。テクノロジーも戦争のために発展した部分が見逃せない。そういうものが未熟な文明は、より発展した強力な文明に滅ぼされてきた。もしかしたら人類は、進化し繁栄するための手段として、人類同士で殺し合う習性を身につけたのかもしれない。
一般的には外国の人間だって殺してはならないが、戦争の場合の敵兵だけは百八十度価値の逆転が起きる。敵国だって民間人を殺すことはアウトだと言っても、原子爆弾や東京大空襲などで民間人の大量殺戮が行われてもそれは結局、咎められずに終わる。ただ、敵国といえども人間同士だという同胞意識、人類全体を大きな「自集団」と見なすことで批判は受けるけれども。
結局、人が人を殺してはならないのは、「自集団の繁栄のため」ということだろう。その「自集団」が国家単位になるのか、宗教(宗派)単位になるのか、人類全体をさすのか、それは集団の支配階層や個人の考え方になるだろう。「殺してはいけない」というのは正当防衛の場合は外される(「自集団」が集団ではなく最小単位の自分だけになる)し、または法律論は別にして、自分の子供が危険に晒された場合、我が子を守るために、脅威となった人間を親が殺してしまうことが必ずしも批判されない場合もあるだろう。これは自集団の範囲が「家族」という小集団になる例だと思う。このように「自集団」の範囲は場合によって変動するが、議題である「殺してはならない」理由は、自集団の生存と繁栄のためということになるだろう。その生存と繁栄という目的に合致するならば、殺すことが容認、場合によっては奨励されてしまうこともある。
>狩りで獲物をとる場合でも、猛獣から身を守る場合でも、人間は集団でこそ可能
そうなの?
そこらへんにいる野ウサギとかなら、一人で捕まえられそうな気がするんだけど
人を殺せるが、自分が殺されるリスクが高い社会と
人は殺せないが、自分も殺されるリスクが低い社会。
前者のほうが全体にとって都合がいい。そういうことだと思う
何故人を殴ってはいけないか、に置き換えると分かりやすい。一つの理由としては、社会的に考えるなら「強い者が弱い者を殴る世界が構築されるから。」道徳的に考えるならば、「殴られる事はすごく痛くて辛いから。」←こういう共感性を持ってない人間は殴られた(殺された)ほうがいい
別に殺人を許される殺伐とした社会を望んでるわけじゃないんだけど、
まず「人を殺してはいけない」っていうルールは人間が勝手に考えたものだというのは事実。(そもそも「ルール」という概念そのものが人間特有のもの)
ただその人間が生きやすい社会を作ったため、わざわざ人を殺す必要性がなくなっていった。
その単なる「事実」を脳内で発達した新皮質によって「ルール」と錯覚してるのが人間なんじゃないかなって思う。
つまり、「人を殺してはいけない」というのが普遍的なルールだと本気で思い込んでいる人達は、
どこかの誰かによる生存戦略のいい駒として動かされてるんだろう。
今のこの社会は、元々存在していたルールによって作られているのではなく、
所詮は個々の人間を起点としたそれぞれの戦略の一致がドミノ倒しのように広がっていった結果なんだと思う。
基本的に人間は人に殺されたくないと思ってるんだよね
だから人を殺す人は自然に社会から追い出される
社会で生きていく上での最低限のマナー
>>32
「ルール」として決めたのは人間しかいないけれど殺す必要がなければ殺さないように動物はなってる
そもそもわざわざ同族を殺す必要性が存在するなんて動物でも滅多にないよ。
人間は言語を使えたから共通認識を明文化しただけでしょ
「いけない」ってのは、道徳的な絶対的普遍ルールみたいな感じでよくわからない基準に基づいての「人としてしてはいけない」みたいな類のものなのか、はたまた自分あるいは特定の人物にとって好ましくない事が起こるという意味なのか、どういった意味を込めての「人を殺してはいけない」なの?
人は文明として利益がないと殺しはしないと思う
動物でも食料や研究の対象になったり人間に害を与える存在を消す等の利益になること以外では無闇な殺生はあまりしていない
殺人に関しても戦争などその文明(国単位になるけど)として利益が望めることになれば躊躇わない
もし私怨での殺人が日常茶飯事になったら優秀な人材なんかも些細なことで殺される
そんなことがあったら文明の発展が望めない、大損害
だから人殺しをしづらい環境を作った
簡潔に言うと文明発展に不利だから殺しはしちゃいけないことになってるってことかと
>>43
人として利益がないと殺しはしないのに私怨や通り魔が発生するの?
その殺しはしないっていうのは殺しづらい法があった場合の状況?ない場合の状況?
人間社会が暴力に支配されるから。
生命と財産が暴力により奪われるなら、社会の体を成さない。
だからこその法治国家であり、法により生命と財産を守り、社会を維持、反映させるため。
厳密には「正当防衛」によって、
「刑法」が個人や集団の自由の妨害を阻止出来なかった時に「殺す」ことが認められているので
「人を殺してはいけない」ことはない
叉、金正恩のような、国際社会を揺るがす人間も、いざとなれば「殺す」ことが認められる。
みんな殺されるのは嫌だから…?
誰かが殺されたらその人の家族とか友達も悲しむから?
一方的に殺されたらその人が損するだけだから?
みんな平等じゃなきゃいけないから
殺す人だけ満足して、殺される人が損することになったら不平等だから?
あれでもなんで平等じゃないといけないんだ……?
それとも殺してもいいことになってたら
殺し合いが発生していずれ人間が絶滅してしまうから?
ダメだバカすぎて分からない。
でも文明のためにっていうのはなんか違うような…
なんかもっと道徳的な何かがある気がする…というかそうであってほしい。
理由なんてその時代、その時、その国の文化とか色々な環境
背景で変わってくるものだと思う
昔なら自分の利益のために殺し合いもあってそれが容認される時代もあったし
今でも国によっては道徳的なこと抜きに粛清として殺されることもあるし
これからもし食糧難になり、人口だけが膨大になれば
簡単に人を殺すなんて環境になるのかもしれない
そのとき、そのときの生きている人、環境によって理由なんてころころ変わるだろうしずっと価値観が変わらないのかもしれないし
結局理由なんてそのときの時代やらなにやらのとってつけた理由でしかないのかもよ
>>1
藻塩さん。素晴らしい疑問ですね!
「なぜ殺人は違法なのか」についての答えが多くあがっているので、
少しひねくれて「善悪」という観点から考察してみたいと思います。
(先に言いますが結論は出ませんので悪しからず...)
現在、私達の生きる社会においては基本的に「最大多数の最大幸福」が目指されており、
善悪の基準はおおよそこの功利主義的な観点によって左右される事が多いのです。
どういうことかと言うと、例えば幸福を数値化できるとして、
1人の人間が幸福100を得るよりも、20人の人間が幸福10ずつ得た場合のほうが、
結果として後者のほうが幸福の総数が多いので、後者を選択することが善であるという考え方です。
(※凄く簡単な、そして極端な例です)
しかしながらこの功利主義的な考え方が本当に正しいのか否かは未だ議論されることの多いテーマです。
貴方の前に赤いスイッチがあります。貴方がそれを押すと10人の人間が死にます。
ですが、10人が死ぬと、死ぬはずだった100人の命が助かります。
上記のよう(功利主義的)な考え方が正しいのならば、「100人を救うために10人を殺す行為」は善であると結論付けられますね?
ですが、もちろん10人を殺害するわけですから、この行為も「人殺し」に他なりません。
では、「人を殺してはいけない」という理念に基づき、10人を殺さずに、100人の人の死を待つのが善なのでしょうか?
(功利主義に対立する思想として義務論という考え方があります調べてみてね)
これらの道徳論が抱えた数多の道徳的ジレンマを考えるにあたっては有名な"トロッコ問題"という思考実験があります。
これはマイケル・サンデル教授がハーバード大学の講義で学生達にした問題提起としても有名です。
(Wikipediaなどで簡単に見つかりますので興味があったら読んでみて下さいね~!)
あなたはハーバードの学生でもなかなか答えの出せない難問に、中学生にして挑戦する素晴らしい哲学者です。
自分を馬鹿だと卑下する姿もさながらソクラテスですね!(無知の知と言います)
これからも知の探究に励んで下さいね~!
まず前置きだけど、人を殺してはいけないっていうのはあくまで期待可能性がある前提での話であって、例外的に人を殺してもいいことはある。
急迫不正の法益侵害が起きた場合。法益(自己または他人の生命)が急迫不正の侵害を受けた場合に最低限の反撃をして、仮にそれで殺してしまっても罪に問われない。
あと、二者択一の場合。これは、どちらか一方しか生き残れないという状況に陥った時のことを指す。
例えばAはBを殺さないと生き残れないし、BはAを殺さないと生き残れないってシチュエーション。
この場合AとBは二者択一関係にあると言える。なのでここではA及びBが適法行為に出るという期待可能性は持てない。
さて例外の話はこれくらいにしておいて本題へ。人を殺す行為は法律で罰せられる行為、つまり禁止された行為だから。
実際、刑法第26章殺人の罪 第199条にはこう記されてる。
「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」
一般に、この規範(ルール)による行為の評価は規範の評価を理解できると想定される構成員の意識に働きかけて、これに従って行動する構成員の行為によって秩序が維持される(またはそのように図られる)。
規範は、行為者に対して規範に合致した意思決定を行う義務を課しているから、その義務に違反して、違法な行為を行うという意思決定をし、これを実行した場合に社会的非難や呵責性が生じることになる。
1一般的に人を殺すと、殺された人の生命が奪われるが、この生命というのは法によって保護されることが容認されている利益(法益)という解釈がなされているので、人の生命を奪うことは違法なことだと評価出来る。
2近代社会とは 自由で平等な個人が自由意思のもとで他人との関係を構築していくもの。そのため、「個人(構成員)」は自律的且つ理性的な存在でなければならない。
日本国憲法は国民が国家に対してそれらを委託し、個人の基本的人権を示した上で人権侵害がない統治体系を構築することを目標としている。
そしてその目標を達成するための基礎的状況を確保すること(社会秩序維持機能を通じた自由及び法益を保護すること)が刑法の目的。
そのため刑法は行為の善悪の基準を記しており、その基準に違反した者に対しては刑罰を科する。
3少なくとも日本は一般的に「他人を殺さなければ自分が死ぬ」という、某世紀末漫画のような世界ではないので、「人を殺すことはいけないことなのか?」について議論する余地はない。
日本は、どのような基準かはさておき大抵のことを多数決で決めており、
その結果決まった規則に関しては多数派が説得し、少数派がそれに従う(結論には反対でも)という関係が成立している。
そしてその多数派の考え方は「社会は人間がその中で生きることができる空間でなければならない」というものなので、殺人はいけないものと解釈されている。
殺しても良い、殺してはいけないの基準は人それぞれだと思うので
殺したかったら殺せば良いと思います。
自分は、動けない高齢者は殺しても良いと思ってます。
>>53基準は刑法が定めています。それに賛成するか反対するかは自由ですが、違反は許されていません。
個人が「自律的且つ理性的」という近代社会における人間の定義に反する実行行為を行うと処罰されます。
この場合人を殺すということがそれに当たりますが、これは生命という法益に対する侵害なので処罰されるわけです。法益侵害は近代社会が定める秩序を乱すものであると評価出来るので、「悪」といえます。
自律的で理性的な人間は「殺されなければ殺される」というような特殊な状況でもない限り人を殺さないという適法行為が求められています。
法学面の話も興味深いけど
ここでいう殺してはいけないってのは近代国家の政治哲学というより
無政府状態も含めたあらゆる地域・時間軸において
「すべてを説明する原理」としての殺人の禁忌なんちゃうかな
ちなみにたびたび浮上してる論点っぽいけど
僕は「法律が定めたから禁止」っていう理由付けには妥当性がないと思う
法治国家に生まれたというだけで市民がすべての法を暗黙的に承諾してるっていうのは
多数派思想の人間に無制限の権限を与えることを少数派が(死票を入れた有権者だけでなく、たとえば思想を持たない乳児でさえ)事前に同意しているのと同義であって、これは契約の在り方として万全ではないから
世界には人を殺してもいい国もあるわけだから[s30]確実に[/s]「人を殺してはいけない」という共通認識を持ってる日本という共同体の中での話をしてると解釈するのは無理もない
人を殺してもいい所もある
人と殺してはダメな所もある
何かの都合や、事情でよしともなるしだめにもなる
なぜ人を殺してはいけないのかはその生まれた所のルールてでしかないのかもね
理由を求めてもその時そう決まったからって話で
またいつかは変わるかもしれないし
まず、単純に人を殺してはいけない!というだけでないのよ
どういう場合で殺してよくてどういう場合で殺しちゃいけないのか
そこをまとめていくと見えてくる
少なくとも>>1が知りたいのはこういう法律があるから禁止なんだよって知識よりも、
なぜその法が立法されるに至って、どういう合理的な裏付けがあるのかってレベルまで掘り下げた話だと思うんだけど。
単純に人殺しを許したら無秩序状態になるからだよ
ピッコロ大魔王が目指したような「無秩序」は人にとって有害だから。
プロレタリア等に苦しめられてきた人々は革命を起こして自由を手に入れた。
でもその自由は際限がないものだったから、結局無秩序となった。
何でもそうだよ、人間に過度に自由を与えると必ず問題が起きる
掘り下げていくと多分理由はそれぞれ変わっていくものだと
その時の権力や、背景やらで理由は色々で
その時々の都合とかで決まってしまっているものだと
殺してはいけないなんて法律はないし、「刑法199条に書いてあるから」といっても、『殺してはいけない』ということにはならない
罰則を受ける覚悟があるなら殺していいよ
無知の知
現世において神の他に真の知識を持つ者はいません。
唯一絶対たる主が悪と定めたから、悪なのです。
殺してもいいよっていう世界だったら
自分はいつ殺されるかわからないそんな環境にビクビクすることになるぞ。
なんか色々しんどそうだし怖いから。
だから人間同士が自分らより強い絶対的強者な存在、国家を作り、その上で法を作って、それらに逆らうといけないことになるよって罪や罰を人間が作るんだよ。
人を殺してはいけないていうのは、教育でもあり洗脳なんだと思う。
国家の下にあるルール。
ルールで禁止されていなかったら殺しても良いのか
「自分が殺されても構わない」という人は殺しても良いのか
失う家族や友人がいない人は殺しても良いのか
まず、いくら考えてもこの問いに答えを出せる者はいない。
問いそのものが不完全であるから答えも不完全なものにしかならない。
「法律で禁止されているから」というのは不完全は答えであって、
「その法律は○○という理由で作られた」という追加説明があってもやはり不完全な答えでしかない。
所詮、法律が無ければ人を殺しても良いという結論を導くだけだからだ。
だから、「人を殺してはいけない」理由の説明としては色々不足している。
こんな問いには、生憎不完全な答えしか出せないというわけだ。
今は「人を殺したらいけないかどうかは場合による」という答えだけしか出せまい。
だって、君達 「人を殺す」という純粋な行為を、何を根拠に責められる?
「人を殺すのはいけないこと」
確かに、人間社会を維持したいのならばそれはごもっともだね。
人間は「奪ってはいけない」と言われなければ奪うし、
「殺してはいけない」と言われなければ殺す。
「笑ってはいけない」と言われても笑うし、「押すな」と言われても押すけど。
人間は利己的な上に知恵がある分、他の動物より厄介だ。
互いが自己防衛のために同士討ちを始めれば、人間存続などmission impossible.
だから、そういった同族を滅ぼしかねない人間の性質を、「ルール」を決めることで抑えた。
ホッブズを知ってれば解るんじゃないかな。人間は愚かだから、厳しいルールを定めなきゃ滅びてしまう。
>いけないから法律が出来た
じゃあなくてさ、>>1は何故人を殺してはいけないかを訊いてるんじゃないの。
よく話を振り出しに戻そうとする人が表れるよね、このスレ。
何故人を殺してはいけないの?
↓
殺してはいけないから法律が出来た
↓
f(^_^;)??
「法律がなかったら人を殺して良いのか」って
それは「法律があるから人を殺してはいけない」って主張に対する反応だろうし
どのみち「いけないから」はトートロジー発生装置として封印すべきだよね、特にこの話題では。
だって「殺してはいけない理由」を答えられない、でしょ?]
読むのは下半分でいいよ
>>80
俺は別に>>1にレスポンスしてるわけでもなく>>1の問に答えてるわけでもなくただ>>74の「法律がなかったらなかったら殺していいのか」とかいう詭弁に対して物申してるだけなんだけどなにいってんの君
こっちは普通に会話のキャッチボールをしようとしてたのに勝手にインターセプトしてボールを>>1にまわしちゃったのそっちだよね
あ、ひょっとして話振り出しに戻しちゃう人って自己紹介だった?
>>81
>「法律がなかったら人を殺して良いのか」って
>それは「法律があるから人を殺してはいけない」って主張に対する反応だろうし
あのね、そもそも>>74は
>「その法律は○○という理由で作られた」という追加説明があってもやはり不完全な答えでしかない。
>所詮、法律が無ければ人を殺しても良いという結論を導くだけだからだ。
と言ってんのよ
つまりこれって単純に「法律があるから人を殺してはいけない」に対する反論なんじゃなくて「理由があってできた法律があるから殺してはいけない」に対する反論でもあるってわかるよね
んで、大体、他のレスで述べられてる法律ができた理由ってのはその人ら各々が提示した殺してはいけない理由ってなっているんだけども
まあ、ここからはこれを前提として話を進めていくよ
①法律ができた理由(≒殺してはいけない理由)がある
↓
②法律ができる
↓
③法律により殺してはいけない
この3つの事象にはこういう因果関係があるわけだ(言わずともがな↓の順に因,果ね)
で、因果って別に果(③)がないと仮定しても因(①)までないことになるなんてことにゃーならないじゃん、常識的に考えて
つまり「法律が無ければ(③の消滅)人を殺しても良い(①の消滅)」ってことにはならないんだよね
そんなこんなで
>「その法律は○○という理由で作られた」という追加説明があってもやはり不完全な答えでしかない。
>所詮、法律が無ければ人を殺しても良いという結論を導くだけだからだ。
というのは完璧な詭弁であるということが理解いただけたであろうか
こんなに説明要らなかった気もするけど
あと言っとくけど俺は法律ができた理由が人を殺してはいけない理由として正しいとも間違ってるのも言ってないしそもそも>>1の問にはノータッチだからね
些末な話はさておき、
あくまで「理由があってできた法律があるから殺してはいけない」は「法律」を根拠にしてるので無駄な反論です。
当然ながら法律は、その法律が適用される者たちにとって「正しい」ものであっても、決して「普遍的な真理」ではありません。
普遍的な真理ではない上に、殺人を繰り返す者や凶悪殺人を働いた者は死刑に処されるという。
また、戦争による殺人も正義とされる。
ここでは「死刑に限っては法律や国が云々…」という反論は受け付けません。(理由は先述した通りですが、どのみち「殺している」のに変わりはないで、死刑は結局人を殺しているのです)
本来ならば人間は人間を殺します。
では「法律がなければ人を殺してもいい」というのは?まあ、一般論で言えば「いけない」で片付けてしまえますが、それはあくまで先述の通り「普遍的な真理」ではないのです。
法律がなければ人を殺す
これは人の本能です。対して法は本能の抑圧です。本来人間を殺していたのに、それを法で抑圧した。それには無論プロセスもありましたが、結局そのプロセスを経ても「絶対的結果」には辿り着いてはいません。
即ち「いけない」とは断言出来ないし、誰一人として「殺してはいけない理由」を説明出来ず、またその正しさを証明出来ていないのです。
尤も正しさというのは多くの方が想像されるようなレベルのものではなく、全体的に見た「正しさ」です。
ここで…
そもそも考えてみてください。殺人罪の規定がある刑法には「殺してはならない」とは書いてありません。
人を殺した者は罰する というだけです。そこで。そもそも刑法は国からの国民に対する要求。国民からの国に対する要求たる憲法とは逆です。
国から国民に対して、人を殺したら罰する と注意しているだけであり、殺してはいけないとは書いていないのです。
故に「法律があるから人を殺してはいけない」というのは全くの間違いなのです。
法律はただ、罰するだけなのです。ここを勘違いしている方は意外にも多いものです。
例えば国民の血税を自分のためだけに使う悪徳政治家がいたとして──
その政治家を「殺してはいけない」ことはないが、「殺したら罰するぞ」と刑法は言っているのです。
では、法律を守る理由は?
「人を殺した者は罰する」という法律があるから人を殺してはいけない、というのならば法律を守らねばならないということになりますが
これもまた同じです。私に関してはただ罰されたくないだけなので、罰則がなければ今頃やりたい放題やっていることでしょう。
しかし「罰されたくない」は答えになりません。そして「理由があるから」も答えになりません。
先程言った通り、普遍的がない以上、法律を超越したものが出てくる可能性はあるわけですし
その可能性がある限り絶対的に正しいことなど法律には書かれていないことになるのです。
死刑による殺人について先で触れましたがこれはもう生産性のない制度です。
更正の余地がないという不確かな理由を付けて殺人を容認しているのですから、本当に生産性がない。
殺人を働いた者を「殺し」たところで、死人が増えるだけです。
被害者は戻ってきませんし、新たな憎しみを生みますので、全く絶対的な正義とは言えません。
即ち、殺人がいけないのであれば、死刑はあってはならないのです。
然し日本その他いくつかの国には死刑がある。これは「殺してはいけない」という主張を否定していることになります。
もし本当に殺してはいけないのならば、例外は作るべきではないでしょう。
(そもそも、突き詰めていけば死刑は更正の放棄なので正当化出来ません)
例外という言葉は曖昧であり、いつしか当然の特権となっていく。これは根拠を示すまでもなく日本でも多く見られる現象です。
(見たことがないという方はもうじき理解出来る日が来るかもしれないし来ないかもしれません)
例外というものは穴であり、やがて必要なものさえ袋から落としてしまうものです。
故に、例外を楯にして「人を殺してはいけない」を正当化することは出来ません。
人を殺してもよい…これで間違いはないでしょう。
未だかつて「人を殺してもよい」に対して反論してきた方はいませんでした。結局そうなのです。
>>78
ゴキブリとかパンダとかってのはあくまでも具体例。
ほとんどの人が豚を牛を殺して食べる(直接殺すわけではないにせよ)。
もしかしてあなたベジタリアンですか?
じゃあベジタリアンは何も殺してないじゃんって反駁に反論。
植物だって生きてます。
意思があるかどうかは別にして、少なくとも生物であることは確か。
(これを否定されると生物の定義を話し合う必要が出てくるから勘弁。
もし否定するなら新たに生物の定義を議論するスレを立てて。
僕も参加するのでそちらで話し合いましょう。)
あと皆さんが事故による殺人をどう思ってるか知らないけど、
それが罪なら食べるのも罪でしょう。
簡単な話殺したくない(食べたくない)なら自分が死ねばいい。
あっ 自殺も人殺しに含むかどうかも割愛。
後々話し合いましょう。
僕の主張は一応このくらい。
中心が行ったり来たりして申し訳ない。
さらなる反論お待ちしております。
人格の問題が大きい。
命の価値は人間による差別によって変わるんじゃね?
だってよ、ほとんどの人は食物連鎖ピラミッドの下の方は虫で、上の方になると猫とかになる。外から入ってきた虫は殺して当たり前、そんな感覚が定着していってるから?
中学生が考えてもこれしか思いつかん。
頭の悪い考え方だから、頭のいい考えを聞きたいぞ
何故人を殺してはいけないのか。
法律だからです。
何故人を殺してはいけない法律ができたのか。
自分が殺されたくないからです。
自分の命が狙われる日常を送りたくないと思う人間が多数いたため
法律になりました。
簡単でしょう?
>1
厳格な基準の元に本人の肉体的苦痛を短くする目的なら殺人もOK(尊厳死・安楽死)
その他やむを得ない事情がある殺人もOK(緊急避難・正当防衛)
しかしそれ以外の殺人は、目的が稚拙で浅はかで短絡的動機の元に行われ、他の手段があるにも関わらず視野狭窄・思考停止・論理飛躍した結果為されるので、NG
感情自己責任論(解釈の自由と責任)~学校では教えない合理主義哲学~http://kanjo.g1.xrea.com/
>>88
>自分が殺されたくないからです。
じゃああなたはその法律がなかったらウザい人を殺すか?ウザいと思われたと知ったらビクビクするのか?
えーと、続きなんて書こうとしたんだっけ
でも人が人を殺し続けている歴史がある
多すぎてしまうことで食料不足や
エネルギー不足
住む場所の確保
自分とは違う思想のひとの排除
色んな理由で人同士殺し合い都合の良い間引きが起きている
人を殺してもいいとなっても
人が滅びるなんて所までいかないだろう
生きていく上でのある程度の数のマンパワーが必要だから
自然状態におけるリンチ防止の為の社会契約説に基づく法律の制定だろ。
長くしすぎんなよアホくせえ。
自然状態におけるリンチを防止しようとしなかった昔は人を殺すことそのものが悪という考えはなかった。
単純に今の世界では自然状態を防止して大多数の人間の幸福を追求して社会の安定化をはかっているからそういう法律ができただけだろ。
人殺し自体に悪という概念押し付けてその理由はなぜか?とか言い出すのはナンセンス。
そのことは功利主義が善悪判断に重視される今の世の中見てても分かるだろ。
なんなんこいつら。