本当のところは 誰も正義を信じていない筈
「正義」とは少数派を排斥して多数派が悦に浸る現象。心の内の本音を圧し殺してまで多数の無価値な信念に同調する現象。
「正義」は所詮、暴力の正当化
「正義のヒーロー」は所詮、夢破れた落武者達の成れの果て
多数で行う「善行」にアイデンティティーを見出だし、自分に酔いしれる。それが「正義」というもの
誰もが同じ題目に対して同じ考え方をする筈がない
千差万別こそ人が人であるための条件だ
それならば多数派があたかもひとつの「正義」という価値観が存在するかのように振る舞うのは馬鹿げた話でしかない
抑この時代に「正義」があると信じること自体理解に苦しむ
変化自在の個人的解釈に左右されるあやふやな
言葉であるのは確か。
またこの言葉の意味を一番掴みがたいものに変えたのは
宗教である。
宗教とは人の価値観を変えてしまう。
価値観の統一である。
宗教ごとに~はダメで~は良い実際十字軍も
侵略をよしとする宗教戦争だ。
愛を尊ぶ宗教がよく植民地を広げたもんだ、と思う。
人の価値観を統一するという考えが如何にもその時代の人間の浅はかさを物語っている
何と言えばいいのか解りにくいが、主を信仰しても人間は信用出来ない
人は、統一されなければ何も出来ないが統一されれば逸脱しようとする。
ついでに言えば法律も理解出来ない。意味が理解出来ないというわけじゃなく、
あたかもそれが共通認識であるかのように綴られているところが。
絶対的な正義とやらが実在するかどうかは棚上げして
どーゆー場合に「正義」の状態が成り立つのか先に机上で組み立ててみるべきちゃう
例えばある範囲において各人の求める最善の生き方を実行できる状態にあるとき
その範囲内では「正義」の状態が成立しているといえる
ってのはどーよ
>×各人の求める最善の生き方を実行できる状態
>〇各人の求める最善の生き方を全員が実行できる状態
自らの生存のためにBグループから食料を略奪したAグループがあるとする
Aグループにとっては所属集団の生存補助という最善を尽くしたので略奪は「正義」
Bグループにとっては財産を維持するという最善が尽くせなかったため略奪は「不正義」
AとBの和集合では、Bの所属者が最善を尽くせなかったため略奪は「不正義」とする
>>12の過程を理想の背反する複数グループ間で正義を判定する場合
正義をtrue、不正義をfalseという真理値に置き換えれば
true && true -> true
true && false -> false
false && true -> false
false && false -> false
的にちょうど論理積の関係になるね
日本語がやばい
> >>12の過程を
> >>12の仮定を元に
補足として、この仮定における特性は
範囲の対象が広がれば広がるほど「正義」の成立が難しくなること
「絶対的正義」というのが全人類を範囲とするのであれば「正義」状態の成立は現実的でないといえる
あくまで>>12の大前提が正しければだけども
行動する・行動した原因と結果に何故って説明をひっつけて、合意というか、多くの人に賛成される物事を”取り敢えず”は、正義にしようってことかな。んでさ
「正義」若しくは「悪」と名付けようって物事って秩序に直結するものばかりじゃない?そんでさ、「正義」もミクロに見れば「悪」が混じってるもんだと思うんだわ。
秩序を守るために取った行動の罪、罪悪感を薄めるために正義と呼ぼうよって呼びかけた結果「正義」ってなる、秩序を守るための行動への免罪符が「正義」なんだよ。
「悪」と呼ばれてても実は秩序を守るためだったんだけど、単に賛同を得られなかっただけって事も多いだろうねぇ。つまりは「賛成する人が多い事象が正義」単純に。
正義にも悪が混じるし、悪にも正義が混じるから基本的には生活するうえであっても特に支障にならない物事への正義・悪はグレーでしかないから決めれないだろうね。
親子丼って俺は許せないんだよ、卵と鶏肉を混ぜて「親と子を混ぜたら美味しいよw」なんて悪趣味極まりないし、悪だと思うけど、まぁ話す価値も無いって思う人が殆どでしょw
因みに自分も他人も幸せになろうよって考えで取る行動は絶対の正義だと思うけど、幸せも人それぞれだから、まずは人類の幸せを統一しなきゃねぇ。
>>15
「正義」を弱者の畜群本能が生んだ幻想ってみなす考え方はよく聞くけど
強者(社会体制を維持するひと)の行為のコストを隠ぺいする免罪符っていうのはなんかおもろいね
僕も人類共通の正義/幸福があるとはあんまり思わない
道徳はもっと個別的な尺度かなと思う
先に挙げた略奪の例をとってみれば
同じ「略奪」でもAグループの条件下において略奪は正義であり、Bグループにおいて略奪は悪である
正義と悪は同一行為の中に共存できるよっていう解釈のあり方を前提に思弁してみただけよ
ただ付け加えるなら、ベンサムの功利主義と違って僕の考えでは
たとえ最小限に留まるとしても行為の中に悪が混在するならそれはグレーではなく悪と断定してしまって構わない
先の例でAとBを地平融合させれば、その中において略奪は不正義=悪であり
なんなら「地球上に親子丼を悪に分類するひとが一人でもいるなら人類にとって親子丼は悪である」
っていう厳格な価値観だよ
言ってみれば全会一致制の道徳やね
「正義」状態が成立するのは共同体や行為の中に範囲を限定したときに限られるのであり
人類という大きな枠組みにおいてほとんどの行為は「悪」として成立する
したがって道徳規範を人類全体に当てはめるような行為はほぼ不毛でしかない。
戦争や外交のような巨視的な局面では他国に道徳を語るより損得勘定や効用を語る方が得策だ、という近代の主知主義の裏付けにもなるかもね
>>18
俺は「罪悪感」を猛毒だと考えるのよ、一部の人を除いて引き金を引いた自己を心の底から肯定するのは難しいと思う。ケアみたいなものだね、略奪の例でも(真理値はちょっと置いとくけど)集団での生活内のコンテクストを前提に置いての評価だと正義は成立するけれども「知れば見え方が変わる」って言葉を俺は信じてて、例えばシーシェパードは「鯨は知的生命体だから、捕鯨してる日本が倫理的に暴力を振るっている」だから「暴力に対抗する自分たちは正義である」と云う主張だけども、海洋生命群も考察の前提に入れれば、知的生命体である鯨は他の命に暴力を振るっているわけで、暴力を振るう者に暴力を振るっても正義だという主張が日本側にも適用されるだろう。
「知る」事で奪われた側の事情も考え始めれば、正義は凄く曖昧で罪が全く無いとは言えなくなる、だからせめて自分たちにとって「正義」なんだとある意味での言い訳をするって感じかな。だから前提内、範囲内でしか正義は成立しないってのは凄く賛成やね。
功利主義は恥ずかしながら知らなくて^^;ざっと調べてはみた、これの逆の立場を取るのは法益衡量説の被害者側の観点かなぁと思う、大きな利益を守るために犠牲になった側から見れば例えみんなの為に犠牲になったとは言えやられた事は「悪」って認識にはかわりはないだろうって解釈すれば、確かに賛同する人が多いからって個人にとって「悪」が「正義」に変わることは無くて、認識としては「悪」としか考えることは出来ない・・。
俺の考える「幸せの統一」なんてのは、まず社会契約で一般意思が絶対に尊重され、自然法のいい部分だけを抽出、管理出来なければ無理な理想論w。
前提として世界が一つになる、みんなの意思が自然法の良い部分に統一されるって都合のいい前提だから、ざっくり言えば、「皆が命を守る、守り合う、誰の命もなくならないように努める、この意識が根付いてて更に管理する組織が居る」って希釈した幸せでしかないし、無理な理想論だから確かに求めるのは不毛wだし、幸せとしてはもう一味足りてない。 「正義は前提内でしか存在出来ない」コレは凄く納得やね・・。
すべての正義的行為が悪を孕んでいて、行為者は無意識に罪悪感を抱き
それを麻痺させるために正義があるんだとしたら
略奪であれ何であれ、自らの生存や自分以外のための労働にも罪の意識が生まれる事になる
クジラはともかく、自分や帰属する共同体の存亡のための行動にすら罪の痛みが伴うなら
麻酔としての「正義」はかなり切実な意味をもった「正義」になるなあと思った
あんまり関係ないけど、江戸時代の黄表紙とか戯作読んでて
敵討ちで血がドバーッとか、やたら過激な勧善懲悪がテーマになることが多いのは
当時の庶民にとっての世間(共同体)がせいぜい長屋レベルの小さなものだったから
前提範囲の小さい「正義」が物語内で成立し易かったのかな、とか考えちゃう
悪(殺人)が容易に隠蔽可能な正義が是か非かは別問題だけど……
正義とは何かまず自分を曝け出すことはしたくない基準に置いて犯行を犯すことは避けなければならない人より先だって罵ることだってしたくない己を守ることも正義だが人を守ることが正義だってこともある知らない言葉を覚えることもよりによって親密な関係を築くこともある相手に誤解されないように内面を磨く努力だって必要清潔を保つことが相手にとってのプライバシー気品として感じ取って貰えることがある
相手に不愉快にさせないこともまた正義不愉快にも色々あると思うが不愉快にさせることで相手にその場を退けさせたらそれはそこそこ正義につながる場合がある何故ならそれは僕は汚いと思わせるシグナルだからだそれ以上関係が続くこともないしギクシャクしても始まらない汚点として結び付けたらそれこそ悪であり正義ではないか?だから一旦身を離すことがあくまでの目的となって解決することをお勧めする
宗教とはいえ強制的に信じ込ませるものだけでは無いし大半が自らの信じるものを信じて、そこから信仰を深めていくんだと思うよ。それにその宗教に対する考え方次第でキリスト教と一口に言っても様々な主義があるし仏教も宗派が分かれてる。一部の過激な集団は価値観を統一しようと紛争を仕掛けたりするがこのような背景がある時点で難しいと思うんよ。それに、絶対的に信じて良いはずのもの、いわゆる真理なんてものが存在するのかもまだまだ分からないことだらけで研究されているし、この宗教は一概に悪だの正義だの言い切れるような環境ではないと私は思いますね。
漫画とか見てて思うけどどんなに倫理的にも道徳的にもどうかと思うような集団でも彼らなりの理由があって戦ってるんだと知れば、最後までその理由を譲れずに戦い続けると、強い方が勝って弱い方が負けるだけの戦力ゲームにしかならないと思うんよ。そこで勝った方を正義負けた方を悪としたりね。
スパイダーマンで出てきたセリフなんだけど「大いなる力には大いなる責任が伴う」ってこれうろ覚えなんだけどもね。大いなる力とは言っても一概に悪だの正義だの言い切れるわけではなくて、その力の使い方によって正義であるとか悪であるとか変わってくると思うんよ。抑止力のための核兵器とかね。
ここから考察して見たんだけど、最後まで戦い続けて相手に服従を強いるのではなくて、例え悪と評される「何か」があろうと共存できるなら出切る範囲内で共存していこうとする姿勢がとりあえず平和のためには大切だと思う。その平和も正義も多数の考え方があるのはもちろんなのだがそれを全て受け入れるのは難しい。その考え方の違いを認めた上で、様々な観点で受け入れるべき考え方や受け入れないべき考え方、両立できるのはどこまでかなどについて考えるのも大切だと思う。
絶対的正義や絶対的悪なんてものはこういう考え方の違いがあるし、どう判断したら正解かなんかはわからないだろうから、それはなんなのかと問われても様々な解があるから絶対的には言えないと俺は思う。
俺の考え方はとりあえず、正義と悪の共存を望んでるってこと。
>>23 エホバの証人とキリスト教、仏教それなりに教会同士がいちゃもんをつけてるケースを何度か耳にした。
なんとかそれなりに宗教派のプライドがあってゆってるのかもね、それもまた「正義」だというのかも知れない。
抑止力のための核兵器ですか、そこはお互い交渉して議論で解決していくしか方法は無いと考えます。
正義とは悪と善のバランス
神話には 完全なる善の存在や 完全なる悪の存在がいる
だが、人間はそのどちらをも兼ね備えている
多くの人間はここで 「悪を挫いて善を重んじるべき」だと思い込み、そこから抜け出せなくなる
が、言った通り正義とは悪と善が両立していなければ成立し得ないものだ
善と呼ばれるそれだけでは成立しないし
逆もまた然り
人はこのバランスを忘れ、何故か善だけを先走らせてしまうようになってしまったが
本質は変わらない
悪は悪で、正義の一部
善もまた同じ
つまりは 神話の存在 たとえば悪の象徴は 善の象徴と並立している限り正義なのであり、
善を捨てるからただの悪となる
善とて、善だけで存在するのはあるまじきことだ
バランスを考慮しなければ
それらは互いに 対抗するものの「排除」を考える
排除は正義を脅かす
所詮、構成員を爪弾きにし、無理矢理取り繕ったところで腐敗は何ら変わらない
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