No:1066

23boy◆QUxWeP0DYs
2017-01-29 23:56:27
ID:SDWdim9A

ギリギリのラインを攻めることを、「どっちに転がってもおかしくない状況を作り出す可能性の高い発言を多く用いる―疑問形で曖昧にせず 断言する―」と定めたのは君で、それは別に一般的な定義でもなんでもない。
この時点でこれが"にゃんにゃん子にとってのギリギリのライン"であると言える。
そしてこの"にゃんにゃん子にとってのギリギリのライン"こそ、>>10で「私の基準を提示したところで無駄なので、提示しません。」と言った"私の基準"である。
これを以て、提示したところで無駄とか言っておいてオマエ提示してるじゃん。と指摘されているのにも関わらず、にゃんにゃん子はこの点に於いてなんらの反論もできていない。というよりしていない。

では、なにをしているのか。
ニャンニャン子のレスを見てみると、断言していたか否かは個人の判断基準に依存して、その"個人の判断基準"こそが"私の基準"であり、それは提示しない(あるいはしていない)ということらしい。
また、断言していたか否かという判断が個々人の基準に依存する理由は「確信をもってはっきりキッパリと言い切ること。 これを 断言のニュアンスと置きます。 このニュアンス通りにいくと、判断する人によって、断言 という言葉の範囲が変わると思う」から、らしい。
ふむふむなるほど、頭が悪いということは分かった。

断言という言葉の示す範囲は、一般的な"断言"という語の定義に従うと考えられる。ここにおいてこの定義が個々人によって異なるということはない。確信をもってはっきりキッパリと言い切ること。これが断言の定義だ。にゃんにゃん子でも分かることだ。
そしてこの言葉の示す範囲は定義と同じだ。確信をもってはっきりキッパリと言い切っている発言。これが範囲だ。個人の判断によってこの範囲が異なることはない。
よって、この範囲に誤差が出るとか、自分以外に判断できない状況が生まれる。ということもない。仮に自分が断言した!とか思っていても定義から逸脱していればそれは断言しているとはいえない。
仮に個々人の基準に言葉の表す範囲、定義を委ねるのだとすれば、にゃんにゃん子が断言したと思った発言はすべて断言したということになってしまうし、にゃんにゃん子が論破されていないと判断したレスはすべて論破されていないということになってしまう。
ニャンニャン子の提示した"ギリギリのライン"も同様。疑問形で曖昧にせず断言することがその基準であるならば、これは一般的な定義に則ってその範囲が定められる。なぜならば判断において個人に依存する要素がないからだ。また、この"ギリギリのライン"に関する―疑問形で曖昧にせず断言することをギリギリのラインを攻めるとする―という説明によって、ニャンニャン子にとっての"ギリギリのライン"は明確になっているし、ある発言が"ギリギリのライン"の範囲か否かも判断可能になっている。つまり上述の説明行為こそが"私の基準"を提示することに他ならないというわけだ。

で、提示したところで無駄とか言っておいてオマエ提示してるじゃん。意味わかんねーんだけど。この土日バカの自己撞着見せつけられた俺の気持ち汲んで謝罪しろよ雑魚。
オマエの不自由な日本語数千文字読まされた挙句、オチがテメエの自己矛盾って終わってんだろホント。二度と面みせるんじゃねえ。ありがとうございました。

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