しかし、「煽り」にはもっと存在論的な側面があるのではないだろうか? 事態が真に動くとき、そこには「受動的能動性」とでも言うべきものが働いていると言うべきではないか。アドルフ・ヒトラーの天才的な煽りだけで、果たしてあれだけの国民が動くものだろうか?