「議論」の目的が「真実」に到達することだとしたら、
「煽り」の目的はひとを動かすこと、つまり「扇動(煽動)」にある。
「煽つ(あおつ)」https://dictionary.goo.ne.jp/jn/1740/meaning/m0u/
1 あおいで風を起こす。
「大うちはで煽ちのけるがごとくで」〈狂言記・粟田口〉
2 燃える気持ちをあおりたてる。そそのかす。
「きやつは定業 (ぢゃうごふ) が煽つ」〈虎明狂・鼻取相撲〉
3 風のために火や薄い物が揺れ動く。ばたばたする。
「屏風をたたむ如くにて、二、三度四、五度煽つと見えしが」〈浄・源頼家源実朝鎌倉三代記〉
団扇で扇ぐがごとく煽る能動的煽動と風にはためくがごとく煽つ受動的扇動。
「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。」(マタイの福音書11章17節)
Vikipediaには次のように解説されている。
「煽り(あおり)とは、2ちゃんねるなどの電子掲示板におけるレスの一種であり、相手に不快な感情を抱かせる為に使用される種類の言葉の総称を言う。相手を不快にさせる事が基本的な目的であるが、その背景には感情的な争い、相手をスレから追放する、自己の主張を通す、味方の仇を討つなど、様々な理由が存在する。」
主に、能動的な煽りについて述べられている。
我々が通常理解している「煽り」とはこのようなものだ。
すると、「煽り」は主体的・能動的な働きかけにより、ひとをある状態にする(出て行くという行動をさせる、自分の主張を受け入れさせる、相手の心をある不快な状態にする)こととして理解される。
しかし、「煽り」にはもっと存在論的な側面があるのではないだろうか?
事態が真に動くとき、そこには「受動的能動性」とでも言うべきものが働いていると言うべきではないか。
アドルフ・ヒトラーの天才的な煽りだけで、果たしてあれだけの国民が動くものだろうか?
煽文分解学。
確かに、これによって煽文(せんぶん→煽り文)の論理的構造が明らかになり、「事実」とただの「意見」が区別できる。
だが、これは「煽り」を事実判断に還元するという思想であり、「煽り」を一種の「議論」とみなすものだ。
これでは、「ひとが何故『煽動』されるのか」ということが「真実により説得されるから」ということ「だけ」になってしまう。
もちろん、煽りのそのような面(事実判断としての煽り)は否定しない。
だが、ここではさらに突っ込んで問いたい。
「事実」だけでひとは動くのか。
そもそも、何故、ひとは「事実」で動くのか、と。
Vikipediaは、一方で上のような「煽り」の「議論」との同一視を行いながら、一方では次のように述べている。
客観勝敗論
「一般的に煽り合いとは明確な勝利基準・敗北基準が存在せず、相手が敗北の宣言をしない限りは決着がつかない戦いである。 転じて、これを『勝敗は自分や相手ではなく、常に第三者が決める』という解釈を武器に煽り合いに臨む方法が、客観勝敗論である。」
ここで述べられている「客観」とは、「客観的事実」のことではない。客観的な事実そのものが基準としてちゃんと機能しうるのであれば、「明確な勝利基準・敗北基準が存在せず、相手が敗北の宣言をしない限りは決着がつかない」などということは、そもそも生じないからである。
ここで述べられている「客観」とは、「第三者」のことであり、社会学者・大澤真幸風にいえば、「第三者の審級」のことである。
第三者の審級
「そこに帰属していると想定された(つまりそれが承認していると認知された)ことがらについては、任意の他者が学習すべきことについての(価値的な)規範が成り立っているかのように現れる、特権的な他者のことである。」(『虚構の時代の果て』,大澤真幸,ちくま新書,1996,p227)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%E8%BB%B0%BC%D4%A4%CE%BF%B3%B5%E9
「第三者の審級は規範的な存在であるが故に、他者や経験を先取りし、経験を「経験」と認識したりすることが可能となる。」
すなわち、「第三者の審級」は、経験と認識を可能にする、「超越論的なもの」である。
「しかし、その一方で第三者の審級が衰退したあり方として〔大澤真幸は〕『オタク』を見出している。大澤真幸は『オタク』を『意味の持っている重要性と情報の密度のあいだに逆立があること』と捉えている。第三者の審級は、自己(これもまた一つの他者として形成されるのだが)と他者の繋がりにおいて形成され、一つのコンテクストを与えるものとして考えるならば、このようなコンテクストの不在は、第三者の審級が衰退したことによって現れていると考えられる。」
ポストモダン論でいう、「大きな物語」の衰退ということである。
かつては、「市民」「聴衆」「大衆」にある程度の判断能力があると仮定されていた。
デカルトは『方法序説=理性を正しく導き諸科学における真理を探究するための方法序説』(Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences)」の冒頭において、「良識=ボン・サンス(bon sens)」は「この世で最も公平に配分されているものである」と述べている。
このような「良識」に対する信頼が、かつては様々な領域で機能しており、ひとは、たとえ「真実」にはたどりつかなくとも、一定の受け入れ可能な結論は得ることができると考えていた。
煽り合いにおける客観勝敗論は、このような「近代的」な幻想を前提としている。
しかし、もはや我々は「近代」を生きてはいないのだッ。
主観勝敗論
「一般的に煽り合いとは明確な勝利基準・敗北基準が存在せず、相手が敗北の宣言をしない限りは決着がつかない戦いである。転じて、これを『自らが負けを認めない限りは、負ける事がない』という解釈を盾に煽り合いに臨む方法が、主観勝敗論である。」
Vikipediaは続けてこう述べている。
「主観勝敗論を信奉するユーザからすれば、煽り合いというのは負ける事がないから、そもそも引き分けか勝利しかない。あとは引き分けの戦いを、いかにして己の煽りで勝利に近づけていくか、というのが戦い方の方針となる。その為、主観勝敗論者の戦いは常にスタミナが要求される持久戦である。相手が執拗な粘着に根負けし敗北を認めた時、彼らの戦いはようやく終焉を迎えることとなる。」
「では、お互いが主観勝敗論者だった場合はどうなるか・・・・・・?答えは簡単。延々と不毛な戦いを繰り広げるのである。」
客観勝敗論を退けるならば、主観勝敗論を採らざるをえない。しかし、そうすると、上に述べられているような荒涼とした風景に甘んじざるをえない。だとすれば、我々は延々と続く不毛な会話と衰退する身体だけを見続けることになるのか。
ここでDQNの煽りスキルを参照しよう。
http://kurosoku.blomaga.jp/articles/18805.html
コンビニでレジの列並んでたら前のちょっとごつい中年リーマンが店員(DQN)に絡んでたんだが
DQN「ではこちら年齢確認お願いしまーす」
中年「あ? そんなんレジの方でちゃちゃっとやってよ」
DQN「あーサーセン決まりなんでおなしゃす」
中年「いや、だからレジでできるんでしょ?」
DQN「いやーできないんすよねーサーセン」
中年「あ? 嘘つくなよ」
俺(今どきこんな絡み方するやついるのかよ)
DQN「…ッチ」舌打ちする
中年「なんだ? お前今客に向かって何したんだ? おい!」怒鳴る
DQN「ナンモシテネッスヨ」愛想悪くたばこを袋に詰める
俺(DQNっつっても怒鳴られたらこんなもんか)
DQN「はいこちらおつりでーす」
ここでDQN釣銭を入口方面に向かって放り投げる
床に散らばる小銭、ビビる俺
中年キレる
中年「は? てめえ客に向かって何してんだこら!! おい!! 拾えよ!」
DQNレジから動かず
DQN「次のお客様どぞー」
俺「ハ、ハイ」
その後DQNは中年が何を言っても無視
ひたすら俺に愛想のいい接客をする
気まずい俺
中年「もうこんな店こねえからな! バカガキが!」
中年金を拾って出て行こうとする
DQN「俺からのクリスマスプレゼントでーすwwwwメリクリーwww」
DQN満面の笑みで手を振る
DQN「いやなんかすんませんねーまじ」
俺「イ、イエダイジョブス」
DQN「たまにいるんすわああいうキモイおっさん
っかさー、今のマジやばかったっしょ今年最高のキモさだったべww」
俺の後ろらへんに声をかけるDQN
DQNの知り合いっぽいDQNたちが笑っていた
俺はビビってたので初めて彼らに気づいた
DQNたち「マジ○○クンサイキョーッショwwチョーウケタシwwww
オニーサンモソウオモウッショwww」
俺「ソ、ソッスネ」
なんか俺が絡まれてるみたいな構図になりビビる
DQN「まあゆーて俺ら慶応だし就活勝ち組だしあのおっさんよりは出世できるっしょwww」
他のDQNたち「それなwwww」
俺日大生、沈黙
DQN「じゃあおにーさんもメリクリーww」
DQNたち「メリクリーwww」
俺「オ、オス」
俺完全な敗北感を味わい、帰宅
これは、電脳空間ではなく、リアルワールドの話である。
そして、平成の現在においては、DQNとは低学歴のヤンキーのみならず、
高学歴の「輩」をも包含するのである。
問題は、何故このようなことが可能なのか、ということだ。
ここには、「真実」に関する論証や立証があったわけではないし、「第三者の審級」が働いて一定の合意に達したわけでもない。かといって、お互いが「負けない」という不毛な状態が続くこともなく、一瞬で決着がついている。
何が、ここで「審判」の役目を果たしたのであろうか。
この原理を解明して同じようなことを電脳空間で再現することは不可能だろうか。
上記のような例では、一応の答えは簡単に導くことができる。
おっさんも強気であり、DQNも強気である。
おっさんが店長にねじ込めば、DQNは解雇されたかもしれない。
しかし、DQNは「慶応だし就活勝ち組だしあのおっさんよりは出世できる」という信念をもっており、解雇されてもどうということはないのだ。
従って、この勝負そのものをはじめから放棄することが可能であり、それ故に超越的な強さをもつに至った。
一方のおっさんは、客という強い立場にありながら、この勝負を捨てることができない。自分が始めた勝負でありメンツがあるからだ。
他方で、この勝負の「外」のことについては何ら確信がもてない。勝負に勝ったところで、得るものは一瞬の優越感であり、勝負に勝つために一線を越えてしまえば、警察力が発動してしまう。
こうした「背景」の力が一瞬にして勝敗を決めてしまったのだ。
電脳空間では、このような「背景の力」は働きにくい、と言われている。何故なら、お互いの名前も素性も知らない者同士が煽り合っているからだ、と。
だが、ちょっと待って欲しい。
コンビニで対峙したDQNと中年も、お互いの名前や素性を知らないという点では同じではないのか。
DQNは何の根拠もなく「俺ら慶応だし就活勝ち組だしあのおっさんよりは出世できる」と断定しているだけなのだ。もしかしたら、おっさんは東大出身かもしれない。
実は、「背景の力」などという客観的な力が働いて勝敗を決めたわけではないのだ。しかし、何かがDQNとおっさんの双方に、「背景の力」に似たものを一瞬で感じさせ、勝負を決めたのだ。
それは何であろうか。もちろん、「見た目」である。
「見た目」はそれ自体としては一応、客観的な事実である。
しかし、そこからその人の学歴や出世の度合いが導けるわけではない。
百歩譲って東大卒に見えないというところは受け入れよう。
しかし、「出世」というのは学歴だけでは測れない。
「見た目」は単なる客観的事実ではなくて、主観的な解釈の入ったかっこつきの《事実》なのだ。
論理的にはそうである。しかし、それは客観的事実以上の素早さで確実に機能した。お互いの素性を言葉で語り合ったとしても、かえってここまで迅速な決着がつくことは不可能だろう。
「見た目」は、勝負を正当に判定する客観的な事実(正当な根拠)とは成り得ない。しかし、それは何かその場に大きな強い力を発生させ、黒い風が吹き抜けるかのように、DQNとおっさんの両者を震わせたのだ。二人は風に煽られ、揺れた。そして、おっさんは振るい落とされたのである。
このような「見た目」に相当するものが、ネット上の文章に存在するだろうか。
もちろん存在する。「文体」である。
従って、電脳空間における「煽り論」の中心は、畢竟、文体論とならざるをえない。
「煽り」には確かに事実判断も含まれる。しかし、だからといって「煽り」を事実判断に還元し、「議論」と同一視することはできない。
「煽り文」の本質は「文が意味するもの(文の外にあるもの)」=「事実」にあるのではなく、「文がそれ自体として表現しているもの(文自身の在り方)」=「文体」にあるのである。
極端な例を出そう。DQNの女が「あのカップルは男も女も頭が悪い」という意味内容を表現した文である。
「ぁのヵップル絶対ァポ仔とァポ汚だょЙё~」
おわかりいただけただろうか。
文の意味を超えて、文体そのものがイラつかないだろうか。
これほど極端ではないにしろ、文体は、文の意味とは別に、
独自の表現領域を持っているのである。
「何言ってるの~チョーいみふ。」
「真剣意味ぷゃし~」
「いんきゃのくせにいきんなよなー的なw」
「今日ヵラ…ゥチ等仲ラビッチだぉ♪」
「おめ-ぎってるくせにちょづいてんじゃねーよタヒ」
これらは、DQNの中でもいわゆる「ギャル系」と呼ばれる人々の言葉遣いである。このノリ・・・どこかで見たことはないだろうか?
そう。あの「みづき」の文体に似ている。
上記のものほど酷くはないが、確実にDQNテイストが入っている、と私はみる。
そして、喧嘩板の紳士達はおそらく認めないだろうが、私はみづきとわかなの煽りは最強だと思っているのだ。
以下、我々は特に「みづき」の文体を研究することにおいて、その強さの秘密に迫りたいと思う。