私はその日、大学構内をチャリで快走していた。
二限が終わり昼休み、ひとりコンビニで飲み物を買って大学へ戻り、風になっていたのである。
ふと前方に目をやると、男子学生ふたりが手を繋いで歩いているではないか。しかもいずれもメガネの、オタク的風貌の持ち主である。
私は目を疑った。これが、いわゆる「仲良すぎて手を繋いじゃった☆」的女子のノリであろうか?だが彼らは女ではない。男である。しかも大学生である。そんなナイーブなノリが、大学という魑魅魍魎の巣窟で生き延びられるはずがないではないか。
私はひとつの結論に達した。これは、ゲイのカップルである。
なるほど、令和の大学は多様性に満ちている。私のような頭でっかちの青年が、なんの抵抗もなくその姿を受け入れているのも、ひとえに社会が寛容へと進化している証左であろう。
「大学で一般教養を学ぶというのは、こういう感受性を培うことに他ならぬ……」
私は自転車にまたがりながら、自らの成長に小さく胸を張った。
が、その矢先である。
彼らはゲイカップルではなかった。よくよく見れば、片方は女子であった。髪が短かっただけである。オタク男とオタク女、そして手を繋いでいる。すなわち、これは、、、
オタク同士のカップルである!!
一気にすべてが陳腐に見えた。
構内の風が止んだ気がした。
どうせあれだ、サブカルチャー研究会か、クイズ研究会か何かで出会って、初めての彼氏彼女で浮かれてるんだろう。((入学早々、私が“マジックサークル”なる一筋縄ではいかぬ妖しげな結社に、一ヶ月ほど在籍していたという黒歴史は、できうる限りこの身と共に墓場へ持ち込む所存である。))
思わず、私は声をあげた。
「そこの女、男に見えたわ!ガハハハハ!!」
そして私は風のように去った。
私の背中には、モラトリアムという名の夕日が照っていた。
何の前触れもなく、この静かな午後、私はふと
『グレイテスト・ショーマン』をもう一度観なければならない、
という思いにとらわれた。
それはどこか啓示のようでもあり、理屈では説明できない、
けれど確かに胸の奥から湧き上がってきた美しさへの渇望だった。
この世界が、これほどまでに嘘と凡庸にあふれているのなら、
せめてスクリーンの中にだけでも、
純粋でまばゆい祝祭を求めることに後ろめたい道理はない。
私は再び、あの絢爛たる幻想に身を沈めた。
歌と踊りと歓声に包まれるうちに、
気がつけば私はただの観客ではなく、
あの夢の舞台の中に立っている幻のひとつになっていた。
のあ△〇◻︎あああ
らま ❌☆鳴べ
みやぁ あゃゃ
かつて思い描いた「こうなりたい自分」に、少しは近づけましたか。
それとも、ただ美しく整えられた理想像を、心の中にそっと据えて、あたかもそれと自分とが同一であるかのように錯覚しているだけでしょうか。
あなたが、自分の顔にひそかに劣等感を抱いていたことなど、今さら言われずとも知っています。
わたしは知っているのです。
たしかに最近のあなたは見違えるほど堂々としている。
自信満々の横顔で、自撮りを上げ、笑顔など浮かべてみせる。
素晴らしい。快挙である。拍手を送りたい。
だが、忘れては困る。
わたしは、かつてのあなたを知っているのだ。
いや、知っているなどという生易しい言葉では足りぬ。
あなたのその、薄暗く拗れた自己嫌悪の根っこを、指先でなぞることさえできる気がする。
そう、あなたが鏡の中で見ぬふりをしていたものを、私はちゃんと見ていたのだ。
だから私は、にこにこと微笑んで、心の中で舌を出す。
よくもまあ、そんな程度の化粧と角度で“変われた”などと思えたものだ。
相変わらず、顔の作りは凡庸の極み。目元は間延びし、鼻は自己主張がないまま人生を終えようとしている。
それでも「努力しました」「前向きになりました」などと笑って見せる。いや、あれは笑っているつもりなのだろう。
傍から見れば、単なる引きつりである。
自己肯定感の屑を拾い集めては、SNSで加工された他人の顔と比較して、己の方が“自然体”だと思い込みたがる哀れさ。
その“ありのまま”を掲げたがる姿勢が、すでに醜悪であることに気づいていない。
いや、薄々気づいているからこそ、必死に明るく振る舞うのだ。
だがそれも、見る者にはすべて透けて見えてゐる。
あなたがいくら取り繕っても、その根の浅ましさは隠しきれぬ。
上塗りされた自信の仮面は、ちょっとした言葉で、まるで剥がれかけのシールのようにめくれあがるのだ。
滑稽なほど無様に、な。
久々に何の予定もない日だった。
朝から自転車で買い物へ。
こんな素晴らしい日だと言うのに、
通行人に対して平然と文句を言っていた自分は
浅ましすぎる。
けっこうまずい状態ではないか。
今後はもっとこういう何もない日を増やして、均衡をとろう。
そんな1日でした。
「もはや記念日ではない、記念ピである」とは誰の言葉だったか、記憶は曖昧模糊として定かではないが、まったくもってよく言ったものである。
記念ピとは何か、という問いには答えられぬ。だが、それが記念ピであるという事実だけが、人生のどこかに確かに存在する。
それは祝祭なのか無念なのか、あるいはただの言葉遊びなのか──
全ては謎である。
しかし、こうした不可解な言葉こそが、私の胸を妙に打つのである。
私の”勉強”人生なるものにおいて、不意に脳裏をかすめた、ある淡い記憶がある。
以下は、これを記しておかねば、という衝動に駆られて書いた。
(たとえば――たとえばの話である。
もしもあなたが、学生生活なるものを実に順調に、実に華やかに、実に充実して謳歌したという幸運な存在であると仮定しよう。
そう仮定して、私が今ここで「では、あなたにとっての青春とは何だったのか?」などと尋ねてみたとしよう。
あなたは一拍おいて、穏やかに目を細め、「うむ……」などと意味ありげに呟き、しばし過去へと旅立つ。
そして、ふと口元に微笑を浮かべながら、「あぁ、よかったな」とつぶやくのである。
その一瞬。
その心の奥底にひそかに灯った温かいもの、懐かしさとも安堵ともつかぬその感覚。
私にとって、この思い出というのは、まさにそれと同種のものである。)
それは中学三年の、たぶん秋風のそよぐ頃であったかと思う。受験勉強という名の妖怪がにわかに学校中に徘徊し始めた頃合いである。私は突如として「漢検なるものを受けてみてはどうか」と、何者かの囁きに取り憑かれたかのように思い立ったのであった。これぞまさに中学生男子特有の、妙な向上心である。
親に頭を下げ、参考書と問題集をねだった。今にして思えば、我ながら不気味なほど素直な態度であった。まず手始めに問題集を解いてみたところ、これが驚くほど出来なかった。200点満点中、せいぜい70点。いや、もっと下だったかもしれぬ。何にせよ、絶望的な数字であった。
しかし、ここからが妙だった。
私は毎朝、母が朝食を用意すると同時に目覚め、それを平らげ、身支度をし、髪型を微妙に整え(前髪の角度には当時から異様なこだわりがあった)、
そして机に向かう。漢字の問題集と対峙するその時間――
それがなんとも、気持ちよかったのである。
まだ外は静かで、曇天と晴天の間をたゆたっているような時間帯、
鉛筆の芯が紙を擦る音だけが部屋に響く。
私は、他の誰でもない、自分自身の意思で机に向かっているのだという奇妙な高揚感に包まれていた。
誰も私を褒めてくれないが、誰にも止められない。
そのささやかな誇りが、当時の私には心地よかったのだ。
憎き“四字熟語”のセクションには何度も心を折られかけた。
読み間違え、書き損じ、鉛筆を持つ手は毎日黒ずみ、指に疲労が蓄積していった。
だが、それでも朝の時間は穏やかだった。むしろ清々しかった。
日課として勉強を済ませてから登校するという律儀なリズムは、
部活動を引退し、空白となった時間に新しい“自分らしさ”を与えてくれていた。
この習慣は、受検当日までの約三ヶ月間、忠実に続いた。
最後の頃には過去問など、まるでゲームのようにスラスラ解け、
「備えあってこそ憂いなけれ」と生意気に胸を張る私がいた。
そして迎えた受検当日。
私は落ち着いていた。ペンは止まらず、紙の上を滑っていった。
ただ、どうしても書けない漢字が一つだけあった。
そこだけが空欄になり、それでもなお「勝った」という手応えが全身を駆け抜けた。
見直しを二度、三度繰り返し、空欄一つに残り時間をすべて注ぎ込んだ。
目に念を込めて紙を睨み、空欄から朧気ながら正答が浮き出てくることを本気で祈っていた。
試験終了30秒前、ついに私はそれっぽい漢字を書き込んだ。
(例えば「勉強」と書くべきところを、「弁京」と書く、という具合に。(源義経もびっくりである。)とりあえずでも空欄を全て埋めることは受験の必勝法かあるいは自己満足の手段か。)
ちなみに、教室で2級を受けていたのは私だけで、他は準2級か3級であった。
それがたいそう誇らしかった。「まさしく、自分は"孤高の戦士"である」という実感が、少年の煩悩と虚栄の塊たる自尊心を、これ以上ないほどくすぐり倒すという現象を否定しうる者がこの世に存在するだろうか。
結果は、たしか9割弱か9割強。なんとも曖昧だが、かなり良い点だったことは覚えている。級友たちや、すでに引退した部活の顧問に称賛され、私は生まれて初めて”勉強の悦び”という幻想を味わった。
あの三ヶ月間、誰に強いられたわけでもなく、ただ一人思い立って机に向かい続けた中学三年の私を、今でもそっと褒めてやりたいと思う。妙に真面目で、妙に青くさく、そして妙に頑張っていた、あの少年のことを。
「備えあってこそ憂いなけれ」などという風雅な表現が、なんの気なしに口をついて出てくるあたり、かつて私が狂気じみた熱量で古文の活用表を丸暗記させられていたあの日々にも、
否応なく何らかの意義を見出さざるを得ないではないか。
もっとも実態としては、ただただ回りくどく、妙に婉曲的な物言いしかできぬ男が一丁あがりしただけなのだが。
(この辛辣なツッコミはいったい、天使の囁きか、それとも悪魔の冷笑か)
「羊頭狗肉」と誰かが頭の中で囁く。
あぁ、漢検の勉強はいきているな。
長らく通い詰めた美容室がある。そこでは、施術の最中であっても通りかかる私を見とめて、「手首さん、こんにちは!」と笑みを添えて声をかけ、つかの間の世間話に興じる。その親密さは、なにものにも代えがたい悦びであった。私もまた、数多の凡人と何ら変わらず、美容師と客との関係など、所詮は上辺のものであるという冷ややかな認識を、長く胸中に抱いていた。しかしながら、あの場所においては、奇妙にもそのような隔たりを一切感じることがなかったのだ。
ところが問題があることに気付く。
この美容室、カット単体ができない。カットに加えて、眉毛の手入れか五分間の頭皮マッサージのどちらかを選ばねばならぬ。つまりは、問答無用で6,260円を支払うことになる。(学生は10%オフなので実際もう少しは安い)
かつてはカラーやパーマなどを愉しんでいたため、特段気にせず通っていたのだが、最近の私は違う。私はもう、カットだけの男なのだ。
さらに悪いことには、私は引っ越してしまった。電車を乗り継ぎ、街を跨ぎ、川を越えねばならぬ距離になってしまったのだ。
ああ、私は今、涙を呑んで決意する。
もう、あの美容室には通えぬのだ。もう、あの美容室には通えぬのだ。
あの椅子に座り、微かな薬剤の匂いに包まれながら、誰とも知れぬ人々と他愛ない言葉を交わした、あの浮世の休憩所に。
旧居で迎えた正月のことである。
驚くべきことに、私はその年、年賀状を受け取ったのである。
あの美容室からだ。
友人で私の住所を正確に把握している者はいなかった。さらに、年賀状のやりとりなどという風流な文化は、とうに心の外へ押しやられていた。
それゆえに、私は束の間の仰天ののち、じんわりと胸が熱くなった。
“わたしという存在は、ちゃんと記録されていたのだ”という小さな誇り。
一人の客として通っていただけのつもりであった私が、あの場所の記憶の棚にそっと置かれていたという事実。
なんというか、たいへん良いものであった。
そこには、マメに通い詰めた一年への感謝の言葉と、スタッフ一同がボウリングやらパーティやらに興じている様子を写した写真が添えられていた。思えば、私は彼らを、髪を整えてくれる人々――言うなれば“己の外見の運命共同体”としか見ていなかった。
だが、彼らも彼らで、日々のささやかな充足や、仕事の向こう側にある生活の熱を抱えながら、私という一人の顧客に手を尽くしてくれていたのだ。そう思えば、年賀状一枚にも、不思議な体温が宿るではないか。
さて、かの美容室の一体感というやつは、恐ろしいほど心地よいものであった。
私は思ったことがある。「ここで働けたらどんなに幸せだろう」と。
大学に通っているという身分をわきまえることなく、真剣に、美容師になってもいいのではないか――そんな現を抜かしたことが、きっと1時間ほどにも満たないだろうが、あったような。
こうして月に一度の憩いの場であった美容室について、つらつらと思いを連ねていると、どうにも胸のあたりがきゅうと痛み出しそうである。
なにぶん、あの場所にまつわる記憶というのは、書こうと思えばいくらでも書けてしまうのである。むしろ、書こうと思わずとも、勝手にこぼれてきてしまう始末なのだ。
だが、それではいけない。
このあたりで、筆を置くことにしよう。