平成喧嘩塾の衆人はどこいったん?

105、《短小tinko》
2019-01-12 18:37:59
ID:89AUxsM.(sage)

もちろん、いくつかの行き過ぎはいましめられるでしょうし、いくつかの悪徳は非難されるでしょう。しかし、また別のものが現れて美徳の名をかたることでしょう。なぜなら、美徳を持たないものも美徳を持っているふりをしなければならないからです。

 今日の有識者たちの節度を称賛する人もいるでしょうが、わたしはそれは一種の手の込んだ不節制でしかないと思います。だからそんなものは、彼らの取ってつけた率直さと同様に褒める気になれません。

 こうしてわが国民は完璧な行動様式を手に入れ、そろって有徳の士となったというわけです。確かに、文芸や学問や芸術は、この極めて有益な行動様式を確立するうえで、自分たちの果たした役割を主張する権利があります。しかし、わたしはここで一言言っておく必要があります。それは、もしここから遠く離れたどこかの国の住民がわが国の人間の行動様式を、わが国の学問の状況や、その完成した芸術や、礼儀正しい演劇や、人々の上品な振る舞いや、丁寧な会話や、必ず見せる親切な態度や、さらには、あらゆる年代のあらゆるクラスの人間が集まって騒々しく朝から晩まで互いに親切のしあいっこをしているありさまに基づいて理解しようとするなら、私たちの本当の行動様式とは正反対のものに行き当たるだろうということです。

 もし結果が不明ならば、原因を探求する必要はありません。しかし、今の場合は結果は明白です。それは精神の明らかな堕落です。学問と芸術が進歩して完成の度を高めるとともに、私たちの精神は堕落していくのです。この現象は現代だけのものでしょうか。いいえ、無益な好奇心がもとで起るこの病気は、人間の歴史が始まって以来ずっと存在しています。行動規範つまり道徳のレペルの変化は、学問と芸術の進歩と密接に結びついているのです。この二つは、海の満ち退きが夜を照らす月の運行と結びついているのと同じぐらい密接に結びついていると言えるでしょう。つまり、学問と芸術という光が水平線から昇っていくにしたがって、美徳は地上から消えていくのです。それはいつの時代、どこの国においても見られる現象です。
 
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