平成喧嘩塾の衆人はどこいったん?

1、《短小tinko》
2018-10-26 01:41:46
ID:yMnDgKtc

Twitter界隈に移り住んだらしいけど、その他は消えたんか?
古参組の文章の考えについて聞きたいんやけどなあ。
どんな組み立て方をしていたの?とかねー( *´艸`)
叶わぬ夢やろかい


[編集]
2稚サトシ◆sBaFicwCrw
2018-10-26 06:57:15
ID:idapIewA

ついちょっと前にキャスフィにセルシアが来てたのに
スレ立てするのが一足遅いぜ💦

3名無しさん
2018-10-26 08:11:28
ID:QzC3Jm/k

セルシアってあの雑魚?

4稚サトシ◆sBaFicwCrw
2018-10-26 08:35:11
ID:mhYjBD/k

他界隈では知ったこっちゃないが

カスフィで雑魚枠に入れるのは難しいだろうな~

5、《短小tinko》
2018-10-26 16:19:06
ID:A.6fB1s6

>>4
あの人セルシアなんか?わからんけど古参なのはレスの濃厚さからして明らかだね。シクッタワー。

カスフィでは、このテンプレを覚えとけば他には要らないだろうな。

>>3
あれが雑魚って証明してくださーい^^出来ないんデスカァ???w

だいたいコレで👆解決すっからよ。


6名無しさん
2018-10-26 18:21:38
ID:FZRazZWo

古参ならあいつがいるじゃん、ほらあいつ




霧雨

7名無しさん
2018-10-26 18:21:47
ID:ktgSjwzM

古参ならあいつがいるじゃん、ほらあいつ




霧雨

8稚サトシ◆sBaFicwCrw
2018-10-26 20:05:04
ID:EF6grc6k

スレタイに書いてある通り、平成喧嘩塾の衆人(古参組)は
今現在何処に居るのかって話だと思うが

霧雨ってアク禁宣言かけられたり邪魔者扱いされてた感じがあったんだけど、平成喧嘩塾の面子枠に入るのだろうか・・。
何かこう嫌われてね?

9、《短小tinko》
2018-10-26 21:10:09
ID:A.6fB1s6

>>6-7
えっ…そんな人いたっけ?嗚呼…思い出した


春雨やったな😁

10、《短小tinko》
2018-10-26 21:16:47
ID:A.6fB1s6

>>8
書いてない意図まで読み取っての…この切返しをしてる可能性もあるな(嗤えてくる)
何かこう、嫌がらせで虫を🐌送りつけられたような✨🎁✨気がしてきたワロタ
これって、あれか、何かこう
_人人人人人人_
> お邪魔虫 <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y ̄
…ってやつだな

11、《短小tinko》
2018-10-27 01:40:02
ID:fHIqqbPE

KさんとTさんの会話があります。
K1: 全ての起こりうる事象は同様に確からしいとする
K2: 起こりうる事象は、Tとセックスするか、Tとセックスしないか
K3: K1,K2より、Tとセックスする確率は、1/2

T1: 事象は2通りだが、それらは同様に確からしくない
T2: 女は35億人いる。17億人とセックスするには時間が足りない。よって、T1。
T3: Kがセックスできる女性と、できない女性の数は異なる。よって、T1。

問1. K1とK2は正しいと認めた上で、K3を反証せよ。

問2. 相手の主張(K3)を仮に正しいとし、矛盾を導こうとしたTは頑張った。しかし、「Tとセックスする」を、「だれとでもセックスする」に置き換えたところが論理的に間違い。このような間違いを防ぐ方法について考えよ。

問3. T3は何を勘違いしているか考察せよ。問2はヒントになる。


ハァアァァ~(ーдー)土竜叩きでもやりますかねえ。
【全ての起こりうる事象は同様に確からしいとする(と定義)しました】
だから、それらは同様に確からしくないは、共通認識の否定になり失格ですよ。

この時点で誤謬を起こしてますし、間違えてます。

問.1.仮定の推論は、情報量が足りなくて反論できません。コイツに対してどういった定義で語ってるのか明らかにしない限り不可能。どういう仮定で進めているのか?
今、目の前にいる状況なのか?日本と海外の様に国外にいるとか。そういった情報を炙り出せない時点で反論できない。でなければ自分の定義と相手の定義を混同する人間が現れる。
だから勝手な想像によって、「何億人の中から」セックスして引き当てる等という「自分の定義」を語り出すことになる。


12、《短小tinko》
2018-10-27 02:16:59
ID:fHIqqbPE

>まあ、80みたいな馬鹿がでてくるとは思ったよ。
私がコテハンで書いてなかったらこのスレもそういう話になりそうだとは思った。
だけど、私がいってるんだ、そんな簡単なことなはずがないって思ったんじゃないかな(笑)

こういうののぼこし方は色々あるが、まずは泳がせると面白い。




>「今、目の前にいる状況なのか?日本と海外の様に国外にいるとか。そういった情報を炙り出せない時点で反論できない」
もし、これがあれば反論できるなら、ななしが勝手に仮定を追加して、反論させてみると良いでしょうw
相変わらず逃走の口車しか廻りませんねえ

13、《短小tinko》
2018-10-27 02:22:59
ID:fHIqqbPE

>プリンみたいな馬鹿がでてくるとは思ったよ、
こういうののぼこし方は色々あるが、まずは泳がせると面白い。脳ミソの溢し方をレクチャーしてるようにしか見えませんネ。反論できないから、「泳がせる」などの表記で逃走するしかできないらしい。
中身の反論は当然できないのがカスフィ代表の🍮こと中身ZEROマン

14、《短小tinko》
2018-10-27 02:41:55
ID:fHIqqbPE

>そのままにしておこう
完全に逃走で5963、論破カナカナ。

相手が何か主張したいことがあるなら多少聞いてあげても良いけど、ん?ん?ん?。逃走しないで答えましょーネ。
何か主張したいことがあるなら多少聞いてあげても良いですヨ^^

15、《短小tinko》
2018-10-27 02:54:25
ID:fHIqqbPE

完全に逃走で5963、論破カナカナ。質問等をスルーして逃走する文章しか書けなくて5963
ここよんでまともな主張させてみw^^

16、《短小tinko》
2018-10-27 12:49:40
ID:q4BKOtYo

▶️規制ねぇ。
まあわざわざぼこりにいかなくても、
答えがでれば自動的に5963になるわけだからほっといてあげましょう。

とりあえず、なぜ「事象」をみな掘り下げないのか理解できぬ...

完全に逃走で5963、論破カナカナ。質問等をスルーして逃走する文章しか書けなくて5963
ここよんでまともな主張させてみw^^
あなたは中身ZEROマンですネに^^論破カナカナ

17、《短小tinko》
2018-10-27 12:55:39
ID:q4BKOtYo

そもそも他人に聞いて、自分の頭で考えて答えをだそうとしないとしたら、それは問題だよ。

こういう場合にどう考えていけばいいのか示しておこう。

まずは、言葉の定義をしっかりと確認すること。
次に、推論に間違いがないか確認すること。

この2はかなり重要です。
さらにアドバンスなことを言えば、言葉の定義は一つじゃない。
そして、学問ではなぜそう定義したかという背景がある。
このあたりまでわかればほとんどミスはしないでしょう。

中身ZEROマンってバカなんですかネ~?自滅しかしてませんネ、早くここよんでまともな主張させてみw^

18稚サトシ◆sBaFicwCrw
2018-10-27 13:01:44
ID:Cs4gbeF6

(鏡)が送り込んでくれなきゃprin本人に伝えられないから
途絶えられやすいよな…

19稚サトシ◆sBaFicwCrw
2018-10-27 13:03:36
ID:Cs4gbeF6

って言った直後からもう送られてるのか。行動がお早いですこと

20、《短小tinko》
2018-10-27 13:10:28
ID:q4BKOtYo

>まずは、言葉の定義をしっかりと確認すること。
次に、推論に間違いがないか確認すること。<

コイツに対してどういった定義で語ってるのか明らかにしない限り不可能。どういう仮定で進めているのか?

中身ZEROマンは『言葉の定義を確認すること』って言ってるけど…
それって『相手の定義を明らかにすること』だよネー?ん?ん?ん?論破カナカナ

『言葉の定義は一つじゃない』は、自分の定義デース。
それは、確認して明らかにする行為でしかありまセーン。

>なぜそう定義したか

それは、相手の定義の確認。
つまり情報収集にしか過ぎません。
そして、それは『相手の定義を明らかにすること』デース。中身ZEROマンは、また逃走しかしないんですか





21、《短小tinko》
2018-10-27 13:19:53
ID:q4BKOtYo

>>19
仕事がハエーっす、ハ○だけに。
有能な鏡やで✨💍✨

22稚サトシ◆sBaFicwCrw
2018-10-27 16:01:24
ID:Cs4gbeF6

話題性としては2chに持ってく事も出来ると思うんだよな。

誰かに説いてほしいって目的で立てているにも拘わらず何でキャスフィのみで行おうとするのか
人の少ない場所よりも閲覧者数の多いサイトでスレ立てする方が返ってくる応えだって多いだろうにカスフィの連中共をからかいたいだけの本心で
やってるようにしか思えないな・・もしかしてこの後者の意図のが合ってたり?

23稚サトシ◆sBaFicwCrw
2018-10-27 16:04:06
ID:Cs4gbeF6

>>22はprinにたいしての本意

24、《短小tinko》
2018-10-27 20:15:48
ID:q4BKOtYo

>>22-23

そもそも、カスフィの連中は致命的にあたまが悪すぎる。南雲も、内容ZEROマンも、天使も😇、春雨もバカなんだよ結局。
ガキ集団の巣窟カスフィは、喧嘩すら起きないからな。
内容ZEROマンは、バカだから気付いてない可能性が一番高そう✨

25、《短小tinko》
2018-10-27 20:46:14
ID:q4BKOtYo

J1: 全ての起こりうる事象aは同様に確からしいとする
J2: 起こりうる事象bは、一回きりのじゃんけんで勝つか、勝たないか
J3: K1,K2より、勝つ確率は、1/2
いま、事象が2つの意味で使われているので、それぞれ事象a,事象bとしました。


① 事象aが、仮に根元事象ではないとします。つまり、集合としての事象だとします。

そうすると、すべの起こりうる集合としての事象は、
{w1, w2, w3}{w1}{w2}{w3}{w1, w2}{w3}{w1} {w2, w3}{w3, w1} {w2}
などがあるわけです。

{w1, w2, w3}は全事象なので、確率は1にならないといけない。
よって、集合としての事象が、それぞれ同様に確からしいとすると確率が1を超えて矛盾します。
これは背理法なので、つまり、事象aは根元事象のことを指しています。
(もし相手が根元事象でない主張としてきたら、矛盾することを伝えればいい)

② 事象bは明らかに集合としての事象です。

①、②より、J3が間違いであることが示せます。

内容ZEROは、なに言ってんのカナカナ?クスクス( *´艸`)

〈セックスするか〉〈セックスしないか〉の話に、『ジャンケン』によって決めるなどと『定義』されてないよね。

つまり、勝手な推論によってなぜかジャンケン(笑)でセックスするか-しないかを決めることになってるんだよ( *´艸`)
それは、『自分の定義』でしかない。
もしも、ルーレットでやったら?
六面体のサイコロでやったら、ダーツで決めたら、オセロ(笑)の勝ち負けでやったら。もしも阿弥陀籤でやったら。もしも宝籤でやったら。
それは単なる仮定でしかなく。
まったく関係ない^^自分の定義でしかない。





26、《短小tinko》
2018-10-27 21:06:22
ID:q4BKOtYo

>これはななしが頭悪すぎるw
スレの流れが じゃんけんの話になってるやんw

ななしは自分ではいい仕事したと思ってそうw<

内容ZEROは、なに言ってんのカナカナ?クスクス( *´艸`)
じゃんけん?クスクス( *´艸`)自殺デスカァ?w
内容ZEROは、自分ではいい仕事したと思ってそうw

27、《短小tinko》
2018-10-27 23:56:32
ID:pr3Tfe3s

カスフィの連中って、もしかしなくても知的障害者か何かなの?wほんと救いようがないな

28ななし
2018-10-28 08:26:29
ID:sCs6df6s

101: 白芽◆aPa6ZySlAQ
2018-10-28 07:45:59
ID:lw7KGGUk
んぎょへまあまあ強いよな
まあおでんの前だと弱くなるんだけど…

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

何でこいつこんな上から目線なんだ?

29、《短小tinko》
2018-10-28 16:37:08
ID:ygaK95K2

>>28
回答 : 思考力が『ガキ』だからでしょう。
ガキは上辺のことしか書けません、つえーよな、よえーよな。(感想文)ワラ具体的な理由は書けないのが『ガキ』たる所以です。

30、《短小tinko》
2018-10-28 17:11:34
ID:ygaK95K2

えっとなんだっけ?言葉の定義は一つじゃないクスクス( *´艸`)だったカナカナ。
●例え: コイントス

その表と裏の出る確率は1/2

●例え: ジャンケン

その✊✌️✋の確率は1/3

●例え: サイコロ🎲
その🎲確率は1/6

コイントスの確率は、ジャンケンで否定できるし、ジャンケンの確率は、コイントスで否定できる。
また、コイントス-ジャンケンの確率は
サイコロの確率で否定可能である。

なんせ『言葉の定義は一つじゃない』とか言ってるからなワラ( *´艸`)

31、《短小tinko》
2018-10-28 18:51:35
ID:ygaK95K2

完全に逃走で5963、論破カナカナ。質問等をスルーして逃走する文章しか書けなくて5963
ここよんでまともな主張させてみw^^
あなたは中身ZEROマンですネ^^論破カナカナ
そして中身ZEROは、振り出しに戻る^^

32、《短小tinko》
2018-10-28 20:01:55
ID:ygaK95K2

〈自分の定義〉と〈相手の定義〉↩️
───を混同する人間が現れる。

▶️じゃんけんの場合、かつ、かたないを根元事象とした場合、それはじゃんけんじゃないとか。

自分の定義デース。共通認識の否定は失格。

33、《短小tinko》
2018-10-28 20:07:24
ID:ygaK95K2

 【 ジャンケン 】
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
" 勝敗について "

〈勝利〉〈敗北〉
また〈引分〉『引分は勝敗が付いてない為もう一回戦』

なのでジャンケンの根元事象は【勝利・敗北】と定義する。ということができる。

なんせ【※セックスするか・しないか】ですから
     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄



34、《短小tinko》
2018-10-28 20:49:16
ID:ygaK95K2

カスフィの連中って、もしかしなくても知的障害者か何かなの?wほんと救いようがないな

35、《短小tinko》
2018-10-28 20:54:31
ID:ygaK95K2

まず、K1の「全ての起こりうる事象は同様に確からしいとする」の「事象」を集合としての事象と解釈したら矛盾が生じる。

サイコロの例で言うと、1~2が出る確率と3~6が出る確率が等しいとも言えるし、1~4が出る確率と5~6が出る確率が等しいというように、集合の中身を変えても確からしさが変わらないことになってしまう。
だからK1が正しいという前提に立つ以上、K1の「事象」は根元事象でなければならない。

次にK2だけど、「セックスする」と「セックスしない」という2つの事象に分割してるけど、セックスを試行した結果「セックスしない」という事象はさらに分解することができる。
例えば、逃げられたとか、途中で萎えたとか。
だから「セックスしない」は根元事象じゃなく集合としての事象である。

セックスするというのは根元事象であるから、K1とK2の双方を正しいとするなら、全ての根元事象が同じ確からしさで起こるからには、K2の一方が複合事象である以上、K3の推論は誤りになる。

なぜならK3が正しければK1とK2が互いに矛盾してしまい、前提を崩すことになるから。

ナニコレ↑ワラ( *´艸`)

36、《短小tinko》
2018-10-28 21:05:09
ID:ygaK95K2

【ガキ集団=カスフィ】
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
" 分解=自分の定義デース "

・共通認識の否定・または定義されていない事象。

それでも、仮に、君らの定義やったとしよう

・サイコロの例で言うと、サイがどっかに消えた、途中で盗まれた。だから、根元事象じゃなく集合としての事象である。

次に、「セックスするか」「セックスしないか」だけど、どうみても〈セックスするか〉〈セックスしないか〉の二択だよね。
なんせまだ『定義されていないから』
ハハハ、情報不足デース。




37、《短小tinko》
2018-10-28 21:17:59
ID:ygaK95K2

そもそも、カスフィの連中は致命的にあたまが悪すぎる。南雲も、内容ZEROマンも、天使も😇、春雨もバカなんだよ結局。
ガキ集団の巣窟カスフィは、喧嘩すら起きないからな。
内容ZEROマンは、バカだから気付いてない可能性が一番高そう✨

再投下🌠

38、《短小tinko》
2018-10-28 21:39:25
ID:ygaK95K2

▶️サイコロだって、1がでるか、1がでないかはどうみてもニタクだぞ!w

えっと、なんだっけ?サイコロを振った結果「1が出ない事象をさらに分解できる」えっとなんだっけ?
例えば、サイがどっかに消えるとか、途中で盗まれるとか、1が出たけど、誰かに蹴られて6が出たとか。
だから「1がでない」は根元事象じゃなく集合としての事象である。

39、《短小tinko》
2018-10-28 21:52:55
ID:ygaK95K2

>ななしはもう意味ないぞ。話の流れも喧嘩もわからないやつに伝書鳩してどうする。
そもそも事象の定義がわかってないんだからさ

完全に逃走で5963、論破カナカナ。質問等をスルーして逃走する文章しか書けなくて5963
ここよんでまともな主張させてみw^^

40、《短小tinko》
2018-10-28 21:56:04
ID:ygaK95K2

中身ZEROマンは、何回逃走するば気が済むんデスカァ?w論破カナカナ^^

41、《短小tinko》
2018-10-28 22:07:09
ID:ygaK95K2

そもそも、カスフィの連中は致命的にあたまが悪すぎる。南雲も、内容ZEROマンも、天使も😇、春雨もバカなんだよ結局。
ガキ集団の巣窟カスフィは、喧嘩すら起きないからな。
内容ZEROマンは、バカだから気付いてない可能性が一番高そう✨

再投下🌠

42、《短小tinko》
2018-10-28 22:17:09
ID:ygaK95K2

話の流れ^^からカスフィ=IQ3の地沼となったな。
それに、賛同した蠅^^=同類
逃走し続ける中身ZEROマンと、それに群がるカスフィ特有の蠅集団。
あたまよわいのはバレチャッテ^^カワイソ

43ポセイドン
2018-10-28 22:24:04
ID:qcTIodKU

おめえ何もんだ?
コソコソせんで俺と正々堂々勝負しろ!

44、《短小tinko》
2018-10-28 22:29:51
ID:ygaK95K2

それはおめえだよ、何もんだ?クスクス( *´艸`)
アレカ?「り」の云うステハンって奴だろ。コソコソしてんのはオマエな?のこのこやってきたステハン野郎^^
で、何もんだよ^^

45ポセイドン
2018-10-28 22:33:08
ID:qcTIodKU

俺は通りすがりのやつだ
俺はコソコソしてねえ!
おめえ人に書いてもらうとか卑怯ものだな
自分で書きにいけ!

46、《短小tinko》
2018-10-28 22:34:59
ID:ygaK95K2

で、あなた誰ですか?
コソコソしてないって「り」の云うステハンだろ?君達
通りすがりってなんすかぁー?

47ポセイドン
2018-10-28 22:35:47
ID:qcTIodKU

ステハンってなんだ

48ポセイドン
2018-10-28 22:36:19
ID:qcTIodKU

俺名乗ってもおめえわからんだろ!

49、《短小tinko》
2018-10-28 22:36:26
ID:ygaK95K2

ステハンって、ステハンだけど?他にナニカアンノ?

50ポセイドン
2018-10-28 22:38:02
ID:qcTIodKU

じゃあ俺はポセイドンはポセイドンだ!他になんかあるかおばかちん

51、《短小tinko》
2018-10-28 22:38:43
ID:ygaK95K2

で、コソコソ名前隠してないで名乗ろうな^^
で、で、何もんだよ( *´艸`)

52ポセイドン
2018-10-28 22:40:10
ID:qcTIodKU

俺は最近来たから他に名前はねえわ
バカヤロウが

53、《短小tinko》
2018-10-28 22:40:12
ID:ygaK95K2

ポセイドン?君はアレダロ?「り」の云うところのステハンだよな?
じゃ活動履歴とかないんすかぁー?

54、《短小tinko》
2018-10-28 22:41:34
ID:ygaK95K2

最近って?いつ?
見たことないんすけど~?いつ頃の話っすかぁー?

55ポセイドン
2018-10-28 22:42:32
ID:qcTIodKU

昨日の前ぐらいに来た!

56ポセイドン
2018-10-28 22:44:27
ID:qcTIodKU

ステハンの意味を教えやがれ!

57ポセイドン
2018-10-28 22:44:40
ID:qcTIodKU

調べてもわからん!

58、《短小tinko》
2018-10-28 22:44:44
ID:ygaK95K2

昨日の前?一昨日ってコトすかぁ~?
じゃそのログあるなら提示してくださいね~

59ポセイドン
2018-10-28 22:45:28
ID:qcTIodKU

ログとかどこで見れる

60、《短小tinko》
2018-10-28 22:45:51
ID:ygaK95K2

ステハンって、ステハンだけどナァ
https://www.google.co.jp/amp/s/www.weblio.jp/content/amp/ステハン

61、《短小tinko》
2018-10-28 22:47:00
ID:ygaK95K2

固定ネームと、捨てネームでしょうね~( *´艸`)

62ポセイドン
2018-10-28 22:47:23
ID:qcTIodKU

俺がハンドルネームって意味わからん
アホ丸出しだな

63、《短小tinko》
2018-10-28 22:48:08
ID:ygaK95K2

で、ログ残ってるんすかぁ~?
で、で、一昨日ってコトすかぁ~?いいんすかぁー?

64ポセイドン
2018-10-28 22:48:52
ID:qcTIodKU

ログってなんだおめえ
人の聞いとるのに答えろ!

65、《短小tinko》
2018-10-28 22:50:08
ID:ygaK95K2

質問に質問で返すことしかできないんですかぁー?ログ残ってるなら提示してくださいね^^出来ないのカナカナ

66ポセイドン
2018-10-28 22:51:32
ID:qcTIodKU

ログの見方とか知らんから答えれんだろ
おめえ俺をはめようとしとる!

67、《短小tinko》
2018-10-28 22:52:52
ID:ygaK95K2

知能が低くくて読み取れない雑魚ってことでいいカナカナ^^

68、《短小tinko》
2018-10-28 22:53:54
ID:ygaK95K2

ログ残ってるなら提示してくださいね^^出来ないのカナカナ。つまり出来ない雑魚でいいすかぁー?w論破カナカナ

69ポセイドン
2018-10-28 22:54:46
ID:qcTIodKU

知能じゃねえわ
知らんもんは知らんから教えろ!

70ポセイドン
2018-10-28 22:55:38
ID:qcTIodKU

知らんことなんて誰だってあるわ!
それがたまたまできんぐれえで雑魚とか言っとるなおめえ

71、《短小tinko》
2018-10-28 22:56:40
ID:ygaK95K2

ログ残ってるなら提示してくださいね^^出来ないのカナカナ。つまり出来ない雑魚でいいすかぁー?w論破カナカナ
知能が低く過ぎて自分の頭で考えられないってことでいいのカナカナ^^

72ポセイドン
2018-10-28 22:57:59
ID:qcTIodKU

おめえ逃げるなよ
俺が来てやっても俺に教えんで卑怯なやり方とか性悪だ!

73ポセイドン
2018-10-28 22:58:13
ID:qcTIodKU

俺は寝る!

74、《短小tinko》
2018-10-28 22:58:56
ID:ygaK95K2

じゃステハンの意味調べてきてくださいね~^^出来ないのカナカナ^^論破カナカナ
知能が低く過ぎて自分の頭で考えられないってことでいいのカナカナ^

75、《短小tinko》
2018-10-28 23:00:39
ID:ygaK95K2

逃走5963^^
論破されちゃて5963

76、《短小tinko》
2018-10-28 23:02:45
ID:ygaK95K2

38: 、《短小tinko》
2018-10-28 21:39:25
ID:ygaK95K2
▶️サイコロだって、1がでるか、1がでないかはどうみてもニタクだぞ!w

えっと、なんだっけ?サイコロを振った結果「1が出ない事象をさらに分解できる」えっとなんだっけ?
例えば、サイがどっかに消えるとか、途中で盗まれるとか、1が出たけど、誰かに蹴られて6が出たとか。
だから「1がでない」は根元事象じゃなく集合としての事象である。

39: 、《短小tinko》
2018-10-28 21:52:55
ID:ygaK95K2
>ななしはもう意味ないぞ。話の流れも喧嘩もわからないやつに伝書鳩してどうする。
そもそも事象の定義がわかってないんだからさ

完全に逃走で5963、論破カナカナ。質問等をスルーして逃走する文章しか書けなくて5963
ここよんでまともな主張させてみw^^

40: 、《短小tinko》
2018-10-28 21:56:04
ID:ygaK95K2
中身ZEROマンは、何回逃走するば気が済むんデスカァ?w論破カナカナ^^

41: 、《短小tinko》
2018-10-28 22:07:09
ID:ygaK95K2
そもそも、カスフィの連中は致命的にあたまが悪すぎる。南雲も、内容ZEROマンも、天使も😇、春雨もバカなんだよ結局。
ガキ集団の巣窟カスフィは、喧嘩すら起きないからな。
内容ZEROマンは、バカだから気付いてない可能性が一番高そう✨

再投下🌠

42: 、《短小tinko》
2018-10-28 22:17:09
ID:ygaK95K2
話の流れ^^からカスフィ=IQ3の地沼となったな。
それに、賛同した蠅^^=同類
逃走し続ける中身ZEROマンと、それに群がるカスフィ特有の蠅集団。
あたまよわいのはバレチャッテ^^カワイソ

77、《短小tinko》
2018-10-28 23:15:37
ID:ygaK95K2

そもそも、カスフィの連中は致命的にあたまが悪すぎる。南雲も、内容ZEROマンも、天使も😇、春雨もバカなんだよ結局。
ガキ集団の巣窟カスフィは、喧嘩すら起きないからな。
内容ZEROマンは、バカだから気付いてない可能性が一番高そう✨

再投下🌠

これがカスフィ界の真理

78、《短小tinko》
2018-10-28 23:16:32
ID:ygaK95K2

KさんとTさんの会話があります。
K1: 全ての起こりうる事象は同様に確からしいとする
K2: 起こりうる事象は、Tとセックスするか、Tとセックスしないか
K3: K1,K2より、Tとセックスする確率は、1/2

T1: 事象は2通りだが、それらは同様に確からしくない
T2: 女は35億人いる。17億人とセックスするには時間が足りない。よって、T1。
T3: Kがセックスできる女性と、できない女性の数は異なる。よって、T1。

問1. K1とK2は正しいと認めた上で、K3を反証せよ。

問2. 相手の主張(K3)を仮に正しいとし、矛盾を導こうとしたTは頑張った。しかし、「Tとセックスする」を、「だれとでもセックスする」に置き換えたところが論理的に間違い。このような間違いを防ぐ方法について考えよ。

問3. T3は何を勘違いしているか考察せよ。問2はヒントになる。


ハァアァァ~(ーдー)土竜叩きでもやりますかねえ。
【全ての起こりうる事象は同様に確からしいとする(と定義)しました】
だから、それらは同様に確からしくないは、共通認識の否定になり失格ですよ。

この時点で誤謬を起こしてますし、間違えてます。

問.1.仮定の推論は、情報量が足りなくて反論できません。コイツに対してどういった定義で語ってるのか明らかにしない限り不可能。どういう仮定で進めているのか?
今、目の前にいる状況なのか?日本と海外の様に国外にいるとか。そういった情報を炙り出せない時点で反論できない。でなければ自分の定義と相手の定義を混同する人間が現れる。
だから勝手な想像によって、「何億人の中から」セックスして引き当てる等という「自分の定義」を語り出すことになる。

79、《短小tinko》
2018-10-28 23:19:17
ID:ygaK95K2

完全に逃走で5963、論破カナカナ。質問等をスルーして逃走する文章しか書けなくて5963
ここよんでまともな主張させてみ

ほんで、中身ZEROマンは…
それか質問で質問を返して逃走しかできまセーン

80、《短小tinko》
2018-10-28 23:20:33
ID:ygaK95K2

訂正➡️それか質問を質問で返して逃走しかできまセーン

81、《短小tinko》
2018-10-28 23:40:42
ID:ygaK95K2

▶️>>277 だからどういう土俵だよ。

ん?ん?ん?流石中身ZERO^^
そもそも他人に聞いて、自分の頭で考えて答えをだそうとしないとしたら、それは問題だよ。
論破できないのカナカナ^^

82、《短小tinko》
2018-10-28 23:44:42
ID:ygaK95K2

中身ZEROは、答え出せないのカナカナ^^
論破できないのカナカナ^^

83、《短小tinko》
2018-10-28 23:55:15
ID:ygaK95K2

土俵に関しては^^
今度、記号なんたら言ってきたら自分の土俵でしか闘えないんすかぁ~?とでも言っとけばいいよ^^
また記号^^また自分の土俵^^
中身ZEROは言う、自分の土俵ってなんすかぁー?(地沼)
他の土俵ってなんすかぁー?(地沼)しか言わないからね^^
だから、質問を質問で返して逃走しかできない訳です



だから、中身ZEROマンデース。

───そして
ん?ん?ん?流石中身ZERO^^
そもそも他人に聞いて、自分の頭で考えて答えをだそうとしないとしたら、それは問題だよ。
論破できないのカナカナ^

……と言えば、中身ZEROマンは何も話せずただ黙って指を咥えることしかできません^^だからスルーなんですよ^^

次の手も予測できますよね^^

スルー???違いますけどー?とかな^^

84、《短小tinko》
2018-10-29 00:53:18
ID:HUTAKQKc

「り」が中身ZEROマン信者になってて草

壊れる^^

これが自分のことを言われてるようで?悔しいから?何とか言い返したいけど?出来ないから?「壊れてない」なんて?印象操作しちゃったクチですかあwwwww

85、《短小tinko》
2018-10-29 00:58:28
ID:HUTAKQKc

じゃあどこがどう壊れてないと見なしたのか説明したらあ?
『深読みではないと示したらあ?』
ナニコレ↑クスクス( *´艸`)日本語大丈夫カナカナ。

86、《短小tinko》
2018-10-29 01:10:04
ID:HUTAKQKc

中身ZEROはどうして急にキレちゃったの~?クスクス( *´艸`)

87、《短小tinko》
2018-10-29 01:36:53
ID:HUTAKQKc

309: ふとももぷりん◆prin0WlKXs
2018-10-29 01:27:54
ID:5icxWtmw
>>307 どんなことが需要あるのかな?

310: り(Dirty defeats done dirt cheap)◆WHIte060Ng
2018-10-29 01:30:21
ID:xmi4vLC.
>307
お前のきもいって何の需要があんの?ないならしんでね?自縄自縛5963

中身ZEROのいつもの質問逃走マン5963
逃走劇クスクス( *´艸`)

そして中身ZEROこと質問逃走マンの信者になった「り」クスクス( *´艸`)

88、《短小tinko》
2018-10-29 01:44:37
ID:HUTAKQKc

>需要ないならしんでね?君が言いだした事なんだからね?ね?
ん?ん?ん?これってアレダロ?断定って奴だよな。霧雨理論からしたら…
そいつにイッテマセーンで論破できるんダロ^^
安価使った「り」は論破カナカナ^^

89、《短小tinko》
2018-10-29 01:52:35
ID:HUTAKQKc

>おまえまさかアメリカ人?

説明しろは命令文だよ。「なぜ説明しないのか」は質問だね。
ん?ん?ん?質問ですネ^^
論破カナカナ^^

90、《短小tinko》
2018-10-29 01:55:09
ID:HUTAKQKc

カスみたいな疑いで質問されてると思ったなら思い込みじゃないかw
マジレスしてもどうせ雑魚w

>おまえまさかアメリカ人?

説明しろは命令文だよ。「なぜ説明しないのか」は質問だね。
ん?ん?ん?質問ですネ^^
論破カナカナ^^

ダッサ^^信者ダッサ

91、《短小tinko》
2018-10-29 02:13:20
ID:HUTAKQKc

そもそも、カスフィの連中は致命的にあたまが悪すぎる。南雲も、内容ZEROマンも、天使も😇、春雨もバカなんだよ結局。
ガキ集団の巣窟カスフィは、喧嘩すら起きないからな。
内容ZEROマンは、バカだから気付いてない可能性が一番高そう✨

再投下🌠

これがカスフィ界の真理

92、《短小tinko》
2018-10-29 02:41:32
ID:HUTAKQKc

論理的に追い詰められると『逃走』する姿ならよく見かけます

ネ^^

知的障害者を患ってるみたいなんで、えっと、なんだっけ?需要(笑)ないんで死んだら~?
だいたいなんで死なないんですかね?

えっと、なんだっけ?質問じゃなくて煽り文なんでしたっけ

ネ^^

あーでも。これ、質問文なんだよなー^^失敬、失敬

説明しろは命令文だよ。「なぜ説明しないのか」は質問だね。

あーそうだよな^^なんで死なないかな^^
知的障害者^^クスクス( *´艸`)

93、《短小tinko》
2018-10-29 02:46:45
ID:HUTAKQKc

で、なにかまた自分の土俵(笑)とやらでしか闘えないのか?はぁ論理的?



きも

94、《短小tinko》
2018-10-29 03:56:26
ID:HUTAKQKc

>>18
相手がどちらに向けていったのが問題なの?
それとも私の自覚の問題なの?

もしかして書き間違えた?

はぁナニコイツ?知的障害者だったな^^
また質問逃走か^^
そもそも他人に聞いて、自分の頭で考えて答えをだそうとしないとしたら、それは問題だよ。

で、はやく論破しような^^出来ないのカナカナ^^
論破カナカナ^^


はあよわ

95、《短小tinko》
2018-10-29 05:15:50
ID:HUTAKQKc

霧雨の主張w
・AもPもガイジだ。
・Aの相手をしているPはガイジ喧嘩(?)の一端を担ってる。
・Pの相手をしているKはガイジ喧嘩(?)の一端を担っていない。

40: ふとももぷりん◆prin0WlKXs
2018-10-29 04:36:41
ID:d2OCs7Dg
霧雨 これにかんしてもいいのか?

霧雨2:
ぷりんは、「他の人も納得したことが分かるスレ等があれば、独りよがりとは言わない」と述べた。
しかし、仮に、本心でなく、「納得した」と発言する人がいれば、納得したことなるのか?
そうでないという当たり前のことに、なぜ気づかないのか

また質問逃走か^^
そもそも他人に聞いて、自分の頭で考えて答えをだそうとしないとしたら、それは問題だよ。

はやく論破しましょう

ネ^^

出来ないのカナカナ^^
論破カナカナ^^



96、《短小tinko》
2018-10-29 05:16:59
ID:HUTAKQKc

中身ZEROマン=質問逃走マン
質問逃走=知的障害者^^

知的障害者って証明されちゃって5963

97名無しさん
2018-10-29 21:55:13
ID:6BTLSuSI

冷静死ね、ボケうるせえ、死ねボケ追い込みや卵に多いし、うんちっち( ゚Д゚ )( ゚Д゚ )( ゚Д゚ )( ゚Д゚ )( ゚Д゚ )( ゚Д゚ )

98源光行
2018-10-29 22:00:17
ID:82y6BW7k

冷静死ね、ボケうるせえ、死ねボケ追い込みや卵に多いし、うんちっち( ゚Д゚ )( ゚Д゚ )( ゚Д゚ )( ゚Д゚ )( ゚Д゚ )( ゚Д゚ )

99、《短小tinko》
2018-10-29 22:26:53
ID:qCY95clI

冷静死ね、ボケうるせえ、死ねボケ追い込みや卵に多いし、うんちっち( ゚Д゚ )( ゚Д゚ )( ゚Д゚ )( ゚Д゚ )( ゚Д゚ )( ゚Д゚ )

100ななし
2018-10-30 06:35:27
ID:CXXLlizw

126: Saepon
2018-10-29 20:36:35
ID:oLZ/bKMw
佐藤って古参の誰か?

127: 佐藤8号
2018-10-29 20:37:19
ID:5OUKKZ02
そうだよ俺はせるしあだよ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

すぐに消えちまったなーと思ったらそうだったのか。
まぁ他の奴らとは比べものにならない論力持ってるもんな。

101ポセイドン
2018-10-30 22:08:26
ID:oM0KGxZM

>>74
ステハンの意味調べた
でも俺のは一時的な名前じゃないからおめえは間違いだ
あとログは喧嘩板にある!

102平 景清◆z2D8UzK4eo
2018-10-31 17:16:16
ID:msUmU5pU

おまえら板ネタはその板でやれ!

妙な晒し上げするなよ

失礼します(別れ)

103、《短小tinko》
2019-01-12 18:35:50
ID:89AUxsM.(sage)

ルソー『学問芸術論』より


第一部

 人間が自らの力によってなんらかの方法で無から旅立ち、自分たちを取り巻く闇を理性の光で切り開いて、さらには自分自身を乗り越え、精神の力で神の領域にまで上り詰め、太陽に比すべき巨人のような急速な歩みで広大な地球を走破し、そして何より困難で偉大なことには、自分自身の探求のために自己の内面に立ち戻って、人間の本質、人間の使命、人間の目的を極めていく、そのありさまを見ていくことはまさに壮観であります。そして、この素晴らしい歩みのすべてが、つい最近、再び繰り返されたのです。

 ヨーロッパは原始時代の未開状態に戻っていました。現在では文明化しているヨーロッパの人々が、つい数世紀前までは、無知よりもひどい状態の中で暮らしていたのです。無知以上に軽蔑すべき何かよく分らない隠語が知識の占めるべき場所を横取りして、知識の復帰を妨げる乗り越えがたい障害となっていたのです。

 並の判断力を取り戻すにさえ、一種の革命が必要でした。そして、それは思いも寄らぬ方角からやって来ました。私たちの文芸を復興させたのは、なんと文芸の永遠の敵、無知なるイスラム教徒だったのです。彼らがコンスタンチノープルを陥落させたおかけで、古代ギリシャの残骸がイタリアにもたらされ、次にフランスがこの貴重な遺品を受け継いで潤いました。文芸のあとからはすぐに学問が続きました。つまり書く技術に考える技術が加わったのです。この進み方は一見奇妙に見えますが、ごく自然の成り行きだったのです。

 そして人々は文芸の神ミューズとの付きあいから得られる代表的な利点に気づき始めました。その利点とは、人の称賛に値する作品をつくって好評を博したいという欲求が人々の間に生まれて、人々を社交的にするということです。

 肉体に欲求があるように、精神にも欲求があります。そして、肉体の欲求が人々の間に付き合いを生み出すとすれば、精神の欲求は人々の付き合いに楽しさを生み出します。

 国とか法律とかは、こうして集められた人々に安全と物質的な充足を保証しますが、おそらくそれらよりもやさしくはあってもはるかに強い力を持つ学問や文学や芸術が、人々をつないでいる鉄の鎖に花輪をかけて、生まれつき持っているはずの自由に対する気持を封じ込めて、束縛された状態を気に入るようにしていきます。こうしていわゆる文化的な国民が生まれるのです。

104、《短小tinko》
2019-01-12 18:37:08
ID:89AUxsM.(sage)

いわば人々の欲求が王座を作り出して、学問や芸術がそれを強固なものにしていると言っていいでしょう。だから、この世の支配者たちは、いわゆる文化人を可愛がるべきです。そして、この文化人を援助している人たちを大切にすることです。また、文化的な国民もまた、文化人を援助すべきです。彼らが自慢にしている高尚な趣味をもてるのも、文化人がいてこそだからです。この高尚な趣味こそは、都会的な洗練さをもったやさしい人間をつくるのであり、人付き合いのうまい愛想のいい人間、つまり、見せかけだけの美徳を備えた人間を作り出すのです。こうして彼らは幸せな奴隷となるのです。

 かつて豪華と絢爛を誇ったローマやアテネが他に抜きんでていたのは、実を言えばこの隠すほど値打ちがあがるという趣味の高尚さだったのです。そして、現代が他のあらゆる時代に勝っているのも、わが国が他のあらゆる国に勝っているのも、疑いなくこの趣味の高尚さのおかげなのです。

 この国民が持っているてらいのない泰然とした態度、自然さを失わずしかも思いやりに満ちた行動様式は、ドイツ人の無骨さともイタリア人の大げさな身振りとも、等しく遠いものです。これこそは、よく勉強することで身につき、社交界のつきあいの中で完成される高尚な趣味のたまものなのです。

 もし人の顔を見れば、常にその人の心が分るなら、人生はどれほど楽になるでしょうか。慎みを美徳としていて、生き方が社会のルールと一致していて、哲学者の肩書きを持っている人が常に真の哲学者なら、この世はなんと素晴らしいものになるでしょうか。しかし実際には、これほど多くの長所を一人で持っている人はめったにいませんし、美徳がそんなに華麗な姿で現れることはまれなのです。

 確かに、飾り立てた服装をしている人が高尚な趣味の持ち主であるかもしれませんが、その人が立派な人かどうか、健全な人かどうかは、他のところを見なければなりません。頑強な肉体を見つけるには、宮廷の人間が着るような金ぴかな衣装の下ではなく、農民の着るような素朴な服装の下を探さねばなりませんが、それと同じように、美徳、すなわち頑強な精神は、虚飾とは無縁のものなのです。

 美徳を備えた人間とは、裸一貫で勝負することを好むいわば筋骨たくましい人のことです。そのような人は、つまらない飾りを嫌います。なぜならそのような飾りは力を発揮するときの邪魔になるし、もともとは何らかの欠点を隠すために作られたものが多いからです。

 今では文化が進んで礼儀作法が形成されて感情を素直な言葉で表現することがなくなっていますが、昔のわたしたちは粗野ではあってももっと自然な振舞い方をしていました。だから、昔は振舞い方の違いを見れば、すぐにその人の性格が分ったものでした。その頃の方が本質的に人間がすぐれていたとは言いませんが、互いに相手の気持が手に取るように分っただけに、安心して付きあえたことは確かです。そして、このおかげで、当時の人たちは多くの悪徳に手を染めずにすんだのです。しかし、現代のわたしたちは自然に振舞うことの値打ちが分らなくなってしまっています。

 この高尚な趣味はさらに洗練の度を加えていき、人の感情を害さない振舞いをすることが道徳にまでなってしまって、今日では人々の行動様式に安っぽいうわべだけの画一性が支配するようになってしまいました。人々の精神は全部同じ鋳型にはめられてしまったかのように見えるのです。いついかなる場合も、礼儀作法を守って、上品に振舞うことが要求され、いついかなる場合も、慣習に従って行動しなければならず、自分の生まれつきのままに生きることなど御法度です。人々は決してありのままの自分の姿を見せようなどとはしないのです。

 社会という名の集まりを形成した人たちは、こうして永遠に続く束縛状態の中に置かれて、何か強力な動機でもないかぎり、同じ状況下ではまったく同じ行動をするようになったのです。

 そのために、わたしたちは自分が相手をしている人間が一体何者なのかまったく分りません。そして、自分の友人がどんな人間かを知るためには、人生の重要な節目の時が来るのを待たなければならないのです。しかし、その時はもう手遅れです。なぜなら、まさにそんなときのためにこそ、自分の友人の本性を知っておく必要があるからです。

 相手の性格が分らないということからどれほど沢山の悪徳が生まれるでしょう。心からの友情も、偽りのない尊敬も、確固たる信頼感もなくなってしまうでしょう。そのかわりに生まれるのは、猜疑心であり、不信感であり、恐怖心であり、非情さであり、警戒心であり、憎しみであり、裏切りです。それらは上品さという画一的な偽りのベールの下に隠されることでしょう。それらは現代の英知のおかげで手に入れたご自慢の都会的洗練の下に隠されることでしょう。

 人々はもはや汚い言葉で悪態をついて神の名を汚すことはなくなりますが、そのかわりに神が冒涜されるのを耳にしても私たちの良心が痛むことはなくなるでしょう。自分の手柄を人前で自慢することはなくなりますが、そのかわりに人の手柄をおとしめるでしょう。自分の敵を面と向かってののしることはなくなりますが、巧妙に相手の評判を落とそうとするでしょう。国民同士の憎しみは弱まりますが、そのかわり愛国心も弱まってしまうでしょう。軽蔑すべき無知はなくなりますが、そのかわりにすべての認識を否定する危険な懐疑論が幅を利かせるでしょう。

105、《短小tinko》
2019-01-12 18:37:59
ID:89AUxsM.(sage)

もちろん、いくつかの行き過ぎはいましめられるでしょうし、いくつかの悪徳は非難されるでしょう。しかし、また別のものが現れて美徳の名をかたることでしょう。なぜなら、美徳を持たないものも美徳を持っているふりをしなければならないからです。

 今日の有識者たちの節度を称賛する人もいるでしょうが、わたしはそれは一種の手の込んだ不節制でしかないと思います。だからそんなものは、彼らの取ってつけた率直さと同様に褒める気になれません。

 こうしてわが国民は完璧な行動様式を手に入れ、そろって有徳の士となったというわけです。確かに、文芸や学問や芸術は、この極めて有益な行動様式を確立するうえで、自分たちの果たした役割を主張する権利があります。しかし、わたしはここで一言言っておく必要があります。それは、もしここから遠く離れたどこかの国の住民がわが国の人間の行動様式を、わが国の学問の状況や、その完成した芸術や、礼儀正しい演劇や、人々の上品な振る舞いや、丁寧な会話や、必ず見せる親切な態度や、さらには、あらゆる年代のあらゆるクラスの人間が集まって騒々しく朝から晩まで互いに親切のしあいっこをしているありさまに基づいて理解しようとするなら、私たちの本当の行動様式とは正反対のものに行き当たるだろうということです。

 もし結果が不明ならば、原因を探求する必要はありません。しかし、今の場合は結果は明白です。それは精神の明らかな堕落です。学問と芸術が進歩して完成の度を高めるとともに、私たちの精神は堕落していくのです。この現象は現代だけのものでしょうか。いいえ、無益な好奇心がもとで起るこの病気は、人間の歴史が始まって以来ずっと存在しています。行動規範つまり道徳のレペルの変化は、学問と芸術の進歩と密接に結びついているのです。この二つは、海の満ち退きが夜を照らす月の運行と結びついているのと同じぐらい密接に結びついていると言えるでしょう。つまり、学問と芸術という光が水平線から昇っていくにしたがって、美徳は地上から消えていくのです。それはいつの時代、どこの国においても見られる現象です。
 
・・・

106、《短小tinko》
2019-01-12 18:47:00
ID:89AUxsM.(sage)

第二部

 エジプトからギリシャに伝わった古い伝説に、人間の休息を嫌う神が学問を発明したのだというのがあります。学問の生みの親であるはずのエジプト人が、学問に関していったい何という意見を持っていたのでしょうか。これが、学問の始まる様子を近くで見ていた彼らの意見なのです。実際、
 
・・・
 
 彼らは本心から美徳や私たちの信仰を嫌っているわけではありません。彼らが嫌っているのは、一般の人たちのものの考え方なのです。ですから、彼らをもう一度信仰に引き戻すには、彼らを無神論者だけが住む国に入れてやればいいのです。目立ちたいという気持だけで、彼らは何でもやりかねない人たちだからです。(岩波文庫p35)

・・・

 わが国の政治家は商売のこととお金のことしか話そうとしません。そのうち、人間の値打ちをアルジェで売ったときの金額で測る国があると言う人が出てくるでしょう。すると、その計算方法では人間の値打ちがゼロになる国があるという人が出てきます。さらには、それでいくと人間の値打ちがゼロ以下になる国があるという人も出てくるでしょう。彼らは人間を家畜扱いしているのです。(岩波文庫p36)

・・・

 この考えに対する反論は無意味です。なぜなら、そんな反論をすること自体がわたしの考えの正しさを証明しているからです。そもそも、彼らがこれほどご苦心されていることだけを見ても、その苦心が必要であることは明らかでしょう。治療が必要なのは、病気が存在する証拠なのです。

 しかし、この治療法が充分な効き目を現さず、特効薬となっていないのはなぜでしょうか。実際、学者たちのためにこれほど多くの団体が設立されているにもかかわらず、それがかえって学問の目標を見誤らせ、勉強ばかりする人間を作り出してしまっています。この治療法自体、まるで農民はありあまっているが哲学者は不足していると言っているかのように見えるのです。

 わたしはここで、哲学より農業の方が大切だと言いたいのではありません。わたしがここで問題にしたいのは、その哲学の中身なのです。有名な哲学書には一体何が書いてあるかご存知ですか。知性の友と言われるこの人たちは、いったい何ということを教えているのでしょうか。

 彼らの話しているのを聞くと、まるで広場に並んで大声をあげている香具師(やし)の集団かと見まごうほどなのです。「さあいらっしゃい、いらっしゃい、本当のことを知っているのはわたしだけだよ」と。

 ある人は「物質などは存在しない。あるのは人間の観念だけだ」と言い、ある人は、「この世に存在するのは物質だけだ。神など存在しない。宇宙があるだけだ」と言います。

 またある人は「善も悪も存在しない。そんなものは妄想だ」と言い、またある人は「人間は元々は互いに喰らいあっても平気な狼のような存在だ」と言うのです。

 哲学者とはかくも立派な連中なのです。こんな有り難い教えは、発表などせずに、自分の友達や子供たちだけに教えておいてくれたらよかったのです。そうすれば、彼らはすぐにその報いを受けたでしょうし、わたしたちも彼らの考えの信奉者が身内にいるのではないかと心配することもなかったでしょう。(岩波文庫p48,49)
 
・・・

 スピノザやホッブスの書いたものは有名になりましたが、私たちの無知で粗野な祖先たちならそんな本をけっして認めることはなかったでしょう。しかし、そんな本が、今世紀の退廃した道徳のにおいが漂うはるかに危険な書物と一緒に次の世代に伝わり、それと同時に、わが国の学問と芸術がはたした進歩や、それらがもたらした利益が、後の時代に正確に伝えられるのです。もうそうなってしまえば、後の世代の人たちがこれらの本を読んでも、今日のわれわれが論じている問題について何の違和感も感じることはないでしょう。

 しかし、もし彼らがわれわれより馬鹿でないかぎり、彼らは天に両手をさし伸べて、苦々しい思いをしながらこう言うことでしょう。

 「神よ、わたしたちの精神をその手に握っている全能の神よ、わたしたちの先祖が伝えた文化と忌まわしい芸術からわたしたちを解放して下さい。そしてわたしたちを元の無垢で無知で貧しかった昔に戻して下さい。そうなるしか、わたしたちは幸福になることが出来ないのですから。無垢で無知で貧しいことだけが、神の目にとって貴いのですから」(岩波文庫p49,50)
 
・・・

 彼らが努力することを学び、彼らが後に踏破することになる厖大な距離を踏破できるように自らを鍛えたのは、入門時の障害があったからこそなのです。(岩波文庫p52)



「社会契約論」の場合と同じく、「学問芸術論」も中央公論社の「世界の名著36 ルソー」の中の翻訳が一番すぐれているので、残りはそちらで。

107、《短小tinko》
2019-01-12 18:53:34
ID:89AUxsM.(sage)

ルソーの『社会契約論』第二巻より

 
第一章 主権は人に譲り渡すことができない


 これまで述べてきた基本的な事柄から導き出される結論のうちで最も重要なことは、全体の意志 (volonté générale)だけが国民全員の幸福のために国家権力を行使することができるということです。国家というのはまさにこの全員の幸福のために作られるものなのです。なぜなら、個々の国民の間に利害の対立があるために共同体の設立が必要であるとすれば、個々の国民の間の利害が一致してはじめて共同体を設立することができるからです。つまり、共同体のつながりは国民の様々な利害に共通点があるからこそ生まれてくるのです。逆に、利害の対立だけがあって何の共通点もないなら、そこに共同体が成立することはあり得ません。そして共同体は、まさにこの共通の利害という一点に基づいて運営されなければならないのです。

 つぎにわたしが言いたいことは、主権というものはまさにこの全体の意志の表れなのですから、それを誰かに(例えば王様に)譲り渡すことはできないということです。つまり、主権者は共同体以外にはないのですから、主権が共同体以外の誰かによって代表されることなどあり得ないということです。なぜなら、権力ならば誰かに譲り渡すこともあるでしょうが、意志を人に譲り渡すことなどあり得ないからです。

 実際、誰か個人の意志が全体の意志と一致することはあり得ないことではありませんが、それがずっと一致し続けるかとなるとそれは無理というものです。個人の意志というものはその性質上どうしても依怙贔屓に向かいやすいのに対して、全体の意志はいつも公平であろとうとするからです。仮に全体の意志と個人の意志とがつねに一致し続けたとしても、それを保証するものは何もないのです。なぜならそれは単なる偶然の一致であって、意図的なものではないからです。

 主権者すなわち共同体の意志が当面ある人の意志と一致するか、少なくともその人の意志と称するものと一致することはあっても、その人の将来の意志とまで一致することなどありえません。なぜなら、いやしくも意志というものが将来にわたってその自由を捨て去ることなど馬鹿げたことであり、もし意志あるものが自己の幸福に反することに同意することがあるなら、それはもはや意志に従った行為ではないからです。したがって、ある国民が誰かに無条件に服従する契約をするようなことがあるなら、その契約によってその国民は解体して、もはや国民と呼べる存在ではなくなっているのです。なぜなら主(あるじ)を頂いた瞬間に主権者は主権者でなくなり、その瞬間に市民共同体は消えてなくなるのです。

 しかし、こういったからいって、君主の命令が全体の意志としての価値を持つことを排除するものではありません。もちろんこれは、主権者すなわち共同体にその命令を拒否する自由がありながらもそれを拒否しない場合のことですが。この場合には、誰も何も言わないならば、国民が同意していると考えてよいということになります。このことについては後ほど(第6章)詳しく説明することに致しましょう。

   

108、《短小tinko》
2019-01-12 18:54:46
ID:89AUxsM.(sage)

第2章 主権は分割できない

 

 主権は全体の意志の表れであるから人に譲り渡すことはできないと言いましたしたが、それと同じ理由で、主権は分割することができません。この場合、意志は全体の意志かそうでないかの二通りでしかないからです。つまり、それは国民全体の意志であるか、一部の人の意志であるかのどちらかなのです。そして前者の場合には意志を表明することは主権の行為であり、それがそのまま法律となりますが、後者の場合には、それは個別の意志のあらわれであり、それは政令か高々勅令でしかありません。

 にもかかわらず、既存の政治学者たちは本質的に分割できない主権を、その目的によって分割しようとしています。ある人は主権を力と意志に、ある人は立法権と行政権に、ある人は徴税権と司法権と交戦権に、またある人は内政部門と外交部門に分割しています。これらの全ての部分を彼らはくっつけたり切り離したりしているのです。つまり、彼らは主権を別々の部品を集めてつくった空想の生き物にしてしまっているのです。それは人間の体を目や腕や足など肉体のたくさんの部分から組み立てようとするのに似ています。日本の大道芸人は、見物人の目の前で子供を切り刻んでばらばらした体を全部順番に空中に放り投げて、落ちてくるまでに子供を元どおりの姿に戻すという手品を見せるそうですが、既存の政治学者たちがやっていることはこの手品とそっくりです。彼らは縁日に出してもいいほどのトリックを使って市民共同体を分割したかと思うと、いつのまにかまたそれを元通りに組み立てて見せるのです。

 このような間違いが起こったのは、彼らが主権についての正しい見方を身に付けていないためなのです。彼らは単なる主権の表面的な現象をとらえて、それをあたかも主権の部分であるかのように思っているのです。ですから、例えば、宣戦を布告したり講和を結んだりすることは、しばしば主権の行為であると思われていますが、実はそうではありません。なぜなら、これらの行為は法律ではなく、単なる法律の一つの適用例であり、法律を個別のケースに当てはめた個別の行為でしかないからです。このことはのちに法律という言葉のもつ意味を論じるときに明らかになるでしょう。

 この他にも主権を分割する考え方はいろいろありますが、それらもまた同じように見ていけば、全てが間違いであることが分かります。結局、主権の部分であると思われている権利や権限はすべて主権の下に従属するものなのです。そして、それらの権利や権限は最高の意志の存在を前提として成り立っているものであり、この意志を実現するためだけに存在するものなのです。

 政治学者たちが自らうち立てた理論を使って国民と国王のそれぞれの権利について評価を下そうとしたとき、政治的な権利について彼らが導き出した結論は、このあたりを曖昧にしたためにまったく訳の分からないものになっています。グロチウス〔1583-1645〕の本〔『戦争と平和の法』〕第一巻の3章と4章を読んでみれば、この学者(あるいはその翻訳者のバルベラック)が自分の持ち出した屁理屈のせいで頭が混乱して自分でも訳が分からなくなっていることは誰でもわかります。彼は好意を勝ち取りたい人たちの利益を損なわないために、自分の考えを言い過ぎてはいないか、いや逆に舌足らずはないかと戦々恐々なのです。グロチウスは祖国を恨んでフランスに亡命してからルイ13世〔在位1610-43〕に取り入ろうとしてこの本を王に捧げた人ですが、彼はこの本の中であらゆる詐術を使って国民からその全ての権利をはぎ取ってそれを王の体にまとわせようと全力を尽くしたのです。

 この本を訳してそれを英国王ジョージ一世〔在位1714-27〕に捧げたバルベラック〔1674-1744〕のねらいもこのあたりにあったと思われます。しかし、不幸なことに、バルベラックは、ジョージ一世の先祖で名誉革命のときに英国に迎えられたウイリアム三世〔1689-1702〕を王位簒奪者(さんだつしゃ)にしないために、当時のジェームズ二世〔在位1685-88〕の追放を譲位と名付けるなど、小心翼々として、事実の歪曲やごまかしに腐心せざるを得ませんでした。

 もしこの二人が真実を語るという方針を取っていたら、彼らの文章に見られる難解さは一挙に払拭され、論旨の一貫した非常に読みやすいものとなったでしょう。しかし、悲しいかな、たとえ彼らが真実を語ったとしても喜ぶのは国民だけだったでしょうし、それによって彼らが大使の職や教授の地位や恩給にありつくこともなかったでしょう。真実は金儲けには不向きなのです。

   

第3章 全体の意志が間違いを犯すことがあるか

 

 これまで述べたことから全体の意志は常に全体の利益に向かうものであり、つねに正しいものであると言えるでしょう。けれども、だからといって国民の考えることが常に正しいとは言えません。人は常に良いことをしようとするのは確かですが、何が良いことなのかを常に知っているとは限らないからです。ですから、国民にそれと知りながら悪いことをさせることはできませんが、悪いとは知らずに悪いことをさせることは可能です。そして国民が悪事を犯すとすればこの後の場合だけであると言えるでしょう。

 全体の意志と全員の意志 (volonté de tous)の間にかなりの隔たりがあるのはよくあることです。前者がつねに全体の利益を考えるのに対して、後者はつねに自分だけの利益を考える個別の意志の寄せ集めでしかないからです。しかし、これらの個別の意志の中から、互いに打ち消し合うような両極端な意志を取り除いたときに、様々な異なる意志の集大成としての全体の意志が生まれるのです。

 しかし、全体の意志が多くの異なる意志の中から生まれて、その考えが正しいものとなるためには、国民が正しい知識をもって審議するだけでなく、市民たちの間であらかじめ互いの意志を通じておくことがないようにしなければなりません。もし一部の国民が党派を組んでそれを国家よりも優先するようなことがあれば、それぞれの党派の意志はその党員にとっては全体の意志となるとしても、国家にとっては単なる個別の意志でしかありません。そして、そのような場合には、投票が行われたとしても投票者の数と同じだけの投票があったとは言えません。それは党派の数だけしか投票がなかったのと同じなのです。

 そのときには異なる意志の数は少なくなり、その中から生まれる意志はとても全体の意志とは言えないものとなるでしょう。さらに、もしひとつの党派が非常に大きくなって他のすべての党派を飲み込んでしまったときには、異なる意志はただ一つしかなくなってしまい、もはや様々な異なる意志の集大成は生まれてこなくなるのです。こうなるともはや全体の意志は存在せず、そこで勝ちを占めた意見は個別の意見でしかありません。

 したがって、誤りなき全体の意志が生まれるためには、国家の中に党派がなく、市民の一人一人が自分の判断で投票することが大切なのです。この点で、かの偉大なスパルタ人リュクルゴスのつくった制度はすぐれたものでした。もし国内にさまざまな党派がある場合には、その数を増やして各党派の大きさが均等になるようにしなければなりません。アテナイ人ソロンもローマ人ヌマもセルヴィウスも、まさにそうしたのです。以上の点にさえ気を付けておけば、全体の意志はおのずから明らかとなり、国民が間違いを犯すことはなくなるでしょう。


※『社会契約論』の翻訳は中央公論社の『世界の名著36 ルソー』の中のものが一番すぐれている。残りはそちらで。

109、《短小tinko》
2019-01-12 19:00:25
ID:89AUxsM.(sage)

はしがき

 本小論は、数年前、己が浅学非才を省みることなく企図しその後投げ出してしまった大作の一部分である。かつて書きためておいた様々な断片の中で、最もまとまりがありかつ公表に値するのはこれぐらいのものであろうかと思われる。残りはもうない。
第一巻

 この本の目的は、国の統治機構のあるべき姿についての原理原則を社会秩序のなかに見出すことです。その際、人間の本性と法のありうべき姿を同時に考慮に入れるつもりです。この研究においては、正義と実益を常に両立させるために、正義にかなう事と利益の要求する事を常に一致させることに努めるつもりです。

 私はこのテーマの重要性の証明は抜きにして直ちに本題に入るつもりです。「政治のことを論ずるとは、お前は国王かそれとも政治家か」と問う人がいるかもしれません。この問いに対して私は「そうではない、が、そうではないからこそ私は政治を論じるのだ」と答えるでしょう。そもそも国王や政治家が何をなすべきかについてあれこれ論じて時間を浪費するでしょうか。私なら実行あるのみです。

 天下国家の問題に私ごときが何か言ったところで甲斐のないことかもしれません。しかし、自由な国の一市民として、また自治組織の一員として生まれた私には、投票権が与えられています。それゆえ私には天下国家の問題に熟知しておく義務があるのです。私は統治機構の研究をしながらいつも幸福な思いに満たされます。なぜなら、この研究が進むにつれてわたしの祖国スイスの統治機構を賞賛する理由が益々増えていくのを発見するからです。

 

第一章  第1巻について

 

1. 人はみな何にもしばられない自由な身で生まれてきます。ところが、世の中に入るとあらゆるしがらみにがんじがらめにされてしまいます。いや、王侯・貴族の人たちは自分たちは支配者なのだから自由だと思っているでしょうが、実はその彼らの方が家来たちよりも、はるかに多くのしがらみに囚われて暮らしているのです。では、なぜ、このようなことになってしまうのでしょうか。私はこの問いに対する答を持っておりません。しかし、この社会のしがらみをどうすれば正しいものにすることができるか、この問いについてなら私は答えることができます。

2. もし、この世の中が弱肉強食の世界であり、勝てば官軍の力と力の世界であって、それでよいのだと考えるならば、何も考えることはありません。人々が服従を強制されて服従する、それもまたよし、その人々が力をつけてその強制から脱けだす、それもさらによしであります。彼らの自由を奪ったのも、また彼らが自由を取り戻したのも、強いものが勝つという同じ原理に由来しているのですから、人々から自由を奪ったのが正しかったのと同じように、人々が自由を取り戻したのも正しい道理にちがいありません。しかしながら、この世には秩序というものが必要不可欠です。そしてこの秩序こそは正義であり、人間の他のあらゆる権利の土台となるものです。しかし、これは決して自然に生まれて来るものではなく、人と人との約束事、つまり契約に基づくものなのです。そして問題はまさにこの契約の中身をどのようなものにすべきかということなのです。が、しかしその前に、これまで述べたところをまず具体的に説明して参りましょう。

 

第二章 最初の共同体

 

1. この世で最初に生まれた共同体は家族です。しかも家族はただ一つ自然に発生した共同体です。しかし本来、子供が父親の束縛を受けるのは自己保存のために父親を必要としている間だけのことであって、この必要がなくなるとこの自然に生まれた束縛も終わってしまいます。そうなればもう子供は親に服従する義務から解放されます。一方、親の方も子供を養育する義務から解放されます。こうして両者は共に本来の気ままな自由を回復するのです。そして、もしこの段階を過ぎても両者が一緒に暮らし続けているとすれば、この結びつきはもはや自然に生まれたものではなく、本人たちの選択によるものです。そうなれば家族自体も、両者の合意すなわち契約のみによって維持されていくのです。

2. 両者が回復したこの気ままな自由は、人間の自然な状態の当然の帰結です。つまり、自分の身の安全は自分で守り、自分の面倒は自分で見るというのがこの世の第一のきまりなのです。子供の頃はともかく、人は物事の分別がつく年齢になれば、自分のことについてはもうあれこれ人の指図は受けずに、自由気ままに暮らせるのです。

3. したがって、このような構成員からなる家族は、政治的な共同体の最初の雛形と見ることができます。たとえば、国家の長はいわば国家の父親であり、国民はその子供であるというふうに言うことができます。そして、その構成員は全員が等しく自由に生まれて来ているのですから、仮にこの気ままな自由を手放すようなことがあるとしても、それは自分自身のためになる場合に限られているのです。国家と家族の唯一の相違点は、家族の場合は父親が子供の面倒を見ることによって子供に愛情を感じるという喜びがあるのに対して、国家の場合は支配者が国民に対して愛情を感じることがない代わりに、人を支配する喜びを感じることができるという点でしょうか。

4. 人間の作る支配機構は全て支配される人たちのために作られているのですが、グロティウスはこの意見に反対です。そして、彼は奴隷の存在をその実例として挙げています。これはグロティウスがよくやる理由づけのやり方で、彼は事実さえあればそれで正しさの証明になると思いこんでいるのです。もっと論理的なやり方がありそうなものですが、これほど独裁者たちに好都合な理由づけのやり方は他には思いつかないほどです。

110、《短小tinko》
2019-01-12 19:02:00
ID:89AUxsM.(sage)

5. こういう次第ですから、グロティウスの言うことを聞いていると、一体、人類は百人ばかりの一握りの人間のためにいるのか、それとも逆にその一握りの人間が人類のためにいるのか分からなくなってしまいます。もっとも、彼の本をよく読んでみると、グロティウスの意見はどうもこの二つのうちの最初の方に傾いているらしいのです。実は、ホッブスも彼と同意見です。この人たちの手にかかると、人類は家畜の群れにされてしまいます。かれらはこの家畜の群れを分割して、各群れごとにその世話をする飼い主をあてがいます。飼い主たちは、好きなだけその家畜を取って食っていいというわけです。

6. そして「飼い主は家畜の群れよりも生まれつき優っているのと同じように、人間の飼い主である支配者たちも、その国民よりも生まれつき優っている」というのです。事実、皇帝カリグラはまさにこのように主張したと、ユダヤの哲学者フィロンは伝えています。カリグラはここからつぎのような結論を導き出しました。すなわち「国王は神であるにちがいない、さもなければ国民の方がけだものでなければならない」と。これは、さっきの類推を応用すれば当然出てくる結論であることには違いありません。そして、このカリグラの理屈はまさにホッブスとグロティウスの理屈にほかならないのです。

7.アリストテレスは「人間はけっして生まれながらにして平等ではない、奴隷になるべく生まれる者もいれば、主人になるべく生まれる者もいる」と誰よりも先に言っています。そしてこの理屈はある意味では間違ってはおりません。ただし、アリストテレスは原因と結果の関係をさかさまにとらえていました。奴隷の親から生まれたから奴隷になる、確かにその通りで、これ以上確かなことはありません。拘束のもとに置かれた奴隷は何もかも無くしてしまい、ついには自由になりたいという欲望さえも無くしてしまうのです。その上、けだものに変えられたオデッセイの家来たちがけだものの生活を愛したように、奴隷たちは奴隷の生活を愛するようになってしまうのです。しかしながら、もし仮に生まれついての奴隷というものがいるとしても、それはかつて生まれつきでない奴隷がいたからにほかなりません。この最初の奴隷は無理矢理奴隷にされたのであって、彼らは気力を失ってしまったために、ずっと奴隷でありつづけただけなのです。

8. ここまで私はアダム王のことや、あの皇帝ノアのこと、それにノアの子供で世界を三つに分割して支配した三人の王、セム、ヤペテ、ハム(まるでギリシャ神話のクロノスの子供たち、ゼウス、ポセイドン、ハデスの三人とそっくりです)について言及することを一切控えてきましたが、読者のみなさんは私のこの控え目な態度をきっとほめて下さると思います。というのは、みなさん、実は私はこの王たちの直系の、しかもおそらくは正統な血を受け継いだ子孫なのです。ですからよく調べて頂きさえすれば、必ずや私こそは全人類の正統な王であるということが判明するはずです。私のことはともかくとして、ロビンソンクルーソーが無人島の王であったのですから、アダムが世界の王だったということは否定しがたい事実です。なぜなら、アダムはこの世の中のただ一人の住民だったのですから。この帝国のありがたいところは、この国には反乱の心配もなけれれば、戦争の心配もないし、陰謀を企てる者が現れる心配もなく、王の地位が極めて安泰であったということです。

111、《短小tinko》
2019-01-12 19:03:09
ID:89AUxsM.(sage)

第三章 強者の権利(勝てば官軍)

 

1. どんなに力の強い者であっても、いつかは自分より強い者に出会って打ち負かされる日が来るものです。そこで、そうなる前に彼は、力は正義だ、この力に服従するのは義務であると主張して、自分の地位の安泰を図ろうとします。そこであみ出されたのがmight isright、つまり「強者の権利」という言葉です。これは一見皮肉を込めた言い回しのように見えますが、実はこれが実際に原理原則として通用しているのです。しかし、この言葉の意味を一度詳しく説明してもらいたいものです。力というのは物理的な力のことであって、そんなものを行使した結果、義務などという道徳的なものが生まれるとは、私はどうしても信じられないのです。力に屈伏するのは、何も自ら進んですることでなくて、やむを得ずすることです。ですから、それはよく言っても賢明な行動でしかありません。これがどういう意味で、道徳的な義務などと言えるでしょうか。

2. ここでしばらくの間、この「強者の権利」なるものが存在すると仮定してみましょう。しかし私はそこから生まれて来るのは無意味な混乱状態でしかないと思うのです。なぜなら、力が原因となって、結果として正義が生まれるのなら、結果である正義は原因が変わるとともに変化してしまい、力が力を征服するたびに正義の持ち主がつぎつぎに移り変わってしまうからです。また、不服従はそれが罰せられないと途端に正義と名を変えてしまうことでしょう。そして、一番強いものだけが正しいのですから、問題はどのようにしてそうなるかということだけに限られてしまうでしょう。しかし、力が消え去るとともに消え去ってしまうような正義とはいったい何でありましょうか。服従を力で強制しようとする限りは、服従は義務とはなり得ませんし、服従が強制されなくなってしまえば、もはや服従する必要もなくなってしまうのです。以上から分かるように、力を正義と言い換えたところで、何も得られないのです。「強者の権利」などという言葉は、なんの意味もないのです。

3. 「権力者には服従せよ」といいます。もしそれが単に力に屈伏することを意味するなら、もっともな忠告ですが、余計なお世話でもあります。みんなもう既にそうしていますし、今後もそうするしかないからです。「あらゆる権力は神々が下さるものである」。いいでしょう。しかし、あらゆる病気もまた神々が下さるというではありませんか。しかし、だからといって医者を呼ぶことが禁止されているでしょうか? 森のまん中で強盗に襲われたら、財布を差し出すのはやむをえないことでしょう。しかしなんとかして強盗の手から財布を守れそうなときにも、必ず財布を差し出さねばならないでしょうか? いいえ違います。結局のところ、強盗の手に握られた拳銃もまた正当性を欠いた一つの権力にすぎないからです。

4. 以上から、力が正義を作り出すことなどないということと、服従の義務があるのはもっぱら正当な権力に対してのみであるということは、認めざるを得ないのです。こうしてわれわれはつねに、正義が因って来るところの契約の中身という最初の問題に引き戻されるのです。

 

112、《短小tinko》
2019-01-12 19:04:32
ID:89AUxsM.(sage)

第四章 人を奴隷にすること

 

1. 誰も生まれながらにして他人に対する権力をもっているわけではないし(第二章)、力だけでは何の正義ももたらさないからには(第三章)、人間界のあらゆる正当な権力は、契約に基づくべきであるということになります。

2. グロティウスは言っています。「個々の人間が自分の自由を譲り渡して人の奴隷になることができるのであれば、国民の全員が自分の自由を譲り渡して王の家来になれない道理はない」と。この発言の中には、説明を要するあいまいな表現がいくつも含まれています。今はその中の「譲り渡す」という言葉にしぼって議論を進めて行きましょう。「譲り渡す」というのはただでやってしまうか、売り渡してしまうかのいずれかです。ところで、他人の奴隷になるということは自分をただでやってしまうことではなくて、少なくとも食べさせてもらうことと引き換えに自分を売り渡すことなのです。では一体国民は何と引き換えに自分を売り渡すというのでしょうか。王は国民を食べさせてやるどころか、ひたすら国民に食べさせてもらっている身です。しかもラブレーの話では、王という連中は、とうてい少しの食べ物では足りないという話です。では、国民が自分の身を王に渡すには、自分の財産もいっしょに王に渡さなければならないのでしょうか。もしそんなことになったら、国民の手元にはいったい何が残るというのでしょうか。

3. 「専制君主なら国民に平和な暮らしを保証してくださる」と言う人がいるでしょう。よろしい。ではもしその君主がもっばら自分の野心から戦争を引き起こしたら、もし君主が果てしなく貪欲で政府の役人を使って過酷な取り立てをやったら、そしてそのおかげで、国内が乱れていた時よりも国民の生活が荒廃してしまったら、国民にとって平和な暮らしがどんな得になるでしょうか。国内の平和と引き換えに国民が苦しまなければならないとしたら、一体国民はどんな得をしたことになるでしょうか。地下牢の中にも平和はあります、だからといって地下牢に入りたいという人がいるでしょうか。かつて怪物キュクロプスの洞窟に閉じ込められたギリシャ人は、その中で怪物に取って食われる番を待ちながらもその間を平和に暮らしていたのです。

4. では、「譲り渡す」というのは自分をただでやってしまうことなのでしょうか。しかしそれではあまりに無茶苦茶な話であります。そんな行為は、それが正気な人間のすることではないという点だけから言っても、不正で無効な行為です。一国の国民全体がこぞってそんなことをするなどというのは、国民全員が狂っていると言うに等しいことです。そして、もちろん狂気に基づいた正義などというものはありえません。

5. いま仮に百歩譲って個々の人間が自分を譲り渡すということがありうるとしても、自分の子供までも譲り渡すことは許されません。なぜなら、子供たちは人間として生まれた以上は、生まれながらの自由を持っているからです。自由は彼らのものであり、誰も勝手に彼らの自由を処分できないのです。子供が分別のつく年齢になるまでは、子供を守り幸福に育てるために、子供に代わって親が子供の持っている自由を制限することは許されていますが、親が子供の自由を無条件かつ永久に人にやってしまうことは許されないことなのです。それは自然の道理に反する行為であり、親権の乱用です。ですから、独裁的な政権が正当性を獲得するためには、世代が代わるごとに、各世代にその政権を信任するかどうかの選択権が与えられなければならないでしょう。しかしその時には、もはやその政権は独裁的とは言えなくなってしまいます。

6. 人間が自分の自由を放棄するということは、人間性を放棄するということなのです。それは、人間の権利も、さらには義務までも放棄してしまうことです。全てを放棄してしまえば、もはやどんな見返りの可能性もなくなってしまいます。そのように全てを放棄するということは、人間の本質に反する行為です。そして、意志の自由を失うということは、もはや自分の行動に対して善悪の判断がつかなくなってしまうことです。つまり、一方の当事者に完全な支配を認め、もう一方の当事者には完全な服従を要求するような契約は、でたらめな契約であって無効なのです。相手に全てを要求する権利がある人間はその相手に対して何の義務も負わないことは誰の目にも明らかでしょう。相互の利益がなく相互の義務もないというこの条件一つをとってみても、この契約が無効なのは明らかではないでしょうか。というのは、そんな契約のもとにある奴隷には主人に対抗するどんな権利もないからです。なぜなら、奴隷のものは全て主人のものだからです。さらにいえば、奴隷が主人に対抗する権利も主人の所有物なのですから、奴隷の権利とは、主人が自分自身に対抗する権利ということになってしまい、全くナンセンスだからです。

113、《短小tinko》
2019-01-12 19:05:16
ID:89AUxsM.(sage)

7. 人を奴隷にする権利と称するものが存在するという根拠として、この他にグロティウスたちは戦争を挙げています。「戦争の勝利者が敗者を殺す権利があるのだから、敗者は自由と引き替えに命を買い戻す権利がある」と、彼らは主張しています。この契約は、当事者双方の利益になるのだから、合法的だと言うのです。

8. しかし、戦争状態の結果として敗者を殺す権利と称するものが生まれることなどけっしてないことは明らかです。人間が共同体を作らずに自由気ままに暮らしている限り、平和であるとか戦争状態になるとかいうほど人間が密接なつながりを持つことはありません。この点だけから見ても、個々の人間は生まれついての敵同士ではないことがわかります。実は、戦争とは人と人の関係から起こるものではなくて、物と物との関係から起こるのです。そして、戦争状態が単なる人間同士の関係からではなくもっぱら物と物との関係から発生するものであるかぎり、個人と個人の戦争などというものは、人間が決まった所有物をもたない自然な状態にある場合にも、また全てが法に支配されている国家の中にいる場合にも、起こり得ないのです。

9. 個人的なけんかや決闘などは、突発的な行為であって何かの状態とは言えません。確かに私闘がフランス王ルイ九世の政府によって認められたり、教会による「神の平和」によって中断されたりしたことがありました。しかし、これは封建支配の悪習でしかなく、制度としてはまったくばかげたものでした。それは、自然な正義の原則に反しており、まともな政府が採用するはずのないものです。

10. このように考えていくと、戦争とは人と人との間にではなく、国と国との間に起こるものであることが分かるでしょう。ですから、戦争においては個々の人間はたまたま敵同士になるのであって、けっして人間として、あるいは市民として敵対するのではなく、ひとえに戦闘員としてのみ敵対するのです。つまり、戦場において個々の人間が敵同士になるのは、それぞれの国の一員であるためではなく、ひたすらその国を防衛する任についているためなのです。結局、国の敵は国だけであって人間ではないのです。なぜなら、国と人間という本質的にまったく異なる性質をもつ二つのものの間には、いかなる関係も生まれようがないからです。

11. 国の敵は国であるというこの原則は、古くからの常識であってどこの国に対しても当てはまるものなのです。ですから、例えば宣戦布告は、相手の国家に対するというよりは、相手の国民に対してするものなのです。国王であろうと個人であろうとまた国民全体であろうと、他国の君主に対してあらかじめ宣戦布告もせずにその国の国民を略奪したり殺したり拘束したりすることは許されません。それは敵の行為ではなく単なる強盗の行為と見なされます。また戦争中には、正義を重んじる君主は敵国にある全ての公の財産を奪うけれども、個人の生命・財産には手を出さず大切に扱います。こうして自分の権利の基盤となる正義の原則を大切にしているのです。戦争の目的は敵国を征服することですから、戦闘員が殺す権利がある相手は、武装してその国を防衛しようとしている人間だけなのです。しかしその人間が一旦武器を捨てて降伏したなら、もはや敵でも敵の道具でもなくなり、再びただの人間にもどるのです。そしてもはや誰にも彼らを殺す権利はなくなってしまうのです。時には相手の国の構成員をだれ一人殺すことなくその国を滅ぼすことも可能です。戦争状態にあるからといって、勝利する目的に必要でない権利まで与えられるわけではありません。こうした原則はなにもグロティウスが発明したものでもなければ、詩人たちの権威に基づくものでもありません。これらは、物の道理、理の当然というべきものなのです。

12. 征服する権利について言うなら、この権利の根拠は強者の権利以外の何物でもありません。ですから、もし戦争をしても征服者には自分が征服した国民を殺す権利が生まれないなら、このありもしない権利を根拠にして、征服した国民を奴隷にする権利を主張することもできないわけです。まだ戦争中で敵を奴隷にできないあいだだけ、敵を殺す権利があるのであって、敵を奴隷にできるようになった時には、もはや敵を殺す権利はなくなっているのですから、敵を殺す権利から敵を奴隷にする権利を引き出せるわけがありません。ですから、もともと勝者には敗者の命を奪う権利がないにもかかわらず、敗者が自分の自由と引き換えに勝者に命を助けてもらうなどどいうのは、不当な契約と言わねばなりません。奴隷にする権利があれば当然殺す権利があるのだから、殺す権利があるなら奴隷にする権利もあるはずだなどという議論が循環論法であるのは明らかです。

13. 仮に勝者には敗者を抹殺するという恐ろしい権利があると仮定してみても、そこから被征服民が征服者に服従しなければならない義務が生じたりはいたしません。奴隷となって服従するとしてもそれは強制的に服従させられるだけのことです。勝者は敗者から「自由」という命に匹敵するものを取り上げて奴隷にするのですから、これは決して命を助けてやることにはなりません。それは無益に殺すかわりに、有効に殺すだけのことです。つまり、勝者は敗者に強制することはできても、その強制にはいかなる正当性もないのです。こうして、両者の間には戦争状態が依然として続いており、主人と奴隷という関係もその現象でしかありません。そして戦争をする権利は消滅していない以上、平和条約が結ばれることはありません。ある種の条約が結ばれることはあるとしても、それは決して戦争状態の終結を意味するものではありません。依然として戦争が継続していることに変わりはないのです。

14. 以上のように、この問題をいかなる角度から眺めても、人を奴隷にする「権利」などというものは無効であることが分かります。それは正当性がないからだけでなく、でたらめで無意味なものであるという点からも無効です。「奴隷」と「権利」という二つの言葉は相矛盾した言葉であって、互いに相手を打ち消す言葉です。ある人がある人に向かって、あるには、ある人がある国民の全員に向かって、「お前にとって全面的に不利な、そして、私にとって全面的に有利な契約を、私はここにお前と取り結ぶことにする。この契約を私は自分が好きな間だけ守ろう、この契約をお前は私の望む間だけ守りなさい」などと言うのは、いずれの場合においても全くばかげたことなのです。

114、《短小tinko》
2019-01-12 19:09:43
ID:89AUxsM.(sage)

第五章 我々は常に最初の契約に戻らねばならないこと

 

1. ここで仮に百歩譲って、私がこれまでありえないこととして否定してきたあらゆる独裁者の権利を認めたとしても、独裁政治の擁護者の立場はなんら強化されません。単にたくさんの人間を服従させることと、ある共同体を支配することとの間には、いつまでたっても消えない大きな違いがあるからです。ばらばらの人間を次々と奴隷にしたとしても、そしてその人数がいくら多くなったとしても、そこに生まれるのは主人と奴隷の関係でしかなく、けっして国民とその統治者の関係は生まれないのです。そこには人の集団は生まれても共同体は生まれないのです。公共財産もなければ、政治的に統一された団体つまり国家もないからです。このような支配者はたとえ世界の人口の半分を奴隷にすることができたとしても、彼は相変わらず一個人のままであり、彼の財産は彼以外の人の財産と常に区別されているために、永久に私的財産のままなのです。このような支配者が死ぬようなことがあれば、後に残された帝国は統一のかなめを失ってばらばらになってしまうでしょう。それは一本の樫の木が燃え尽きると、崩れ落ちて灰の山になるのと同じことです。

2. グロティウスは「国民は王に対して自分自身を委ねることが許されている」と言っています。このグロティウスの言葉に従うならば、国民は自分自身を王に委ねるその前からすでに国民として存在していることになります。すなわら、王に自分自身を委ねること自体がすでに国民としての契約なのであり、国民による審議を前提としているのです。ですから、王に服従する契約より先に、まず国民は国民になるための契約の中身をよく検討すべきでしょう。なぜなら、この国民になるための契約は、王に服従するための契約よりも当然先行すべきものであって、共同体が生まれる真の根拠となるからです。

3. 実際、もし先に来るべきこの契約がなかったら、仮に王に服従する契約が全員一致の決定でない場合に、多数派の決定を少数派が受け入れる義務がどうして生ずるでしょうか。そうです、王を持ちたいと言っている百人の人たちは、王などいらないと言っている十人の人たちに代わって決定する権利などないのです。多数決原理はそれ自体契約に基づいた制度であり、それ以前に少なくとも一度、全員一致の契約、最初の契約がなければなりません。

 

115、《短小tinko》
2019-01-12 19:11:58
ID:89AUxsM.(sage)

第六章 社会契約

 

1. わたしが思いますに、人が自分の力で自分の身の安全を守ろうとしても、自然の状態のままでいては、対処すべき困難があまりに大きすぎて個々の力ではどうしようもないという状況がいつかは到来するものです。そうなってしまえば、人類は最早人間本来の自由な生活を続けることは不可能であり、その生存形態を変えない限り存亡の危機に直面することになるでしょう。

2. ところで、人々は、新たな力を作り出すことはできなくても、すでに存在する力を結集してそれを働かせることならできます。ですから、自分たちの存在を守るためには、どんな困難にも対処できるように、ばらばらに存在する力を結集して、それらの力をただ一つの意志のもとに機能させて、それらの力を一斉に働かせるのが一番です。

3. このような力を結集するためには、これまでばらばらにいた人間が一致団結する以外にはありません。ところが、各人が自分の自由を犠牲にして力を差し出してしまえば、もはや自分で自分の安全を守ることはできないわけですから、自分の力を他人の力に合体した後は、どうすれば自分の身の安全を確保して、同時に自分に対するしかるべき配慮を欠かさずにいられるでしょうか。この問題をこの章のテーマである社会契約という観点から表現すると次のようになります。「全構成員の結集した力で各構成員の身体と財産を守ってくれるような共同体、しかも各個人は他の人々と団結しながらも誰にも服従せず、以前と同様の自由を享受できる共同体の形態はどうすれば見いだすことができるだろうか」。この根本的な問いに対する答えを提供するのが社会契約なのです。

4. 社会契約の条文の規定は、契約の性質上、高度の厳密さを要求されるものです。後からの変更は一切許されず、またどんな些細なものであれ変更を加えたりすればその条文は無効になってしまいます。おそらく個々の条文が正式に発表されることは決してないでしょうが、条文の内容はどこへ行っても同じであり、どこへ行っても暗黙の承認を受けています。もしこの契約に対する違反行為が発生した場合には、全員が生来の権利を取り戻し、本来の気儘な自由を回復するとともに、それと引き換えに獲得した契約に基づく自由を喪失するのです。

5. 正しい理解を妨げない限りにおいて、この契約の条文は一つだけにしても差し支えないでしょう。その一つの条文とは「構成員が自分の身体と自分の全ての権利を共同体に対して完全に譲渡すること」です。こうすれば、まず第一に、全員が例外なく自分自身を完全に委ねることになりますから、全員の置かれた条件は全く同じになります。全員の置かれた条件を同じにしておけば、誰かが他の構成員に対して厳しい条件を課そうとしても、自分にも同じ条件が課せられるため、何の得にもならなくなるでしょう。

6. 第二に、この譲渡は無条件の譲渡となりますから、人々の団結は可能な限り完璧なものになります。また全構成員はもはやいかなる権利を主張することもできなくなります。なぜなら、もし各個人に何らかの権利が温存されたりしたら、彼らと共同体との争いを裁くもう一段高い権威が存在しない状況では、何かの事で一度個人の判断が通ってしまうと、やがては全てにおいて自分の判断を通そうとする要求が生まれてくるからです。これでは自然状態が温存されているのと同じになってしまいます。そして、こうなってしまえば、共同体はもはや独裁を許してしまうか、さもなくば全く無意味なものになってしまうでしょう。

7. 最後に、全員に対して譲渡するということは、誰に対しても譲渡しないということでもあります。どの構成員も自分の権利を他人に一方的に譲り渡すということはなく、必ず同じ権利をその人から与えられるからです。ですから、どの構成員も自分が差し出すものと同じものを必ず手に入れるのです。こうして自分の財産を守る力を、以前よりも大きくすることになるのです。

8. それゆえ、社会契約から付随的な部分を全て取り除くと後に残るのは次のようなものになるでしょう。「われわれは各々自分の身体と持てる力を全て共同体の中に投入して、全体の意志による最高の指揮のもとに置くことにする。そして、われわれは共に全構成員を全体の不可分な要素として受け入れることにする」。

9. この社会契約が結ばれると、契約の当事者である私的な人格に代わって、一つの人為的な団体、すなわち投票権をもつ人の数と同じ数の構成員からなる共同体が即座に発生するのです。そして、この共同体は、まさにこの契約によって、統一性と共通の自我を持ち、それ自身の生命と意志を持つようになるのです。このように他のあらゆる人格の団結によって形成された人格を、むかしは「都市国家(Cité)」という名前で呼んでいました。現在ではこれを「共和国(République)」とか「市民共同体(corpspolitique)」という名で呼んでいます。また、この人格はその構成員によって受動的な役割で呼ばれる場合には「国家(État)」という名前を持つのに対して、能動的な役割を果たす場面では「主権者(Souverain)」という名前を持ちます。さらに、この人格は同種の他の人格と比較して「強国とか大国(Puissance)」と呼ばれることもあります。この共同体の構成員は、全体としては「国民(Peuple)」という名前で、主権を共有する個人として「市民(citoyens)」という名前で、国家の法の下に支配されるものとして「一般民衆(sujets)」という名前で呼ばれます。しかしながら、これらの用語は混同されがちで、前のものが後のものと間違えられることがよくあります。しかし大切なことは、これらの用語が正確な意味で使われた場合には見分けられるようにしておくことです。

 

116、《短小tinko》
2019-01-12 19:12:50
ID:89AUxsM.(sage)

第七章 主権者について

 

1. 様々な名前をこのように整理すれば、社会契約というものが共同体と個人の間の相互の約束事であるということがよくわかると思います。ですから、社会契約とは各人がいわば自分自身と契約することであり、次にあげる二重の意味で契約することなのです。つまり、各個人はまず第一に主権者の一部として各個人に対して契約を結ぶのであり、第二に国家の一員して主権者に対して契約を結ぶのです。民法では、人は自分自身との契約によっては拘束されないとされています。しかし、この民法の原則を社会契約に適用することはできません。なぜなら、社会契約における自分自身との契約は、単に自分自身に対して義務を負うのとは違って、自分の所属する集団に対して義務を負うことだからです。

2. さらに言いますと、国の決議によって主権者に対する義務を一般民衆に課すことは可能ですが、それは各人が上記のように異なった二つの顔を持つと考えられるからです。しかし、逆の理由から(=二つの顔を持っていないという理由から)、国の決議によって、主権者自身に対する義務を主権者に課すということはできないことを忘れてはなりません。それは結果として、自分が破れないような法律を主権者が自分自身に対して作ることになり、市民共同体の本質に反することになるのです。なぜなら、主権者はたった一つの顔しかもっていないため、個人が自分自身と約束するのと同じ立場に立つからです。ということは、全体としての国民を拘束するどのような基本法も社会契約も存在しないし、また存在できないということになります。といっても、社会契約の内容に反するものでないかぎり、他の国に対する契約によって自分自身を拘束することはできます。外国との関係においては、市民共同体も一個の存在つまり個人と同じものになるからです。

3. とはいっても、主権者である市民共同体の存在はひとえに社会契約が神聖不可侵であるということにかかっているため、たとえ外国に対する義務を負う場合でも、最初に作られた社会契約を損なうよう義務を負うことはできません。例えば自己の一部を譲渡したり、他の主権者に自己を従属させるような約束はできないのです。現在の主権者を誕生させた契約を破るなどということは、主権者自身の自己否定になってしまいます。そして、社会契約が無に帰してしまえば、主権者の存在もまた無に帰してしまうのです。

4. このようにして大勢の人間が社会契約で一つの共同体として団結したのちは、その構成員を傷つける行為があればそれは即ち共同体を傷つける行為であり、逆に共同体を傷つける行為があればそれは即ちその個々の構成員を傷つける行為となります。つまり、共同体とその構成員というこの二つの契約当事者は互いに助け合わねばならず、それが双方にとっての義務でありまた利益となるのです。つまり、共同体の中では同じ人間が二重の役割をもっており、その一方から得た利益は全てをもう一方から得た利益と結びつける義務があるのです。

5. さて、主権者はこれを形成する個人の集まりで成り立っていますから、主権者は個人の利益に反するようなことには関心がないし、また関心があるはずがありません。ですから、最高の権力者は一般民衆に対して担保を差し出す必要はまったくないのです。なぜなら、共同体がその全ての構成員を傷つけようとすることなどあり得ないからです。また、後に第二巻の法律の章で述べるように、共同体は特定のどの構成員を傷つけることも出来ないのです。そもそも主権者たるものは、それが主権者であるというただその一事によって、それがあるべき存在であることが保証されているのです。

6. しかし、主権者が一般民衆を傷つけることはないとは言えても、その逆が真であると言うことはできません。個々の国民に契約を遵守させる何らかの方法が存在しないかぎり、国民は、それが共通の利益につながるにもかかわらず、必ず契約を遵守するとは言えないからです。

7. なぜなら各個人は、みな市民としては全体の意志を共有していますが、人間としては、全体の意志に反する、あるいは、それとは異なる個人的な意志を持っている場合があるからです。人は個人的な利益のために、全体の利益に反する行動をとることがあるのです。本来人間は別々に暮らしており、また生まれつきの気儘な自由をもっているため、公の義務を不当なサービスであると考える人も出てきます。この義務を果たすのは自分にとっては大きな負担だが、自分一人ぐらいこの義務を果たさなくても全体にとっては大した損害にはならないはずだと、考えるわけです。また国家という人為的な人格などは単なる架空の存在で本当はそんな人はいないのだと思う人も出てくるでしょう。そんな人たちはきっと市民としての権利の行使には熱心でも、一般民衆としての義務の方は全く省みないということになってしまうでしょう。この種の不正の蔓延は市民共同体の崩壊へつながるのです。

8. それゆえ、社会契約が実態のない形だけのものになることを避けるために、全体の意志に従おうとしない者はこれに従うように共同体によって強制されるということが、暗黙の了解として契約の中に含まれているのです。この了解があってはじめて他のあらゆることが有効になります。全体の意志に従うことを強制されると言っても、それは自由を奪われることではなく、自由を保つことを強制されるということなのです。なぜなら、市民が自分を国に委ねてあらゆる私的な従属関係から解放されるためには、自由を保っていなければならないからです。また、市民が自由を保っていてはじめて、政治機構を巧みに運用することが可能となるのであり、社会契約はその正当性を保ちうるのです。もしこれがなければ、社会契約は不合理なもの、独裁的なものとなり、甚だしい悪用を免れないでしょう。

117、《短小tinko》
2019-01-12 19:20:18
ID:89AUxsM.(sage)

第八章 市民共同体

 

1. 人間の生活形態が自然状態から市民共同体へと移行するとともに、人間自身も大幅な変化を遂げます。人はもはや本能のままに行動することをやめて、正しさを行動の指針として考えるようになります。その行動は以前とは違って道徳的色彩を帯びたものとなるのです。そして、人間が肉体の衝動ではなく義務感に、また欲望ではなく正義感に従って行動するようになると、最早これまでのように自分のことだけを考えるのではなく他の原則にも従わねばならないと感じるようになります。そうなると、好き嫌いを重視することをやめ、理性の声に耳を傾けるようになります。市民共同体の中に暮らす人間は自然状態がもたらす利益を捨てることにはなりますが、その代わりに手に入れた利益は失ったものよりも遥かに大きいのです。様々な能力が開発され鍛練を受けて、知力は増大し感性は洗練されるでしょう。こうして人間に全人格的な高まりがもたらされる結果、この新たな境遇を悪用して元の自分以下の人間へと堕落するようなことが頻発しないかぎり、人類は自然状態から永久に脱皮したこの瞬間を、すなわち、愚かでしかも限界のあるけだものから知的生物つまり人間に生まれ変わった幸福なこの瞬間を、賛美し続けることでしょう。

2. ここで、市民共同体の生活に移行して得たものと失ったものとを簡単に比較するために、損得を整理してみましょう。まず社会契約を結ぶことで人間が失ったものは、生まれつきの気儘な自由でしょう。また、かつては自分の気に入ったもの、自分の手が届くものなら何でも好き勝手に自分のものにする権利がありましたが、それが今はありません。それに対して、社会契約によって人間が手に入れたものは、市民としての自由であり、財産に対する合法的な所有権です。ここで、自然状態と市民共同体の比較において誤りなきを期するために、生まれつきの気儘な自由と市民としての自由を明確に区別しなければいけません。生まれつきの気儘な自由は個人の力のおよぶ限り広がる果てしの無い自由ですが、市民としての自由は全体の意志によって制限される自由です。また、占有と所有の区別も必要です。占有は力の結果であり、いわゆる「先占取得権」だけに基づいているのに対して、所有は合法的な権利証に基づいていなければならないものです。

3. そのほかに市民共同体の成立とともに人間が手に入れるものとしては、精神の自由を挙げてもよいと思います。この精神の自由は人間が自分で自分を支配するためには無くてはならないものです。なぜなら、肉体的な欲望のみによって支配されている人間は奴隷に等しいものであり、自分が決めた法律に従うことによってはじめて精神的な自由を手に入れることができるからです。しかしながら、この問題についてはこれ以上ここで述べる必要はないでしょう。それに「自由」という言葉の哲学的意味をここで論じるつもりはありません。

 

118、《短小tinko》
2019-01-12 19:20:59
ID:89AUxsM.(sage)

第九章 土地の所有権について

 

1. 共同体の構成員は、共同体が成立するときに全ての自分を共同体に委ねますが、それは、自分自身と自分がもっている全ての力を与えることで、そこには財産も含まれます。これは本質的には何の変化もなく、これまでの個人の財産が、社会契約によって人手に渡ってしまったり、主権者の所有になるという意味ではありません。そうではなくて、個人の力と比べると国の力の方が桁違いに大きいため、共同体による占有が個人の占有よりも実際上もはるかに安全で確実であるということにすぎず、こうしたからといって以前よりも合法性が増すというわけではありません。国外の人間に対しては特にそうです。なぜなら、国家対国民のレベルでは、国家は社会契約によって国民のあらゆる物の管理者になるのですが、社会契約が他の全ての権利の基盤として効力を発揮するのは国家の内側のことでしかありません。国家対国家のレベルになると、国家は国民から引き継いだあの「先占取得権」に基づいて占有するだけなのです。

2. この「先占取得権」は「強者の権利」よりもまだましですが、所有権が確立されるまでは真の権利としては認められません。自然な状態では人は誰でも自分が必要とするものの全てに対して権利を持っていますが、社会契約によって明確にある財産の所有者になるということは、それ以外の全ての物に対する権利をあきらめるということなのです。自分の取り分を決めるということは、そこに権利を限定するということであり、共有物に手を出す権利を失うということなのです。こうして所有権が確立してはじめて、自然な状態ではさして強力ではなかった「先占取得権」は、市民共同体の中で全ての人から尊重されるものになるのです。つまり、人はこの権利に従って他人のものを尊重するというよりは、自分の物でないものを尊重するのです。

3. 原則として、土地に関する先占取得権を正当化するには以下の三つの条件を満たさなければいけません。第一にその土地に他の先住者がいないこと、第二に生活に必要である以上の土地を支配しないこと、第三に根拠のない儀式によってではなく、実際に土地を耕して開墾することによって土地を占有していること、この三つです。最後の条件は合法的な権利証の存在しない場合にも、その土地の所有権が他人から尊重されるべきであることを示す唯一の証拠です。

4. 実際、その土地を必要としそこを開墾することで「先占取得権」を認めるということは、この権利をどこまでも拡大するのとはまったく異なるのです。上記の条件によってまさにこの権利は制限することができるのです。つまり、誰のものでもない土地に足を踏み入れただけで、すぐさま自分のものだと主張することはできないのです。一瞬でもその土地から人を追い出しさえすれば、彼らがそこに戻ってくる権利を奪ったことにはならないのです。広大な領地を占領して他の人間が入り込めないようにすることは、ほとんど犯罪的な略奪行為にほかなりません。なぜなら、それはまさに自然が公平に全人類に与えた食物と住みかを他の人類から奪って自分だけのものにすることだからです。

 ニュネス・バルボア〔1475~1519〕が南アメリカの岸辺に立って太平洋と南アメリカの領有をスペイン王の名において宣言しても、それだけで先住民を追い出して全世界の王たちの権利を否定することなどできなかったのです。もしそんなことができたら、そのような無意味な儀式は際限なく繰り返され、スペイン王は王室に居ながらにして全世界を簡単にその手中に収めることができたでしょう。しかし実際のところは、そうして手に入れた領土のうち、先に他国の王に占領されていたものは間もなく全て手放さざるを得なかったのです。(注:この節は反語表現の連続なので、全部裏返して訳した)

5. ここからわかるように、国の領土などというものは個人の土地が合わさって一体となった時にはじめて成立するものなのです。そうすると主権者の権限は一般民衆だけでなく彼らの所有する土地にまで広がっていきます。こうして、主権すなわち統治権は人と土地の両方に及ぶことになるのです。この結果、民衆はますます主権者の保護を当てにするようになる一方で、民衆の方も力を結集して、主権者に対して忠誠をつくすようになるのです。

 古代の王たちは人だけでなく土地も支配することの利点に気づかなかったのでしょうか。彼らは自分たちのことをペルシャ人の王とかスキタイ人の王とかマケドニア人の王なとど呼んでいたのです。ということは、彼らは自分たちのことを国の王であるよりむしろ人々の王であると思っていたことになります。その点現在の王たちは抜け目がありません。彼らは自分たちのことをフランス王とかスペイン王とかイギリス王などと呼んでいます。彼らは土地を支配することで、その住民に対する支配を確実なものにしているのです。

6. 社会契約における譲渡の特徴は、共同体は、個人の財産を受け取ることで、個人を丸裸にしてしまうどころか、財産の合法的な所有を保証してくれるという点です。つまり、それは略奪して得た結果を正当な権利に変え、たまたま持っていたものを法的な所有物に変えてくれるのです。各所有者は国の財産を預かっていると見なされるため、所有者の権利は国家の他の全構成員から尊重されます。また外国の侵略に対しては、力を合わせて守ってくれるのです。人々はこの譲渡によって、いわば譲渡した全てのものを獲得するのですから、この譲渡は国にとっては有利なだけでなく、自分自身にとってはさらに有利なことなのです。譲渡することによって獲得するとは一見矛盾しているようですが、この矛盾は、同じ土地に対して主権者が行使できる権利と各所有者が行使できる権利とは同じではないことで簡単に説明できることです。しかし、これについては後でまたお話ししましょう。

7. また、人々が財産を全く所有していない時から団結を始めることがあるかもしれません。その場合は、全員が住めるような大きさの土地を手に入れることになりますが、その土地は共有にするか、公平に分配するか、それとも主権者の定める割合で分配されることでしょう。土地の取得の仕方はこのいずれの場合でも、その土地に対する個人の権利は、常に全ての土地に対する共同体の権利に従属するものとなります。というのは、もしそうしなければ、共同体のつながりはもろいものとなり、主権の行使も真の威力を持たないものとなってしまうからです。

8. この章とこの巻を終える当たって、あらゆる社会制度の基本として役立つことを一つ申し上げましょう。それは、社会契約とは、人々が生まれつき平等であることを否定するどころから、その反対に、自然が人類に課した肉体的な不平等の代わりに精神的な平等と法的な平等を与えるものなのです。つまり、人々は、腕力や知能では全員が平等でなくても、社会契約と法律によって全員が平等になれるのです。

 

第一巻終了

119、《短小tinko》
2019-01-12 19:21:09
ID:89AUxsM.(sage)

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/rousseau.html

120、《短小tinko》
2019-01-12 19:24:17
ID:89AUxsM.(sage)


つれづれなるまゝに、日くらし、硯(スズリ)にむかひて、心に移りゆくよしなし事(ゴト)を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

*第一段

いでや、この世に生れては、願はしかるべき事こそ多(オホ)かンめれ。

御門(ミカド)の御位(オホンクラヰ)は、いともかしこし。竹の園生(ソノフ)の、末葉(スヱバ)まで人間の種(タネ)ならぬぞ、やんごとなき。一の人の御有様はさらなり、たゞ人(ビト)も、舎人(トネリ)など賜はるきはは、ゆゝしと見ゆ。その子・うまごまでは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下(シモ)つかたは、ほどにつけつゝ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし。

法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるゝよ」と清少納言(セイセウナゴン)が書けるも、げにさることぞかし。勢(イキホヒ)まうに、のゝしりたるにつけて、いみじとは見えず、増賀聖(ソウガヒジリ)の言ひけんやうに、名聞(ミャウモン)ぐるしく、仏の御教(ミオシヘ)にたがふらんとぞ覚ゆる。ひたふるの世捨人(ヨステビト)は、なかなかあらまほしきかたもありなん。

人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ、物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向(ムカ)はまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣りせらるゝ本性見えんこそ、口をしかるべけれ。しな・かたちこそ生れつきたらめ、心は、などか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才(ザエ)なく成りぬれば、品(シナ)下り、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるゝこそ、本意なきわざなれ。

ありたき事は、まことしき文(フミ)の道、作文(サクモン)・和歌(ワカ)・管絃(クワンゲン)の道。また、有職(イウショク)に公事(クジ)の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙(ツタナ)からず走り書き、声をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸(ゲコ)ならぬこそ、男(ヲノコ)はよけれ。

*第二段

いにしへのひじりの御代(ミヨ)の政(マツリゴト)をも忘れ、民の愁(ウレヘ)、国のそこなはるゝをも知らず、万(ヨロヅ)にきよらを尽していみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。

「衣冠(イクワン)より馬・車にいたるまで、あるにしたがひて用ゐよ。美麗を求むる事なかれ」とぞ、九条(クデウ)殿の遺誡(ユイカイ)にも侍(ハンベ)る。順徳院の、禁中(キンチュウ)の事ども書かせ給へるにも、「おほやけの奉(タテマツ)り物は、おろそかなるをもッてよしとす」とこそ侍れ。

*第三段

万(ヨロヅ)にいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉の巵(サカヅキ)の当(ソコ)なき心地ぞすべき。

露霜(ツユシモ)にしほたれて、所定めずまどひ歩(アリ)き、親の諫(イサ)め、世の謗(ソシ)りをつゝむに心の暇(イトマ)なく、あふさきるさに思ひ乱れ、さるは、独り寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。

さりとて、ひたすらたはれたる方にはあらで、女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。

121、《短小tinko》
2019-01-12 19:32:29
ID:qwmJsiRo(sage)

晦日(つごもり)、郭公(ほととぎす)、頭(かしら)、実(げ)に、衣(きぬ)、答(いら)へ、児(ちご)、装束(さうぞく)、
返事(かへりごと)、除目(ぢもく)、数多(あまた)、乳母(めのと)、方(かた)、辺(わた)り、蓬(よもぎ)、門(かど)、単衣(ひとへ)

122、《短小tinko》
2019-01-12 19:33:26
ID:89AUxsM.(sage)

春は曙、空はいたく霞みたるに、やうやう白くなりゆく山際の少しづつ明かみて、紫だちたる雲のほそく棚引きたる、などいとをかし。

 夏は夜、月の頃はさらなり。闇もなほ蛍多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、いとをかし。雨のどやかに降りたるさへこそをかしけれ。

 秋は夕暮、夕日のきはやかにさして、山の葉近う見えわたるに、烏の寝に行くとて、三つ四つ二つなど飛び行くもあはれなり。まして雁の多く飛び連ねたる、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて後、風の音、虫の声、はた言ふべきにもあらずめでたし。

 冬はつとめて。雪のふりたる、さらにもいはず。霜のいと白きも、又さらねどいと寒きに、火など急ぎおこして、炭もて歩りきなどするを見るも、いとつきづきし。昼になりぬれば、やうやうぬるびもてゆきて、雪も消え、炭櫃(すびつ)火桶の火も白き灰がちになりぬれば悪ろし。

2        2
 頃は、正月、三四月、五月、七八月、九十月、十一月、全てみな折りにつけつつ、いとをかし。

3
 せちは五月五日、七月七日、九月九日もをかし。

4        226
 降るものは、時雨、霰(あられ)、雪。さてはまた五月の四日の夕つ方より降る雨の、五日のつとめて、いと青やかなる軒(のき)の菖蒲(あやめ)のすそより落つるしづく。蓬の香り合ひていとをかし。

5         185
 風は、嵐、木枯らし、二三月ばかりの夕つ方(がた)、ゆるく吹きたる雨風(あまかぜ)、また八月ばかりの雨にまじりて、冷ややかに吹きたる風をかし。

6
 霧は、川霧。

7        44
 木の花は、梅。まして、紅梅は薄きも濃きもいとをかし。桜は、花びら大きに、葉の色いと濃きが、枝細くてかれはなに咲きたる。藤のしなび長く色濃く咲きたる、いとをかしうめでたし。

 四月晦日、五月一日(ついたち)頃の橘の葉はいと濃く青きに、花はいと白く咲きて、雨うち降りたるつとめては、なべてならぬ様にをかし。花の中より実の黄金(こがね)の玉と見えて、いみじう際やかに見えたるなどは、春の朝ぼらけの桜にも劣らずとおぼゆる。郭公のよすがとさへ思へば、なほさらに言ふべきにもあらず。

123、《短小tinko》
2019-01-12 19:35:42
ID:89AUxsM.(sage)

梨の花は、世にすさまじくあやしきものにて、はかなき文うち付けなどもせず。愛敬(あいぎやう)おくれたる顔など、うち見ては、たとひに人の言ふも、げに色よりはじめて、あはひなくすさまじければ、ことわりと思ひしを、唐土(もろこし)にめでたきものにして、文(ふみ)にも多く作りたるを、さりともあるやうあらむと思ひて、せめて見れば、花びらの先に、をかしき匂ひこそ、心もとなう付きためれ。楊貴妃の帝(みかど)の御使ひに会ひて泣きける程の匂ひに譬へて、「梨花一枝春帯雨」と言ひたるは、おぼろげならじと覚ゆるに、よろづの花よりはめでたし。

 桐の花は、紫に咲きたるはをかしきを、葉のひろごりたる様ぞ、うたてくこちたき。されど異木(ことき)どもに等しう言ふべきにはあらず。唐土にてことごとしき名付きたらむ鳥の、これにしも住むらむ心ことなり。まして琴に作りて、さまざまなる音どものいでくるは、をかしとも世の常にも言ふべきにやある。

 また、木の様ぞ憎けれども、楝(あふち)の花、いとをかし。異木の花には似ず、いと稀に咲きて、必ず五月五日にあふ心、いとをかし。

8        47
 花の木ならぬは、五葉(ごえふ)、かつら、柳。柧梭(そば)の木、しななき心地したれど、花の木どもも散りはてて、おしなべて緑になりたる中に、時も分かず、濃き紅葉(もみぢ)の艶(つや)めきて、思ひかけず青き葉の中よりさし出でたる、めづらし。まゆみ。

 さか木、臨時の祭の御神楽(みかぐら)の折りなど、いとをかし。木しもこそあれ、神の御前のものと生(お)ひ始めけむも、とりわきてかしこし。

 楠木は、木立多かる所にも、ことに交らひて立たず、おどろおどろしき思ひやりなどうとましけれど、千枝に分かれて、恋する人の例(ためし)に言はれたるぞ、誰かは数を知りて言ひはじめけむと思ふにをかし。

 檜の木、またけぢかからねど、「三葉(みつば)四葉(よつば)の殿作り」にも、これこそはつまと思ふにいとをかし。五月に雨の声をまねぶらむもあはれなり。

 楓(かへで)の木、若やかに萌え出でたる葉末(はずゑ)の同じ方様(かたさま)へさし広ごりたる、花もいとはかなげに、虫などの枯れつきたるに似て、をかし。

124、《短小tinko》
2019-01-12 19:37:26
ID:89AUxsM.(sage)

あすはひ(=明日檜)の木、この世に近くも見ず聞こえず。御嶽(みたけ)に参りて帰りたる人などぞ持て来める、枝ざしなど、袖ふれ憎げにあらましけれど、なにの心にて、あすはひの木と付けけむ。あぢきなき予言(かねごと)なりや。誰か頼めたるにかと思ふに、聞かもほしうをかし。

 ねずもちの木、人々しう、人並々なるさまにはあらねど、葉のいみじう細かに小さきがをかしきなり。楝(あふしち)の木。山梨の木。

 椎の木。常磐木(ときはぎ=常緑樹)は、いづれもあるを、それしも、葉(<は>[た])がへせぬ例(ためし)に言はれたる、をかし。

 白樫(しらかし)といふもの、深山木(みやまぎ)の中にもいとけどほくて、二位三位の袍(うへのきぬ)染むる折りこそ、葉をだに人の見るめれ。をかしき事にとり出づべくもあらねど、雪の置きたるに見まがへられて、素戔嗚尊(すさのをのみこと)の出雲の国へおはしける御供にて、人丸が詠みたる歌など思ふに、いみじうあはれなり。言ふ事につけても、一節(ひとふし)あはれともをかしとも聞きおきつる物は、草も木も鳥・虫も、おろかにこそ覚えね。

 楪(ゆづるは)のいみじう艶めき房やぎたる葉はいと青く清げなるに、思ひかけず似るべくもあらぬ茎の赤うきらぎらしう見えたるこそ、あやしけれどをかしけれ。なべての月頃は、つゆ見えぬものの、師走の晦日にのみ時めき、亡人(なきひと)の食ひ物に敷くを見るがあはれなるに、またたとしへなく祝ひの折り、歯固(はがため=新年の行事)の具にも敷きて使ひためるは、いかなるにか。「紅葉(もみぢ)せん世や」と言ひたるもたのもし。

 柏木、いとをかし。葉のまだ小さき折りより、葉守(はもり)の神のおはしますらむもかしこし。兵衛督佐尉(ひやうゑのかみすけぞう)などをもさ(=柏木と)言ふ、いとをかし。

 姿なけれど、棕櫚(すろ)の木、唐(から)めきて、わろき家の具とは見えず。何となけれど、やどり木といふ名は、かなだちていとをかし。

9        70
 草の花は、なでしこ。唐(から)のは更なり、大和(やまと)のもいとをかし。女郎花(をみなへし)。桔梗(ききやう)。朝顔。刈萱(かるかや)。菊。壷(つぼ)すみれ。

 竜胆(り<ゆ>うたん)は、枝ざしなどぞむづかしげなれど、他花(ことばな)のみな霜枯れたる中より、いと花やかなる色合ひにて、さし出でたる、いとをかし。

 また、わざと取り立てて、人めかすべきにはあらぬ様なれど、かまつかの花、らうたげなり。名ぞうたてある。雁(かり)の来る花とぞ文字には書きたる。がむひの花。色は濃からねど、藤の花にいとよく似て、春秋と二たび咲く、いとをかし。

 夕顔の花は様も朝顔に似て、言ひ続けたるもをかしかりぬべきを、葉の姿ぞ憎きや。実の様こそいと口惜しけれ。などかさはた生ひ出でけむ。ぬかづき(=ほほづき)などいふ物のやうにだにあれかし。されどなほ夕顔といふ名の付きそめけむいとをかし。しもつげの花。葦の花。

 「これに薄(すすき)を入れぬ、いとあやし」と人いふなり。秋の野のおしなべたるが、をかしさには、薄こそあれ。末(すゑ)のいと濃く蘇枋(すはう)にて朝霧に濡れて、うち靡(なび)きたるは、さばかり(=これほど)の物やはある。されど秋の終(はて)ぞいと見所なき。色々に乱れ咲きたりし花の、かたもなう見所なう散りにたる後(のち)、冬の末まで、頭の白く、おほどれたるも知らず。昔思ひ出で顔に、風になみよりひびろぎ立てるめる人にこそ似たれ。よそふる心ありて、あやまりてそれをしもぞあはれと思ふべけれど、いさや。

10        67
 花なき草は、菖蒲(さうぶ)。菰(こも)。葵(あふひ)、いとをかし。祭の折りに、神代よりして、さる挿頭(かざし)となりけむよりはじめ、物の様もをかしきなり。

 おもだかは、心あがりしたらむと思ふ名のいとをかしきなり。三稜草(みくり)。蛇床子(ひるむしろ)。苔。こたに。日かげ。雪間の若草。かたばみは、綾の紋にてあるも、をかし。

125、《短小tinko》
2019-01-12 19:37:53
ID:89AUxsM.(sage)

あやふ草、岸の額(ひたび)に根を離れて、実にたのもしげなうあはれなり。いつまで草は、壁に生ふらむまたいとはかなうあはれなり。岸の額よりも、いま少しくずれやすからむかし。真(ま)と(=まこと)の石灰ぬりたらむには、え生ひずやあらむと思ふこそいとわろけれ。ことなし草は、思ふ事をなすにやあらむと思ふこそいとをかしけれ。

 しのぶ草、いとあはれなり。道芝、茅花(つばな)、蓬なども、いとをかし。山菅(やますげ)。山藍(あまあゐ)。浜木綿(はまゆふ)。葛(くず)。笹。青つづら。なづな。苗(なへ)。浅茅(あさぢ)、いとをかし。

 蓮(はちす)は、よろづの草よりも世にすぐれてめでたし。妙法蓮華経のたとひにも、花は仏に奉り、実は数珠(ずず)につらぬき、念仏して往生極楽の縁とすればよ。また、花なき頃、みどりなる池の水に、紅(くれなゐ)に咲きたるもいとをかし。されば翠翁紅(すいをうこう)と文字に作りたるこそ。

 唐葵(からあふひ)、日の影に従ひて傾(かたぶ)くこそ、草木といふべうもあらぬ心なれ。さしも草。八重葎(やへむぐら)。

 つき草は、うつろひやすなるぞうたてある。

11        48
 鳥は ほかの鳥なれど、鸚鵡(あふむ)いとをかし。人の言ふらむ事をまねぶらむよ。郭公いとめでたし。くゐな。しぎ。都鳥。ひは。ひたきどり。

 山鳥(やまどり)は、友恋ひて鳴くに、かげを見て慰むらむこそ、心若うあはれなれ。谷を隔てたらむ程も心苦し。鶴は、見目(みめ)もなつかしらず。おほのかに、うちなき様なれど、沢にて鳴く声の雲井に聞こゆなる程思ひやるにいとけだかし。頭(かしら)赤き雀。斑鳩(いかるが)の雄鳥(をとり)。たくみ鳥。川千鳥(かはちどり)の友まどはすらむいとあはれなり。

 鷺(さぎ)は、見目も見苦しう、眼(まなこ)ゐなども恐ろしげに、よろづ取り所なけれれど、「ゆるぎの森に一人は寝じ」と争ふらむ心ぞ捨て難き。

 雁の声は近劣りすれど、秋待ちえて霧の絶え間にほのかに聞きつけたる、いとをかし。また、冬のいと寒き夜など雲井に鳴きたるも、羽(はね)の霜払ふらむほど思ひやられていとをかし。

 鶯は、さまかたちよりはじめ美しう。初めて谷より出でたる声などは、かばかりあてにめでたき程よりは、夏秋の末までありて、白声(しらこゑ、←前田本「同じ声」→三巻能因本「おい声」)に鳴くと内裏(だいり)のうちに住まぬとぞ、いと悪ろき。人の「さなむある」と言ひしを、さしもあらじと思ひしに、十年ばかり候(さぶら)ひて聞きしに、まことにさらに音せざりき。さるは竹も近う紅梅もいとよく通ひぬべき枝のたよりなめりかし。まかでて聞けば、あやしき家の見所なき梅の木などには、いと花やかにぞ鳴き出でたるや。また、夜鳴かぬもいといぎたなき心地す。

126、《短小tinko》
2019-01-12 19:38:22
ID:89AUxsM.(sage)

郭公は、あさましう待たれ待たれて、いみじう夜深ううち出でたる心ばへこそ限りなう目出度(めでた)けれ。六月などには、やがて音せずかし。それも雀などのやうにてのみあらば、鶯もさしも悪ろくもおぼえじかし。春の鳥とて、年たち返る朝(あした)より、まづ待たるるものなれば、少し思はずなる所のあるも、かく口惜しうもおぼゆるなり。人をも人げなく、世のおぼえあなづらはしうなりそめにたるをば、謗(そし)りやはする。

 鳥の中にも、鳶、烏などのことをば、見聞き入るる人なし。これはなほ文などに、いみじうつくられたる物なれば、程よりはと思ふに、なほ心ゆかぬ心地するなり。

 をかしなどの方にはあらねど、にはとりの子の小さき程こそあはれなれ。

12        50
 虫は、松虫。鈴虫。きりぎりす。はたおり。蝶(てふ)。われから。ひぐらし。蛍。ひを虫。

 蓑虫、いとあはれなり。鬼の生みければ、親に似て、これもや恐ろしき心あらむとて、男親(をおや)の、あやしき衣をひき着せて、「いま秋風吹かむ折りぞ来むとするまでよ」と言ひおきて、往(い)にけるをさも知らず、風の音(おと)を聞き知りて、八月(はづき)ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」とはかなげに鳴く、いとあはれなり。

 額(ぬか)づき虫、またあはれなり。さる心地に道心を起こして、つき歩りくらむよ。思ひもかけず暗き所などに、ほとほとと、し歩りきたるこそをかしけれ。

 夏虫、いとらうたげなり。火近う取り寄せて物語(ものがたり)など見るに、草子(さうし)の上に飛び歩りくさま、いとはかなびてをかし。

 蟻は、憎けれど、身の軽ろくて水の上などに、ただ歩りくこそをかしけれ。

13        11
 山は、小倉山。三笠山。このくれ山。いりたち山。わすれ山。かたさり山こそ、誰に所置(ところお)きけるにかとをかしけれ。五幡山(いつはたやま)。かへる山。後瀬山(のちせやま)。まゆみ山。笠取山(かさとりやま)。ひらの山。鳥籠(とこ)の山は、「わが名もらすな」と帝(みかど)の詠ませ給ひたるがをかしきなり。伊吹の山。朝倉山は、よそに見るらむいとをかし。大比礼山(おほひれやま)、をひれ山も、臨時の祭思ひ出でられてをかし。三輪の山。待兼山(まちかねやま)。玉坂山(たまさかやま)。耳無山(みみなしやま)。嵐の山。葛城山。位山(くらゐやま)。更級山(さらしなやま)。小塩山(をしほやま)。吉備の中山(きびのなかやま)。

14        12
 峰は、ゆづるはの峰。阿弥陀(あみだ)の峰。弥高(いやたか)の峰。

15        196
 野は、嵯峨野さらなり。印南野(いなびの)。交野(かたの)。こま野。飛火野(とぶひの)。しめし野。宮城野。粟津野(あはずの)。紫野(むらさきの)。そうけい野こそすずろにをかしけれ。などさはつけけるにかあらむ。

16        13
 原は、奈志原(なしはら)。甕の原(みかのはら)。あたの原。その原。うな<ゐ>[ひ]こが原。篠原(しのはら)。萩原(はぎはら)。こひ原。

127、《短小tinko》
2019-01-12 19:39:11
ID:89AUxsM.(sage)

岡は、船岡。しのびの岡。

18        115
 森は、うへの木の森。石田(いはた)の森。仮寝(うたたね)の森。いはせの森。大荒木(おほあらき)の森。たれその森。立聞(たちきき)の森。浮田(うきた)の森。こひの森。信太(しのだ)の森。木幡(こばた)の森。

19        66
 里は、ながめの里。ねざめの里。ひと<つ>まの里。たのめの里。夕日の里。十市(とほち)の里。長井の里。つまどりの里は、人にとられたるにやと、いとをかし。伏見の里。生田の里。

20        223
 駅(むまや)は、梨原(なしはら)の駅。野口(のぐち)の駅。

21        114
 関は、逢坂(あふさか)の関。須磨の関。くきたの関。白川の関。はばかりの関、衣(ころも)の関。勿来(なこそ)の関。清見が関。横はしりの関。みるめの関。ただこえの関、はばかりの<関>[何]は、たと<し>へなきがをかしきなり。また、よしなよしなの関こそは、いかに思ひ返してけるぞと、いと知らまほし。これを「な来(こ)そ」とは言ふにやあらむ。逢坂などをかく思ひ返されたらむこそ、佗(わび)しかるべけれ。

22        17
 陵(みささぎ)は、しよろう(=「諸陵」とすれば注釈の言葉が本文に入つたか)。うぐひすの陵(みささぎ)。柏原(かしはら)の陵。あめの陵。

23        18
 渡(わたり)は、たまづくりの渡。しかすがの渡。みつはしの渡。こりずまの渡。

24        65
 橋は、あさむづの橋。長柄(ながら)の橋。あまひこの橋。浜名の橋。小川の橋。かけばし。うたたねの橋。轟(とどろき)の橋。佐野の船橋。<小>[水]野の浮橋。鵲(かささぎ)の橋。山菅(やますげ)の橋。ゆきあひの橋。人は見ぬものなれど名を聞くにをかしきなり。一筋渡したる棚橋。心狭(せば)けれどをかし。

25        16
 海は、水うみ。与謝の海。川口の海。伊勢の海。<よ>[か]この海(=余呉の海)。

26        188
 島は、浮島。八十島(やそしま)。たはれ島。豊浦(とよら)の島。籬(まがき)の島。松が浦島。なと島。

27        189
 浜は、<そ>[う]と浜。吹上(ふきあげ)の浜。長浜。ちひろの浜、いかに広からむと思ひやらるるにをかし。打出(うちいで)の浜。

28        190
 浦は、塩竈(しほがま)の浦。名高(なたか)の浦。こりずまの浦。しのだの浦。

29        222
 川は、大井河。おとなし川。水無瀬川。飛鳥川、瀬も定めざなるこそ、をかしけれ。耳敏川(みみとがは)は、何事をさしもさくじり聞きけむと思ふにをかし。いづみ川。細谷川。

30        15
 淵は、かしこ淵、いかなる底の心を見え、さる名をつきたらむと思ふもをかし。ないりその淵、誰にいかなる人の教へけるならむ。青色の淵こそ又いとをかしけれ。蔵人などの具にしつべきよ。いな淵。かくれの淵。玉淵。のぞきの淵。

31        64
 滝は、音無の滝。布留(ふる)の滝は、法皇の御覧じにおはしましけむがめでたきなり。那智の滝は熊野にありと聞くがあはれなるなり。轟(とどろき)の滝、いかにかしがましかるらむ。

32        117
 出で湯は、ななくりの湯。有馬の湯。那須の湯。つかまの湯。ともの湯。

33        45
 池は、贄野(にへの)の池は、初瀬に詣でしに、水鳥の隙(ひま)なうゐてたち騒ぎしが、をかしく見えしなり。

 水なしの池こそ、あやしう、などかう付けたらむと問ひしかば、「五月など、全て雨いたう降らむとする折りは、この池に水といふ物なむなくなる。いみじう日照るべき年は、春のはじめに水などいと多く出づる」と言ひしを、「無下になく乾きてのみあらばこそ、さは言はめ、出づる折りもあなるを、一すぢにも付けけるかな」とぞ答(いら)へまほしかりし。

 猿沢の池は、采女(うねべ)の身投げたるを聞こしめして、行幸(みゆき)のありけむこそ、いとめでたけれ。「ねくたれ髪を」と人麻呂が詠みけむなど思ふに、言ふもおろかなり。

 御前の池も、何の心にて付けけるならむとゆかし。狭山(さやま)の池は、三稜草(みくり)といふ歌の、げにをかしう覚ゆるにやあらむ。こひぬまの池。原の池は、「玉藻な刈りそ」と詠みけむいとをかし。ますだの池。姿の池。

128、《短小tinko》
2019-01-12 19:43:42
ID:qwmJsiRo(sage)

 春は曙(あけぼの)、やうやう白くなりゆく、山際(やまぎは)すこし明かりて、紫だちたる雲の細く棚引きたる。

 夏は夜(よる)、月の頃はさらなり、闇もなほ蛍飛びちがひたる、雨などの降るさへをかし。

 秋は夕ぐれ、夕日はなやかにさして、山際いと近くなりたるに、烏(からす)の寝どころへゆくとて、三つ四つ二つなンど飛びゆくさへあはれなり。まいて雁などの連(つら)ねたるが、いとちひさく見ゆる、いとをかし。日入り果てて、風の音(おと)、虫の音(ね)なンど、いとあはれなり。

 冬は雪の降りたるは、言ふべきにもあらず。霜なンどのいと白く、またさらでもいと寒き。火なンど急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもてゆけば、炭櫃(すびつ)・火桶(ひをけ)の火も、白き灰がちになりぬるはわろし。15 


二 頃(ころ)は、正月(しやうぐわつ)、三月、四五月(しごぐわつ)、七月、八九月(はつくぐわつ)、十月、十二月、すべてをりにつけつつ、一年(ひととせ)ながらをかし。16 


三 正月(むつき)一日(ついたち)は、まいて空の景色(けしき)うらうらと珍(めづら)しく、霞(かすみ)こめたるに、世にあるとある人は、姿容(すがたかたち)心ことにつくろひ、君をも我身をも祝ひなンどしたるさま、殊(こと)にをかし。

 七日(なぬか)は、雪間(ゆきま)の若菜(わかな)青(あを)やかに摘(つ)み出(い)でつつ、例(れい)は、さしも、さる物目近(めぢか)からぬ所(=高貴な所)に、持てさわぎ、白馬(あをむま)見んとて、里人は車清(きよ)げにしたてて見にゆく。中の御門(みかど=待賢門)の戸閾(とじきみ=敷居)引き入るる程(ほど)、頭(かしら)ども一所(ひとところ)にまろびあひて、指櫛(さしぐし)も落ち、用意(ようい)せねば折れなンどして、笑ふもまたをかし。左衛門(さゑもん)の陣(ぢん)などに、殿上人あまた立ちなンどして、舎人(とねり)の馬どもをとりて(イ弓ども取りて馬ども)驚(おどろ)かして笑ふを、僅(はつか)に(=私たちが)見入れたれば、立蔀(たてじとみ)などの見ゆるに、主殿司(とのもりづかさ)、女官(によくわん)などの、行(ゆ)きちがひたるこそをかしけれ。いかばかりなる人、九重(ここのへ)をかく立ち馴らすらんなど思ひやらるる。内(うち)にも見るはいと狭(せば)きほどにて、舎人(とねり)が顔(かほ)の衣(きぬ=肌)もあらはれ、白き物(=おしろい)の行きつかぬ所は、真(まこと)に黒き庭に雪のむら消(ぎ)えたる心地して、いと見ぐるし。馬のあがり騒ぎたるも恐ろしく覚ゆれば、引き入られてよくも見やられず

129、《短小tinko》
2019-01-12 19:45:19
ID:qwmJsiRo(sage)

第10歌 願い事はほどほどに




 西はジブラルタルから東はガンジスまで広がるこの世界で、自分の心の迷いを吹き払って、本当の幸福とその正反対のことの違いを見分けることのできる人はまずいない。人が理性に従うかぎり、いったい何かそんなに恐いものが、また何かそんなに欲しいものがあるだろうか。がんばって願い事を叶えたところで、後になって後悔しないような、そんな確実な幸福をもたらす願い事がどこにある。願い事が叶ったおかげで、家族がすっかり崩壊してしまったという不幸な人は多い。平和なときも戦争のときも、人はいつも結局は自分を不幸にすることばかりを願っている。すらすらと流れるように話す弁論の技術は、しばしば本人にとって致命的になる。自分の腕力の強さを過信したために、命を落とした力自慢のレスラーの例もある。しかしながら、それよりも、人並み外れた努力によってせっせと貯め込んだ金の重みに押しつぶされたり、ブリタニアのクジラがイルカより大きいほどに、他人のどんな財産よりも大きな財産を貯め込んだおかげで、身を滅ぼした例ははるかに多い。金持ちのロンギノスの家も、セネカの広大な庭園も、ラテラヌスの立派な館も、あの恐ろしい時代にネロの命令で軍隊に占領された。兵隊がちっぽけな屋根裏部屋にやってくることはないものだ。たとえ小さく飾り気のないものでも、銀製品を携えた夜中の旅は、刃物と棍棒に対する恐怖に満ちたものになる。月影に映る葦の影の動きにさえ、ふるえ上がることだろう。手ぶらの旅人なら盗賊に出会っても鼻歌交じりでいられるはずだ。
 どこの神社でもお祈りといえばまずはお金だ。

 「お金が貯まりますように」

 「広場の誰よりも大きな金庫が持てるようになりますように」

 ところが、貧しい陶器にトリカブトの毒が盛られることはないけれども、金の杯に高級なワインが赤く燃え立つときや、宝石をちりばめた杯(さかずき)を手渡されたときには毒に対する用心が必要になる。

 ここまで聞けば、かの二人の哲学者が一歩自宅を後にして世間に目をやった途端に、一人(デモクリトス)は可笑しくてたまらず、もう一人(ヘラクレイトス)は反対に悲しくてたまらなかったわけが、もうお分かりだろう。もっとも、容赦なく世間を笑いの対象にして批判することは別段珍しいことではないが、ヘラクレイトスの目にどうして涙が貯まったのか不思議ではある。

 そのころの町には、真紅の縁取りをした神官服も、騎士の着る縞柄のローブも、執政官の権威を表わすファスケス(斧に縛り付けた棒の束)も、元老の奥様専用の豪華な駕籠(かご)も、法務官用の立派な判事席もなかったにもかかわらず、デモクリトスは腹の皮をよじらせて笑い続けた。いま法務官がローマの競技場の真ん中の土ぼこりの中で背の高い車の上に意気揚々として立っているところを見たら、デモクリトスはなんと言うだろう。その法務官の着ている上着はシュロの葉の縁取りがついたジュピターのチュニックで、肩からはトュロスの紫地に金の縁取りがつくカーテンのような式服(トガ)が下がり、頭には首がおれるほどの馬鹿でかい王冠が乗っかっているのだ。おまけに、この未来の執政官の慢心をいさめる役で同乗している奴隷が、その王冠を後ろから大汗かきながら支えているのである。それだけではない。この法務官の手には象牙の王笏が握られ、その上には一羽の鷲がとまっているのだ。また、車の前にはラッパ吹きの一団と、この法務官の庇護下にある者たちの長い行列が進み、さらには白い服を着たローマ市民の一団が馬の手綱を取っているという具合だ。しかも、この市民たちの財布は、この法務官の取り巻きになることでせしめた小遣いで膨らんでいる。

 デモクリトスは、自分の生きていた時代でさえ人間の集まる所どこであろうと、笑いの種を見つけ出した。人に立派な手本を示せるような第一級の人間が愚者の国アブデラの濁った空気の中にも生まれることを、この哲学者の知性は証明している。人々の悩みだけでなく、喜びも、ときには悲しみさえも彼は笑いの対象にした。運命の女神が悪い兆しを見せるときでも、女神に対して中指を立てて「くたばっちまえ」と言う男なのだ。

 願い事がこんなにも余計なものか危険なものなら、我々はいったいどんな願いを板に書いて神々の座像の膝に並べるべきなのだろう。

 権力者は往々にしてひどい妬みを買うために、転落の憂き目を見るものだ。要職を歴任した輝かしい経歴が、かえって命取りになる。

130、《短小tinko》
2019-01-12 19:47:56
ID:qwmJsiRo(sage)

鶴見訳で読むとおもしろいプルターク英雄伝

 プルターク英雄伝の面白さを知ることは現代の日本ではかなり難しくなっている。 

 英雄伝の日本語訳で現在入手できるものは、ちくま学芸文庫の三巻ものだけであるが、残念ながらこれに含まれるもので、一般の読者が読んで意味の分るものは少ない。

 上巻では、テミストクレスとアリスティデスとアルキビアデスの伝記の訳が読めるが他は読めない。中巻は全滅状態で途中で投げ出さざるを得ないものが大半だ。下巻はクラッスス、ポンペイウス、カエサルの伝記の訳が読めるがそれ以外はどうしようもない。

 ところがここに素晴らしい訳がある。それは鶴見祐輔氏(1885~1973)の訳(潮出版社の潮文庫)である。谷沢英一氏は「新プルターク英雄伝」(祥伝社)でプルターク (Plutarch 50頃-125頃) の面白さを紹介されているが、鶴見訳で読む英雄伝は実際あんなものじゃない。もうべらぼうに面白いのだ。

 ところが、この訳には欠点があって、英訳からの和訳のせいで固有名詞が英語風なのである。鶴見氏はテーバイと言うべきところをシーブスと言うの だ。また、人名にしても、ニキアスをニシアスというぐらいはまだいい。ところが、テセウスをシシアスと言ったり、リュクルゴスをライカガースと言うにい たっては、誰のことやらさっぱり分らないのである。

 さらにもう一つの難点は、誤植がやたらとあることだ。原稿から活字に起こした段階で起きたと思われる誤植がしばしばあって、どうも政治家としても 多忙だった鶴見氏はそれを校正しなかったらしい。だから、写植工の見間違いから生じたと思われる誤字がまま見受けられるのである。例えば、「絶無」という べきところを「絶望」としたり、「地」を「他」としたり、「敵意」を「敬意」としたり、てにをはを間違えたりと、訳者本人なら間違うはずのないところを間 違っている。そのほかに訳者自身のものと思われる当て字も結構ある。

 最近(2000年12月)潮出版社からこの鶴見訳の『プルターク英雄伝』の中から有名な人物だけを選んで集めたものが出版された。そこでは、多く の漢字に読みがながつけられ、また明らかな誤植は改められている。しかし、残念ながら、それでもまだ、あきらかな誤植がたくさん残っている模様である。 (例えば、『アレキサンダー』の197頁で「儲君〔世継ぎのこと〕」とあるべきところが「諸君」のままになっているし、253頁では「それほど」とあるべ きところが「そかほど」となっている)

 しかしそれらの障害を乗り越えさえすれば、この訳書の中に、まさにプルタークがギリシャ語で書き表そうとした世界が再現されているのを見ることが出来る。わたしはこの障害を乗り越えるために、岩波文庫の『プルターク英雄伝(全十二冊)』を補助として利用した。

 この岩波版英雄伝は歴とした原点からの訳であって、固有名詞は全てギリシャ語読みになっている。しかも、それらには詳しい説明がついている。その意味で非常に重宝する本だ。

 ところがこの訳は、山本夏彦が『私の岩波物語』に書いているとおり、信じられないほど退屈なもので、英雄伝とは名ばかりの読んでいてすぐ眠気がさす本である。だから、まったく読書には向いていないので、資料としてならともかく、読書用には購入をすすめられない。
 この訳は、プルタークの書いたギリシャ語から訳しているのだが、残念ながらプルタークの言わんとすることよりも、原文にどんな単語が使われている かを伝えるのに熱心なのだ。その結果、原文の息吹が伝わってこない。(そもそも第一回目の訳を読み直さずにそのまま活字に組んでしまったのではないかと思 われるほど、日本語としての文章が整理されていない。)

 実際、ギリシャ語の原典と比べてみたが岩波版は実に原典(あるいはLoeb叢書の英訳)に忠実なガチガチの直訳である。しかし、文章に込められた 真の意味、その言葉でプルタークが表現しようとした悲しみや歓びが再現されていないのだ。(英訳に忠実な例、ευχερεια→英訳 familiarity→岩波訳「きさくな態度」。本当は「図々しさ」で、英訳の誤訳であると思われる。Loeb No.101 p26-27)

 ところが、鶴見訳にはそれが再現されている。要するに感動させてくれる訳なのだ。読みながら自分の目に涙が浮かんでくるのだ。鶴見氏の英語力とそ れを表現する日本語力には人並外れたものがあったにちがいない。岩波版の訳者のギリシャ語力も日本語力も、それには遠くおよばないと言わなければならない のである。

 そこで、わたしは鶴見訳を読んでいて、分らない固有名詞が出て来るたびに、岩波版を参照することにした。そういう利用の仕方をしたのである。

 いまここで、「ニキアス」の伝記から同じ個所の訳を読み比べてみよう。

 アテナイの将軍ニキアスははるかシシリー島の征服などというばかげた思いつきにとらわれたアテナイ民衆の決議にしたがって、かの地への遠征を命ぜ られたが、シシリーに来て戦いを始めたものの、この戦争の主唱者たるもう一人の将軍アルキビアデスは勝手にいなくなってしまい、アテナイからデモステネス が連れてくるという援軍も来ずに、一人で苦戦に苦戦を重ね、落胆ここに極まれりというところまで追い込まれしまう。その次に、鶴見訳はこう続く。

 「しかしながらあたかもこのときデモスシニーズはその堂々たる艦隊をひきいて港外に姿を現し、敵の心胆を奪った。彼は七十三艘の艦船に五千の完甲 兵と三千を下らざる投箭隊、弓兵および投石隊を乗せ、彼らの甲冑の耀き、各船よりなびく旗指物、漕手の拍子を取る無数の舵手と笛吹きとは、敵をして気落ち 神沮(しんはば)ましむるにたる、あらんかぎりの武威と陣容とに映発せしめた」(第五巻43頁)

 ここにはまさにドラマチックな運命の展開が描き出されている。ところが、岩波版ではこうなる。

 「こうしている時に(前四一三年夏)デーモーステネースが沖合に現はれ、装備も華々しく敵に恐怖を起させるものであったが、七十三隻の船に重装兵 を五千、投槍兵弓兵石投兵を略ぼ三千載せ、武器の威容と軍艦の旗印と艪の音頭取り及び笛吹き多数とを以て敵を嚇すために芝居がかった趣向をこらしてゐた」 (第七巻135頁)

 もう書き出しだけでも違うではないか。事実の記載としては両者は同じことを伝えている。しかし、読み手の受ける印象はまるで違う。そして、まさに プルタークが描き出そうとしたものが前者であることに何の疑いをいだきえようか。(ただし「芝居がかった趣向」の個所は訳語の選択を誤っているし、ここで こんな演劇に使うようなのんきな言葉を用いてはならないはずだ)。

 ただ、ここに引いた鶴見氏の文章のうちにも、この鶴見訳のもう一つの難点が明らかになっている。つまり漢字がそして日本語が難しいのだ。たとえば 「神沮む」などという言ひ方は今の辞書にはのっていない。これを「しんはばむ」と読み、「意気消沈する」という意味であることがすぐに分かるためには、明 治時代の文章表現にかなり通じているか、小学館の日本国語大辞典を持っている必要がある。

 しかしながら、この文章の力強さは、まさに雄渾という言葉がぴったり当てはまるもので、そこには英雄伝つまり武将の伝記を描くにこれ以上はないと いう勇ましさがある。したがって、多少の不明な点は無視しても充分にその面白さを堪能することが出来るのである。(このほかにも「これまでの『今日のつまみ食い』より」で若干を読むことができる。このページの下の方なので、開いてから「プルターク英雄伝」で検索されるとよい)

 また、昨今の漢字プームを鑑みれば、漢字検定一級の実力を養う絶好の機会をこの訳書は提供しているとも言える。少なくとも、わたしのこの本で多くの漢字の勉強をした。(それをまとめたのがここに別に掲げた「鶴見訳英雄伝を読むための難読漢字集」である)

131、《短小tinko》
2019-01-12 19:50:16
ID:qwmJsiRo(sage)

「投箭(ナグヤ)」とは何? Weblio辞書
https://www.weblio.jp › content
投箭とは?歴史民俗用語。 読み方: ナグヤ(naguya)弓につがえないで投げ放つ矢。
投箭 - Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org › wiki › 投箭
投箭(とうせん)は、航空機から投下され、暴露されている敵の人馬を殺傷する鋼製の桿である。 投下箭とも。英語では、air dropped flechettes( ...

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