平成喧嘩塾の衆人はどこいったん?

120、《短小tinko》
2019-01-12 19:24:17
ID:89AUxsM.(sage)


つれづれなるまゝに、日くらし、硯(スズリ)にむかひて、心に移りゆくよしなし事(ゴト)を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

*第一段

いでや、この世に生れては、願はしかるべき事こそ多(オホ)かンめれ。

御門(ミカド)の御位(オホンクラヰ)は、いともかしこし。竹の園生(ソノフ)の、末葉(スヱバ)まで人間の種(タネ)ならぬぞ、やんごとなき。一の人の御有様はさらなり、たゞ人(ビト)も、舎人(トネリ)など賜はるきはは、ゆゝしと見ゆ。その子・うまごまでは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下(シモ)つかたは、ほどにつけつゝ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし。

法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるゝよ」と清少納言(セイセウナゴン)が書けるも、げにさることぞかし。勢(イキホヒ)まうに、のゝしりたるにつけて、いみじとは見えず、増賀聖(ソウガヒジリ)の言ひけんやうに、名聞(ミャウモン)ぐるしく、仏の御教(ミオシヘ)にたがふらんとぞ覚ゆる。ひたふるの世捨人(ヨステビト)は、なかなかあらまほしきかたもありなん。

人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ、物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向(ムカ)はまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣りせらるゝ本性見えんこそ、口をしかるべけれ。しな・かたちこそ生れつきたらめ、心は、などか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才(ザエ)なく成りぬれば、品(シナ)下り、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるゝこそ、本意なきわざなれ。

ありたき事は、まことしき文(フミ)の道、作文(サクモン)・和歌(ワカ)・管絃(クワンゲン)の道。また、有職(イウショク)に公事(クジ)の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙(ツタナ)からず走り書き、声をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸(ゲコ)ならぬこそ、男(ヲノコ)はよけれ。

*第二段

いにしへのひじりの御代(ミヨ)の政(マツリゴト)をも忘れ、民の愁(ウレヘ)、国のそこなはるゝをも知らず、万(ヨロヅ)にきよらを尽していみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。

「衣冠(イクワン)より馬・車にいたるまで、あるにしたがひて用ゐよ。美麗を求むる事なかれ」とぞ、九条(クデウ)殿の遺誡(ユイカイ)にも侍(ハンベ)る。順徳院の、禁中(キンチュウ)の事ども書かせ給へるにも、「おほやけの奉(タテマツ)り物は、おろそかなるをもッてよしとす」とこそ侍れ。

*第三段

万(ヨロヅ)にいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉の巵(サカヅキ)の当(ソコ)なき心地ぞすべき。

露霜(ツユシモ)にしほたれて、所定めずまどひ歩(アリ)き、親の諫(イサ)め、世の謗(ソシ)りをつゝむに心の暇(イトマ)なく、あふさきるさに思ひ乱れ、さるは、独り寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。

さりとて、ひたすらたはれたる方にはあらで、女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。

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