平成喧嘩塾の衆人はどこいったん?

115、《短小tinko》
2019-01-12 19:11:58
ID:89AUxsM.(sage)

第六章 社会契約

 

1. わたしが思いますに、人が自分の力で自分の身の安全を守ろうとしても、自然の状態のままでいては、対処すべき困難があまりに大きすぎて個々の力ではどうしようもないという状況がいつかは到来するものです。そうなってしまえば、人類は最早人間本来の自由な生活を続けることは不可能であり、その生存形態を変えない限り存亡の危機に直面することになるでしょう。

2. ところで、人々は、新たな力を作り出すことはできなくても、すでに存在する力を結集してそれを働かせることならできます。ですから、自分たちの存在を守るためには、どんな困難にも対処できるように、ばらばらに存在する力を結集して、それらの力をただ一つの意志のもとに機能させて、それらの力を一斉に働かせるのが一番です。

3. このような力を結集するためには、これまでばらばらにいた人間が一致団結する以外にはありません。ところが、各人が自分の自由を犠牲にして力を差し出してしまえば、もはや自分で自分の安全を守ることはできないわけですから、自分の力を他人の力に合体した後は、どうすれば自分の身の安全を確保して、同時に自分に対するしかるべき配慮を欠かさずにいられるでしょうか。この問題をこの章のテーマである社会契約という観点から表現すると次のようになります。「全構成員の結集した力で各構成員の身体と財産を守ってくれるような共同体、しかも各個人は他の人々と団結しながらも誰にも服従せず、以前と同様の自由を享受できる共同体の形態はどうすれば見いだすことができるだろうか」。この根本的な問いに対する答えを提供するのが社会契約なのです。

4. 社会契約の条文の規定は、契約の性質上、高度の厳密さを要求されるものです。後からの変更は一切許されず、またどんな些細なものであれ変更を加えたりすればその条文は無効になってしまいます。おそらく個々の条文が正式に発表されることは決してないでしょうが、条文の内容はどこへ行っても同じであり、どこへ行っても暗黙の承認を受けています。もしこの契約に対する違反行為が発生した場合には、全員が生来の権利を取り戻し、本来の気儘な自由を回復するとともに、それと引き換えに獲得した契約に基づく自由を喪失するのです。

5. 正しい理解を妨げない限りにおいて、この契約の条文は一つだけにしても差し支えないでしょう。その一つの条文とは「構成員が自分の身体と自分の全ての権利を共同体に対して完全に譲渡すること」です。こうすれば、まず第一に、全員が例外なく自分自身を完全に委ねることになりますから、全員の置かれた条件は全く同じになります。全員の置かれた条件を同じにしておけば、誰かが他の構成員に対して厳しい条件を課そうとしても、自分にも同じ条件が課せられるため、何の得にもならなくなるでしょう。

6. 第二に、この譲渡は無条件の譲渡となりますから、人々の団結は可能な限り完璧なものになります。また全構成員はもはやいかなる権利を主張することもできなくなります。なぜなら、もし各個人に何らかの権利が温存されたりしたら、彼らと共同体との争いを裁くもう一段高い権威が存在しない状況では、何かの事で一度個人の判断が通ってしまうと、やがては全てにおいて自分の判断を通そうとする要求が生まれてくるからです。これでは自然状態が温存されているのと同じになってしまいます。そして、こうなってしまえば、共同体はもはや独裁を許してしまうか、さもなくば全く無意味なものになってしまうでしょう。

7. 最後に、全員に対して譲渡するということは、誰に対しても譲渡しないということでもあります。どの構成員も自分の権利を他人に一方的に譲り渡すということはなく、必ず同じ権利をその人から与えられるからです。ですから、どの構成員も自分が差し出すものと同じものを必ず手に入れるのです。こうして自分の財産を守る力を、以前よりも大きくすることになるのです。

8. それゆえ、社会契約から付随的な部分を全て取り除くと後に残るのは次のようなものになるでしょう。「われわれは各々自分の身体と持てる力を全て共同体の中に投入して、全体の意志による最高の指揮のもとに置くことにする。そして、われわれは共に全構成員を全体の不可分な要素として受け入れることにする」。

9. この社会契約が結ばれると、契約の当事者である私的な人格に代わって、一つの人為的な団体、すなわち投票権をもつ人の数と同じ数の構成員からなる共同体が即座に発生するのです。そして、この共同体は、まさにこの契約によって、統一性と共通の自我を持ち、それ自身の生命と意志を持つようになるのです。このように他のあらゆる人格の団結によって形成された人格を、むかしは「都市国家(Cité)」という名前で呼んでいました。現在ではこれを「共和国(République)」とか「市民共同体(corpspolitique)」という名で呼んでいます。また、この人格はその構成員によって受動的な役割で呼ばれる場合には「国家(État)」という名前を持つのに対して、能動的な役割を果たす場面では「主権者(Souverain)」という名前を持ちます。さらに、この人格は同種の他の人格と比較して「強国とか大国(Puissance)」と呼ばれることもあります。この共同体の構成員は、全体としては「国民(Peuple)」という名前で、主権を共有する個人として「市民(citoyens)」という名前で、国家の法の下に支配されるものとして「一般民衆(sujets)」という名前で呼ばれます。しかしながら、これらの用語は混同されがちで、前のものが後のものと間違えられることがよくあります。しかし大切なことは、これらの用語が正確な意味で使われた場合には見分けられるようにしておくことです。

 

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