第二部
エジプトからギリシャに伝わった古い伝説に、人間の休息を嫌う神が学問を発明したのだというのがあります。学問の生みの親であるはずのエジプト人が、学問に関していったい何という意見を持っていたのでしょうか。これが、学問の始まる様子を近くで見ていた彼らの意見なのです。実際、
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彼らは本心から美徳や私たちの信仰を嫌っているわけではありません。彼らが嫌っているのは、一般の人たちのものの考え方なのです。ですから、彼らをもう一度信仰に引き戻すには、彼らを無神論者だけが住む国に入れてやればいいのです。目立ちたいという気持だけで、彼らは何でもやりかねない人たちだからです。(岩波文庫p35)
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わが国の政治家は商売のこととお金のことしか話そうとしません。そのうち、人間の値打ちをアルジェで売ったときの金額で測る国があると言う人が出てくるでしょう。すると、その計算方法では人間の値打ちがゼロになる国があるという人が出てきます。さらには、それでいくと人間の値打ちがゼロ以下になる国があるという人も出てくるでしょう。彼らは人間を家畜扱いしているのです。(岩波文庫p36)
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この考えに対する反論は無意味です。なぜなら、そんな反論をすること自体がわたしの考えの正しさを証明しているからです。そもそも、彼らがこれほどご苦心されていることだけを見ても、その苦心が必要であることは明らかでしょう。治療が必要なのは、病気が存在する証拠なのです。
しかし、この治療法が充分な効き目を現さず、特効薬となっていないのはなぜでしょうか。実際、学者たちのためにこれほど多くの団体が設立されているにもかかわらず、それがかえって学問の目標を見誤らせ、勉強ばかりする人間を作り出してしまっています。この治療法自体、まるで農民はありあまっているが哲学者は不足していると言っているかのように見えるのです。
わたしはここで、哲学より農業の方が大切だと言いたいのではありません。わたしがここで問題にしたいのは、その哲学の中身なのです。有名な哲学書には一体何が書いてあるかご存知ですか。知性の友と言われるこの人たちは、いったい何ということを教えているのでしょうか。
彼らの話しているのを聞くと、まるで広場に並んで大声をあげている香具師(やし)の集団かと見まごうほどなのです。「さあいらっしゃい、いらっしゃい、本当のことを知っているのはわたしだけだよ」と。
ある人は「物質などは存在しない。あるのは人間の観念だけだ」と言い、ある人は、「この世に存在するのは物質だけだ。神など存在しない。宇宙があるだけだ」と言います。
またある人は「善も悪も存在しない。そんなものは妄想だ」と言い、またある人は「人間は元々は互いに喰らいあっても平気な狼のような存在だ」と言うのです。
哲学者とはかくも立派な連中なのです。こんな有り難い教えは、発表などせずに、自分の友達や子供たちだけに教えておいてくれたらよかったのです。そうすれば、彼らはすぐにその報いを受けたでしょうし、わたしたちも彼らの考えの信奉者が身内にいるのではないかと心配することもなかったでしょう。(岩波文庫p48,49)
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スピノザやホッブスの書いたものは有名になりましたが、私たちの無知で粗野な祖先たちならそんな本をけっして認めることはなかったでしょう。しかし、そんな本が、今世紀の退廃した道徳のにおいが漂うはるかに危険な書物と一緒に次の世代に伝わり、それと同時に、わが国の学問と芸術がはたした進歩や、それらがもたらした利益が、後の時代に正確に伝えられるのです。もうそうなってしまえば、後の世代の人たちがこれらの本を読んでも、今日のわれわれが論じている問題について何の違和感も感じることはないでしょう。
しかし、もし彼らがわれわれより馬鹿でないかぎり、彼らは天に両手をさし伸べて、苦々しい思いをしながらこう言うことでしょう。
「神よ、わたしたちの精神をその手に握っている全能の神よ、わたしたちの先祖が伝えた文化と忌まわしい芸術からわたしたちを解放して下さい。そしてわたしたちを元の無垢で無知で貧しかった昔に戻して下さい。そうなるしか、わたしたちは幸福になることが出来ないのですから。無垢で無知で貧しいことだけが、神の目にとって貴いのですから」(岩波文庫p49,50)
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彼らが努力することを学び、彼らが後に踏破することになる厖大な距離を踏破できるように自らを鍛えたのは、入門時の障害があったからこそなのです。(岩波文庫p52)
「社会契約論」の場合と同じく、「学問芸術論」も中央公論社の「世界の名著36 ルソー」の中の翻訳が一番すぐれているので、残りはそちらで。