平成喧嘩塾の衆人はどこいったん?

114、《短小tinko》
2019-01-12 19:09:43
ID:89AUxsM.(sage)

第五章 我々は常に最初の契約に戻らねばならないこと

 

1. ここで仮に百歩譲って、私がこれまでありえないこととして否定してきたあらゆる独裁者の権利を認めたとしても、独裁政治の擁護者の立場はなんら強化されません。単にたくさんの人間を服従させることと、ある共同体を支配することとの間には、いつまでたっても消えない大きな違いがあるからです。ばらばらの人間を次々と奴隷にしたとしても、そしてその人数がいくら多くなったとしても、そこに生まれるのは主人と奴隷の関係でしかなく、けっして国民とその統治者の関係は生まれないのです。そこには人の集団は生まれても共同体は生まれないのです。公共財産もなければ、政治的に統一された団体つまり国家もないからです。このような支配者はたとえ世界の人口の半分を奴隷にすることができたとしても、彼は相変わらず一個人のままであり、彼の財産は彼以外の人の財産と常に区別されているために、永久に私的財産のままなのです。このような支配者が死ぬようなことがあれば、後に残された帝国は統一のかなめを失ってばらばらになってしまうでしょう。それは一本の樫の木が燃え尽きると、崩れ落ちて灰の山になるのと同じことです。

2. グロティウスは「国民は王に対して自分自身を委ねることが許されている」と言っています。このグロティウスの言葉に従うならば、国民は自分自身を王に委ねるその前からすでに国民として存在していることになります。すなわら、王に自分自身を委ねること自体がすでに国民としての契約なのであり、国民による審議を前提としているのです。ですから、王に服従する契約より先に、まず国民は国民になるための契約の中身をよく検討すべきでしょう。なぜなら、この国民になるための契約は、王に服従するための契約よりも当然先行すべきものであって、共同体が生まれる真の根拠となるからです。

3. 実際、もし先に来るべきこの契約がなかったら、仮に王に服従する契約が全員一致の決定でない場合に、多数派の決定を少数派が受け入れる義務がどうして生ずるでしょうか。そうです、王を持ちたいと言っている百人の人たちは、王などいらないと言っている十人の人たちに代わって決定する権利などないのです。多数決原理はそれ自体契約に基づいた制度であり、それ以前に少なくとも一度、全員一致の契約、最初の契約がなければなりません。

 

名前:

メール欄:

内容:


文字色

File: