平成喧嘩塾の衆人はどこいったん?

107、《短小tinko》
2019-01-12 18:53:34
ID:89AUxsM.(sage)

ルソーの『社会契約論』第二巻より

 
第一章 主権は人に譲り渡すことができない


 これまで述べてきた基本的な事柄から導き出される結論のうちで最も重要なことは、全体の意志 (volonté générale)だけが国民全員の幸福のために国家権力を行使することができるということです。国家というのはまさにこの全員の幸福のために作られるものなのです。なぜなら、個々の国民の間に利害の対立があるために共同体の設立が必要であるとすれば、個々の国民の間の利害が一致してはじめて共同体を設立することができるからです。つまり、共同体のつながりは国民の様々な利害に共通点があるからこそ生まれてくるのです。逆に、利害の対立だけがあって何の共通点もないなら、そこに共同体が成立することはあり得ません。そして共同体は、まさにこの共通の利害という一点に基づいて運営されなければならないのです。

 つぎにわたしが言いたいことは、主権というものはまさにこの全体の意志の表れなのですから、それを誰かに(例えば王様に)譲り渡すことはできないということです。つまり、主権者は共同体以外にはないのですから、主権が共同体以外の誰かによって代表されることなどあり得ないということです。なぜなら、権力ならば誰かに譲り渡すこともあるでしょうが、意志を人に譲り渡すことなどあり得ないからです。

 実際、誰か個人の意志が全体の意志と一致することはあり得ないことではありませんが、それがずっと一致し続けるかとなるとそれは無理というものです。個人の意志というものはその性質上どうしても依怙贔屓に向かいやすいのに対して、全体の意志はいつも公平であろとうとするからです。仮に全体の意志と個人の意志とがつねに一致し続けたとしても、それを保証するものは何もないのです。なぜならそれは単なる偶然の一致であって、意図的なものではないからです。

 主権者すなわち共同体の意志が当面ある人の意志と一致するか、少なくともその人の意志と称するものと一致することはあっても、その人の将来の意志とまで一致することなどありえません。なぜなら、いやしくも意志というものが将来にわたってその自由を捨て去ることなど馬鹿げたことであり、もし意志あるものが自己の幸福に反することに同意することがあるなら、それはもはや意志に従った行為ではないからです。したがって、ある国民が誰かに無条件に服従する契約をするようなことがあるなら、その契約によってその国民は解体して、もはや国民と呼べる存在ではなくなっているのです。なぜなら主(あるじ)を頂いた瞬間に主権者は主権者でなくなり、その瞬間に市民共同体は消えてなくなるのです。

 しかし、こういったからいって、君主の命令が全体の意志としての価値を持つことを排除するものではありません。もちろんこれは、主権者すなわち共同体にその命令を拒否する自由がありながらもそれを拒否しない場合のことですが。この場合には、誰も何も言わないならば、国民が同意していると考えてよいということになります。このことについては後ほど(第6章)詳しく説明することに致しましょう。

   

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