平成喧嘩塾の衆人はどこいったん?

113、《短小tinko》
2019-01-12 19:05:16
ID:89AUxsM.(sage)

7. 人を奴隷にする権利と称するものが存在するという根拠として、この他にグロティウスたちは戦争を挙げています。「戦争の勝利者が敗者を殺す権利があるのだから、敗者は自由と引き替えに命を買い戻す権利がある」と、彼らは主張しています。この契約は、当事者双方の利益になるのだから、合法的だと言うのです。

8. しかし、戦争状態の結果として敗者を殺す権利と称するものが生まれることなどけっしてないことは明らかです。人間が共同体を作らずに自由気ままに暮らしている限り、平和であるとか戦争状態になるとかいうほど人間が密接なつながりを持つことはありません。この点だけから見ても、個々の人間は生まれついての敵同士ではないことがわかります。実は、戦争とは人と人の関係から起こるものではなくて、物と物との関係から起こるのです。そして、戦争状態が単なる人間同士の関係からではなくもっぱら物と物との関係から発生するものであるかぎり、個人と個人の戦争などというものは、人間が決まった所有物をもたない自然な状態にある場合にも、また全てが法に支配されている国家の中にいる場合にも、起こり得ないのです。

9. 個人的なけんかや決闘などは、突発的な行為であって何かの状態とは言えません。確かに私闘がフランス王ルイ九世の政府によって認められたり、教会による「神の平和」によって中断されたりしたことがありました。しかし、これは封建支配の悪習でしかなく、制度としてはまったくばかげたものでした。それは、自然な正義の原則に反しており、まともな政府が採用するはずのないものです。

10. このように考えていくと、戦争とは人と人との間にではなく、国と国との間に起こるものであることが分かるでしょう。ですから、戦争においては個々の人間はたまたま敵同士になるのであって、けっして人間として、あるいは市民として敵対するのではなく、ひとえに戦闘員としてのみ敵対するのです。つまり、戦場において個々の人間が敵同士になるのは、それぞれの国の一員であるためではなく、ひたすらその国を防衛する任についているためなのです。結局、国の敵は国だけであって人間ではないのです。なぜなら、国と人間という本質的にまったく異なる性質をもつ二つのものの間には、いかなる関係も生まれようがないからです。

11. 国の敵は国であるというこの原則は、古くからの常識であってどこの国に対しても当てはまるものなのです。ですから、例えば宣戦布告は、相手の国家に対するというよりは、相手の国民に対してするものなのです。国王であろうと個人であろうとまた国民全体であろうと、他国の君主に対してあらかじめ宣戦布告もせずにその国の国民を略奪したり殺したり拘束したりすることは許されません。それは敵の行為ではなく単なる強盗の行為と見なされます。また戦争中には、正義を重んじる君主は敵国にある全ての公の財産を奪うけれども、個人の生命・財産には手を出さず大切に扱います。こうして自分の権利の基盤となる正義の原則を大切にしているのです。戦争の目的は敵国を征服することですから、戦闘員が殺す権利がある相手は、武装してその国を防衛しようとしている人間だけなのです。しかしその人間が一旦武器を捨てて降伏したなら、もはや敵でも敵の道具でもなくなり、再びただの人間にもどるのです。そしてもはや誰にも彼らを殺す権利はなくなってしまうのです。時には相手の国の構成員をだれ一人殺すことなくその国を滅ぼすことも可能です。戦争状態にあるからといって、勝利する目的に必要でない権利まで与えられるわけではありません。こうした原則はなにもグロティウスが発明したものでもなければ、詩人たちの権威に基づくものでもありません。これらは、物の道理、理の当然というべきものなのです。

12. 征服する権利について言うなら、この権利の根拠は強者の権利以外の何物でもありません。ですから、もし戦争をしても征服者には自分が征服した国民を殺す権利が生まれないなら、このありもしない権利を根拠にして、征服した国民を奴隷にする権利を主張することもできないわけです。まだ戦争中で敵を奴隷にできないあいだだけ、敵を殺す権利があるのであって、敵を奴隷にできるようになった時には、もはや敵を殺す権利はなくなっているのですから、敵を殺す権利から敵を奴隷にする権利を引き出せるわけがありません。ですから、もともと勝者には敗者の命を奪う権利がないにもかかわらず、敗者が自分の自由と引き換えに勝者に命を助けてもらうなどどいうのは、不当な契約と言わねばなりません。奴隷にする権利があれば当然殺す権利があるのだから、殺す権利があるなら奴隷にする権利もあるはずだなどという議論が循環論法であるのは明らかです。

13. 仮に勝者には敗者を抹殺するという恐ろしい権利があると仮定してみても、そこから被征服民が征服者に服従しなければならない義務が生じたりはいたしません。奴隷となって服従するとしてもそれは強制的に服従させられるだけのことです。勝者は敗者から「自由」という命に匹敵するものを取り上げて奴隷にするのですから、これは決して命を助けてやることにはなりません。それは無益に殺すかわりに、有効に殺すだけのことです。つまり、勝者は敗者に強制することはできても、その強制にはいかなる正当性もないのです。こうして、両者の間には戦争状態が依然として続いており、主人と奴隷という関係もその現象でしかありません。そして戦争をする権利は消滅していない以上、平和条約が結ばれることはありません。ある種の条約が結ばれることはあるとしても、それは決して戦争状態の終結を意味するものではありません。依然として戦争が継続していることに変わりはないのです。

14. 以上のように、この問題をいかなる角度から眺めても、人を奴隷にする「権利」などというものは無効であることが分かります。それは正当性がないからだけでなく、でたらめで無意味なものであるという点からも無効です。「奴隷」と「権利」という二つの言葉は相矛盾した言葉であって、互いに相手を打ち消す言葉です。ある人がある人に向かって、あるには、ある人がある国民の全員に向かって、「お前にとって全面的に不利な、そして、私にとって全面的に有利な契約を、私はここにお前と取り結ぶことにする。この契約を私は自分が好きな間だけ守ろう、この契約をお前は私の望む間だけ守りなさい」などと言うのは、いずれの場合においても全くばかげたことなのです。

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