>>13
なるほど
まあ”総合的“に決めるね
曖昧だけど、それが全て
妥当かどうかを決めるのは結局、感性でしかなく、感性というものも曖昧であるからして、その決めてとなる材料(総合的に決めること)も曖昧であって良い。
これがおれの持論
そして、何かのレールの上で決めた上での判定(遅い早い)なら、ただそれだけでは真という意味での妥当性は生まれるのか?
って領域に至る。
逆に言えば、 主観 という偏ったもの ってだけで妥当性あると言えるなら、世界中の何もかもか妥当性あると言える。
ただそうじゃないだろ?
先ほどと似たようなことを言うが、最後に行き着くのは 感性
それを総合的に決める
曖昧なもので決めるのが、真の妥当性を決めるもの。
ウサインボルトは早いのか それをなんの観点でみようかと特定の観点で決めるそこで妥当性を”作る”こと自体に妥当性がない。
総合的にみて、最後は感性で決める。
それが本当の妥当性の判定法だとおれは強く主張している。
おでんの観点には妥当性というそのもの大きな観点において 非 がある。
そして、その観点を基に妥当性を決めるという行為は、同時に断言をするに足らない行為、もっと言えば断言することに問題がある
それは、観点という大前提が間違いであるという論理であり、おでんの発言そのものに妥当性がないということを示唆している。