とある引退喧嘩師の落書き

13true◆bhb.NJHtRg
2022-08-14 20:00:06
ID:OrYeXia2

>>8

〜前書〜
まず、貴方のような賢い人間と対話することが実現したことを、誠に光栄に思います。
処々から「知性」が垣間見える貴方の洗練された文章を見ていると、まるで、ショーケースに展示された宝石を見ているような、恍惚とした感覚に陥ります。
先ほど貴方は、「長年住み着いてきた廃墟サイトが閉鎖されてしまったので流れてきました」と仰っていましたが、サイトが閉鎖されたこと、非常に残念だと思います。
長い間、貴方はそのサイトと過ごしておられたのだから、きっと愛着が湧いていた事と思います。
「水髄方円」という四字熟語が表すように、貴方のような賢人が住み着いたサイトには、きっと他にも知性溢れる方々が居られたことでしょう。
私はそんな桃源郷のようなサイトの名称を知りたくて知りたくてたまりません。(もしかして、サイト名は「桃源郷」ですか?)

〜注意書き〜
哲学については、わたし自身少し齧った程度で、もしかしたら誤った知識があるかも知れませんが、その時はご指摘お願いします。
また、話題毎に文章を区別し、区別した文章の始めには【】内に題名を書いたものを付けました。
【寂しい学問、哲学】まではほぼ余談なので、飛ばして貰っても構いません。


【哲学とは】

哲学(希:philosophia)とは、直訳すると「愛知(知を愛する)」事です。
その歴史は長く、古くは古代ギリシアの自然哲学から、現代は脱構築主義に至るまでの約四千五百年の間、「真理」に近づく為に数々の偉大なる哲人たちは、知的営みを繰り返してきました。そのような、彼らの「知」によって「知」を明らかにしようとする姿勢は、まるで「知を愛する」ようである。
だから哲学は「愛知」と訳されたのでは無いか、と勝手ながらに思っています。(笑)


【寂しい学問、哲学】

そんな哲学は、実は我々の生活と密接な関係があるのをご存知でしょうか。
その例としては、科学(英:science)がまず一番に挙げられます。
カッシーニを可能にしたのはアルベルト・アインシュタインの哲学的思考実験によるものであるし、スマートフォンやノートパソコンを生み出したコンピュータ科学の基礎にはアリストテレス論理学があります。
これら科学の例に留まらず、哲学は我々の想像以上に社会へ貢献しているのです。
然し、哲学はスーパースターのように世間から注目はされていない。

それは何故なのか。

それは、哲学は一般人には難し過ぎるし、解決しなくても別に困ることは無いからです。
哲学を好む人はごく少数。
哲学は”マイノリティな学問”なのです。
そもそも、哲人のロジックは正確に説明するには非常に難解ですし、それに付随して出てくる言葉も晦渋であるならば
それを「魅力がある」と言って近寄って来る人は、所謂奇人変人の類いでしょう。(笑)
そんな、奥深く、同時に難解である哲学のテーマに関する話題に槍を刺してしまったこと、非常に後悔しております。(笑)


【真実と事実】

>世界とは私が認識する全てであり、認識の外に存在はありえないと考えることは可能です。

世界とは、私が認識するもの全てである…と。
ならば、そこには認識される対象が存在しなければなりません。
何故なら、そもそも認識とは、主体が対象を明確に把握することを指し、対象が存在しなければそれは”認識”していることにならないからです。
我々はその「対象」を世界に変換しているだけで、対象が何ものであるのかは解明出来ていません。
哲人たちが追求してきた「真理」とは、上記の”対象”のことなのでは?と私は考えています。
なので、私たち人間は真理について解明することは不可能であるという結論に帰結するのが自然でしょう。
貴方の言う「真理(真実)」とは、どちらかと言うと「事実」に近い意味合いなのでは無いかと思います。
イスラム教徒は、アッラーをその目で見たから信仰している訳ではありません。
誰かがコーランを書き記し、人々にその内容を伝え、伝聞や書物によって伝えられる…
というように、それなりのステップを踏んでいます。
彼らのしているのは、「そこに漠然とある事実への信仰」であり真実への信仰ではありません。
つまり、真理(対象)は絶対不動のものであり、変容しているのは真理に対する主体の認識であるのでは無いか。と言うのが私の持論です。

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