「喧嘩用語の基礎知識」編集部

96H.R.ギーギー
2022-02-01 17:12:54
ID:1./CeecM(sage)

「お茶中毒入れときました」

日本の代表的な伝統文化【茶道】には、「抹茶道」と「煎茶道」が存在します。日本の茶道には粉末茶を使用する抹茶道(茶の湯)と葉茶を急須で淹れる煎茶道とがあります。一般的に、「茶道」と聞くと、抹茶をシャカシャカしているお点前を想像されるかと思いますが、それは厳密に言うと「抹茶」「茶の湯」と呼ばれるものです。

それに対して「煎茶道」とは、文字のごとく煎茶(葉茶)を用いたお点前をする式作法のことです。抹茶を用いる式作法との差別化のため、「煎茶道」と呼ばれています。

煎茶道と抹茶道は成り立ちが異なります。

抹茶道は、中国宋代に用いられていた抹茶法が日本に伝わり、能阿弥、一休宗純、村田珠光、武野紹鴎らの影響を受け、千利休が安土桃山時代に完成させたものです。そして、抹茶道は主に武家社会に浸透していきました。

それに対して煎茶道は、江戸時代中期以降に文人墨客(当時の文化人)たちの間に流行しました。当時は茶道の形骸化が進んでおり、それに異議を唱えた知識人たちが形にとらわれない茶道として見出したのが煎茶道です。そのため、煎茶道は茶室や道具に必要以上のこだわりを持たず、自由な精神や風流を重んじます。文人墨客たちが自然の中で嗜んだ煎茶道の精神は、堅苦しいものではなくより日常的な茶道として親しまれています。

抹茶道は禅の思想と密接に結び付いていましたが、時の権力者である織田信長や豊臣秀吉が重んじたことで、徐々に大名の権力を表す手段としての意味合いが強まり、茶会は自らが持つ高価な茶道具を見せびらかす場となりつつありました。

そして、天下泰平が果たされた江戸時代になると、抹茶道はすっかり形式的なものになってしまっていたのです。

こうした状況に一石を投じたのが、黄檗宗(おうばくしゅう)の僧であった高遊外(こうゆうがい)でした。高遊外は、長崎で習得した煎茶の知識を生かし、京の市中で煎茶を売り歩き始めたのです。やがて高遊外は売茶翁(ばいさおう)と呼ばれるようになりました。

売茶翁は「価格は客次第、無料でもOK」という独自のスタイルで煎茶を売り歩き、それまで上流階級に限られていたお茶と禅の世界を庶民にも広めていきました。また、精神世界と風流を重んじる売茶翁の思想は、形式化してしまった抹茶道を嫌う数々の文人墨客に広く受け入れられたのです。

このような背景から、煎茶道は形式を目的としない点が特徴となっています。当然のことながら煎茶道も「道」である以上、作法や型は存在するのですが、守ること自体が目的ではありません。

あくまでも、供する相手に煎茶を美味しく楽しくいただいてもらうことが目的であって、その目的を果たすための手段として形式が存在するということ。抹茶道は基準を満たす茶室で行われるのに対し、煎茶道は場所を選ばず外でも楽しめるというのも、形式を主目的としていないからなのです。

煎茶道はお茶を通じて精神世界に触れるものであり、形式を守ることばかりに捕われる必要はありません。日常の煎茶を淹れるひとときであっても、抽出を待つ間に自分と向き合うことで、煎茶道の精神に近づいていると言えます。

江戸文学の本格的な教養を背景にもつ曙覧は、以上のような煎茶道の思想を文字喧嘩に取り入れました。つまり、形骸化した「議論喧嘩」に対して、重要なのは言語表現に現れた言葉や議論の意味内容ではなく、喧嘩の背景に広がる精神性であるとしたのです。しかしそれは、かつてインターネットワイドショー掲示板で疫病のように拡がった「喧嘩神秘主義」などではなく、ごく日常的で常識的な精神性の世界です。

今度喧嘩を楽しむ際には、相手のレスの味わいに身を委ね、さまざまな制約から解放された「ありのままの悪意」を感じてみてはいかがでしょうか。

ただし、あまり填まり込みすぎると、喧嘩中毒になってしまいますよ。

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