この香り良いですね
成り済まし・荒らし・自作自演・出会い厨・・・そんな魑魅魍魎に紛れて罵倒をぶつけ合い魂を擦り減らす
こんな非生産的な時間を共有できる者が、このネット社会にまだいるということに感激しませんか?
常に意味を求められ、与えられた役割に固執し、コストパフォーマンスの高さが評価されるこの時代に、昔と変わらぬ形で喧嘩板というものが残っているというのは大変喜ばしく思うのです
昔からネットには陰謀論が付き物です
最近だとコロナ関連の陰謀論が流行ですが、いま面白いのは安部氏殺害事件に関するものでしょう
あれが実は個人的犯行ではなく組織的政治的暗殺だったという陰謀論が存在し、その証拠動画なるものまでSNS上で流布しています
このような陰謀論的言説は昔から大衆の暇つぶしのネタでしたが、最近はネタの枠を超えてきているように見えます
ネットの世界にとどまっていたものが、現実にまで影響を及ぼすようになり、無視できない存在になりつつあります
世界の在り様は人々の認識によって生成されるという考えに立てば、陰謀論者が多数派になったとき、人々が疑わずにいた常識というものは覆されるでしょう
それはつまり世界の真実が変わるときです
虚構が世界を変えるなんてロマンチックだと思いませんか?
私は社会に媚を売り迎合して生きているわけですが、陰謀論者の存在は、そんな社会の虚構性を暴く一つの材料でもあるのです
貢献すべきと考えている社会の側にこそ実は欺瞞が大量に隠れていると思いませんか?
陰謀論を信じれば、社会の欺瞞から解放され、媚びを売る必要がなくなります
これほど魅力的な甘い蜜は無いでしょう
>>3
>それはつまり世界の真実が変わるときです
真実は変容しませんよ。
真実に対する人間の普遍的な認識こそが「常識」です。「常識」が覆されるということは、真実(真理)に対する社会の普遍的な認識が変化することなので、最初にも言ったように真実が変容することではありません。
>>5
>陰謀論者の存在は、そんな社会の虚構性を暴く一つの材料でもあるのです
そもそも、陰謀論というものが虚構であるのでは?
陰謀論、といっても様々な説がありますがそれらの論拠は?根拠は??
彼らが世界に向けて声高に叫んでいるのは、”「社会の虚構性」という虚構”であるという可能性は?
”陰謀論が概ね事実である決定的な証拠”が示されてはじめて”甘い蜜”になるのであって、それまではただただ「食べて大丈夫かも分からない怪しい蜜」なんじゃないんですか?
「ネットの世界にとどまっていたものが、現実にまで影響を及ぼすようになり、無視できない存在になりつつある」のも、
集団ヒステリーのように「本当は存在しない何か」に動かされているだけなのでは無いのですか?
認識・存在・真理・・・これらのテーマは古代ギリシアの時代から何世紀にも渡って、多くの哲学者の心を魅了し、今なお色褪せない輝きを放っています。時に我々の存在自体が危うくなってしまうような危険な論理展開をする者までおりました。せっかくなので存在論の危ない世界に入っていくことにしましょう。
世界とは私が認識する全てであり、認識の外に存在はありえないと考えることは可能です。その逆も仮定することが可能ですが、いずれも他者への実証をすることは不可能です。「私」という個人の認識から普遍性を抽出するということは、私に出来うるはずがなく、他者にも不可能です。宗教はそれをもっとも如実に示す良い例でしょう。イスラム教徒にとってアッラーは間違いなく世界に存在しており、絶対的な真理です。イスラムに限ったお話ではないですが、宗教世界ではすべての存在が神から始まります。アッラーが世界の存在を保証し、真理を保証します。しかし、ここに時間という一つの軸を挟んだ瞬間、その様相は複雑になります。ハイデガーが『存在と時間』で提示しようとして、ついに完成を見れなかったテーマです。アッラーは未来永劫に渡って絶対的な真理たりえるのでしょうか?そしてそれはいったい誰が保証してくれるのでしょうか?歴史の中で変容してしまうとしたら、それを真理として良いのでしょうか?時間にも普遍な完全なる真理とは、神のさらに上位の形而上の存在を仮定するしかないのでしょうか?人類が認識できるはずのない時間を超越した形而上的存在にどれほどの意味があるのでしょう?
少なくともイスラム教徒は、アッラーこそが時間を超えた唯一の神であると認識しています。それを他者が否定することは出来ようがなく、自分の首を絞める自殺行為にしかなりません。これもまた一つの真理として認めてもよいのではないでしょうか?存在論と認識論という古いテーマを持ち出さずとも、上記のように真理を相対化することは容易にできうるのです。
真理が相対化された世界では、いみじくも名無しさんが仰るように常に真理の根拠たる何かを探してしまいます。もっと噛み砕いて述べましょう。私が目で見ているものは、本当に存在しているのだろうか、単なる幻想ではないのか、という不安に我々は常に晒されています。個人の経験世界が真実と幻想の狭間で揺れ動いたとき、人は正気を保っていることができません。統合失調症の患者が発狂してしまうのはこのためであり、彼らにとって目にする全ての存在は固定化されてない思考の浮遊物に過ぎません。
人類はそこで、根拠となる存在を認識する特定の記号を生み出すことになります。かつてはそれは聖書のテキストであり、現代では科学的観測がそれに当たるでしょう。人々はその認識の手法に絶対的な権威を与え、あたかも普遍的認識かの如く振る舞うようになるのです。正気を保つために。
そのような普遍的認識に基づいた存在や概念を我々は「真理」と呼んでいるのではないでしょうか?
さて、陰謀論のお話に戻しましょう。
かつて地動説は陰謀論であり、異端とされていました。薬草を作っていた科学者が、魔女とされ、火あぶりに処されていた時代もありました。未来永劫に真理が変容しないということは最早なくなりました。魔女の時代に戻る可能性もあり、いやもっとさらに現代人が想像しえない真理に遭遇する可能性もあります。現代の科学はかつての宗教社会の虚構性を暴きました(科学的観測に絶対の権威を与えた我々の目からはそう見えます)。絶対的真理のはずだった神の権威を叩き落としたのです。
今度はいったい何が我々の世界の在り様を変えてくれるでしょうか?それを考えるとワクワクしてきませんか?
無味乾燥なエビデンスの世界はつまらないものです。
毎日個性の無い数字ばかりを見ているとうんざりしてきますが、それも仕方ありません。私の気持ちよりも数字の方が他者は信頼してくれるのですから。
誰も彼もが客観性にすがり、自分の主観を押し殺して生きています。
私もそんな社会の奴隷の一人であるからこそ、陰謀論にすがる人々の感情に共感はできるのですよ。
でもね、仮にですよ?陰謀論者が望む新世界になったところで、私に何の変化があるのでしょうか?
新しい社会のルールに迎合して生きるだけでしょう。
そう考えると先程のワクワク感が減衰し、一気に萎えてしまうのです・・・・・・
>>8
〜前書〜
まず、貴方のような賢い人間と対話することが実現したことを、誠に光栄に思います。
処々から「知性」が垣間見える貴方の洗練された文章を見ていると、まるで、ショーケースに展示された宝石を見ているような、恍惚とした感覚に陥ります。
先ほど貴方は、「長年住み着いてきた廃墟サイトが閉鎖されてしまったので流れてきました」と仰っていましたが、サイトが閉鎖されたこと、非常に残念だと思います。
長い間、貴方はそのサイトと過ごしておられたのだから、きっと愛着が湧いていた事と思います。
「水髄方円」という四字熟語が表すように、貴方のような賢人が住み着いたサイトには、きっと他にも知性溢れる方々が居られたことでしょう。
私はそんな桃源郷のようなサイトの名称を知りたくて知りたくてたまりません。(もしかして、サイト名は「桃源郷」ですか?)
〜注意書き〜
哲学については、わたし自身少し齧った程度で、もしかしたら誤った知識があるかも知れませんが、その時はご指摘お願いします。
また、話題毎に文章を区別し、区別した文章の始めには【】内に題名を書いたものを付けました。
【寂しい学問、哲学】まではほぼ余談なので、飛ばして貰っても構いません。
【哲学とは】
哲学(希:philosophia)とは、直訳すると「愛知(知を愛する)」事です。
その歴史は長く、古くは古代ギリシアの自然哲学から、現代は脱構築主義に至るまでの約四千五百年の間、「真理」に近づく為に数々の偉大なる哲人たちは、知的営みを繰り返してきました。そのような、彼らの「知」によって「知」を明らかにしようとする姿勢は、まるで「知を愛する」ようである。
だから哲学は「愛知」と訳されたのでは無いか、と勝手ながらに思っています。(笑)
【寂しい学問、哲学】
そんな哲学は、実は我々の生活と密接な関係があるのをご存知でしょうか。
その例としては、科学(英:science)がまず一番に挙げられます。
カッシーニを可能にしたのはアルベルト・アインシュタインの哲学的思考実験によるものであるし、スマートフォンやノートパソコンを生み出したコンピュータ科学の基礎にはアリストテレス論理学があります。
これら科学の例に留まらず、哲学は我々の想像以上に社会へ貢献しているのです。
然し、哲学はスーパースターのように世間から注目はされていない。
それは何故なのか。
それは、哲学は一般人には難し過ぎるし、解決しなくても別に困ることは無いからです。
哲学を好む人はごく少数。
哲学は”マイノリティな学問”なのです。
そもそも、哲人のロジックは正確に説明するには非常に難解ですし、それに付随して出てくる言葉も晦渋であるならば
それを「魅力がある」と言って近寄って来る人は、所謂奇人変人の類いでしょう。(笑)
そんな、奥深く、同時に難解である哲学のテーマに関する話題に槍を刺してしまったこと、非常に後悔しております。(笑)
【真実と事実】
>世界とは私が認識する全てであり、認識の外に存在はありえないと考えることは可能です。
世界とは、私が認識するもの全てである…と。
ならば、そこには認識される対象が存在しなければなりません。
何故なら、そもそも認識とは、主体が対象を明確に把握することを指し、対象が存在しなければそれは”認識”していることにならないからです。
我々はその「対象」を世界に変換しているだけで、対象が何ものであるのかは解明出来ていません。
哲人たちが追求してきた「真理」とは、上記の”対象”のことなのでは?と私は考えています。
なので、私たち人間は真理について解明することは不可能であるという結論に帰結するのが自然でしょう。
貴方の言う「真理(真実)」とは、どちらかと言うと「事実」に近い意味合いなのでは無いかと思います。
イスラム教徒は、アッラーをその目で見たから信仰している訳ではありません。
誰かがコーランを書き記し、人々にその内容を伝え、伝聞や書物によって伝えられる…
というように、それなりのステップを踏んでいます。
彼らのしているのは、「そこに漠然とある事実への信仰」であり真実への信仰ではありません。
つまり、真理(対象)は絶対不動のものであり、変容しているのは真理に対する主体の認識であるのでは無いか。と言うのが私の持論です。
【陰謀論について】
陰謀論は、人々の信心があってはじめて影響力を持つものです。
人間の信心とはとても恐ろしいもので、
例えば、集団Aが信仰していた神bの存在が、論理的な証明を持って否定されたとする。
然し神bは存在するものとして信仰していた彼らが直ぐに受け入れられるハズがありません。
「いや、神は論理を超越した存在だから居ない訳が無い。」
「そんなものアテにならないわ!」
などと、屁理屈を捏ねるなどして反発します。
彼らは失うのが怖いのです。
信仰とは、言わば他への依存です。
神への信仰心を持て!神の教えは守りなさい!
今まで信じていたものは、信仰者のアイデンティティに深く連関しているので、簡単に捨てるわけにはいきません。
「今まで信じ続けたものが、嘘だったの?」
その人の前に唐突に垂れてきた蜘蛛の糸は、触れられることも無くハサミで切られます。その人自身によって。
ほぼ全ての陰謀論には、明確な根拠がありません。だからこそ、誤った判断に陥ることがある。
それが非常に恐ろしいことだと私は言っている。
真っ暗闇の迷路で、冒険者が持っているのは埃の被った地図だけ。まさかその地図に間違ったものが書いてあるだなんて、信じたくないに決まってる。
暗闇に、光を灯してあげませんか。
>今度はいったい何が我々の世界の在り様を変えてくれるでしょうか?それを考えるとワクワクしてきませんか?
盲目な信者たちによって変えられた世界……
ワクワク、というよりかは、怖い、というのが正直な感想です。(笑)
>>trueさん
私の落書きに対してご丁寧にどうも。
名も知られていない廃墟掲示板を不法占拠して、板の主旨とはまったく無関係な落書きを残すという悪趣味なことをしていただけです。当時は閲覧者の目を考えたこともありませんでしたが、閉鎖されてしまうと一抹の寂しさを感じました。私の存在はまるで最初から無かったかのように落書きとともに電子空間上に消え失せてしまったのですから。その余りの空虚さに耐えられなくなってしまい、ここにやってきました。この文字の羅列が私という現存在の叫びなのであり、ただ一つの存在根拠なのです。人間は自己の存在を常に確実なものにしたいという本能があるように思います。哲学の営みは、理性的営みであると同時に、人間という種が有する本能の営みなのかもしれません。
存在と認識、そして主体の問題は複雑な網の如く絡み合い、我々の理解を永遠に遠ざけているようにすら感じます。
対象という概念は認識の主体と客体があって初めて成立する概念です。したがって認識の前に、対象が存在することはあり得ません。自然科学の分野では、主体は世界という自然を客体に変換することで、世界を対象化し、我々の認識の下で再構成します。しかし、この自然科学的認識は、実は自然という絶対者の存在を仮定しています。我々は自然科学の世界に浸り過ぎたたために、この認識を当然のように受け入れていますが、科学がその認識の対象としている自然の存在を保証してくれるのはいったい誰なのでしょうか?なぜ私たちは今見ている景色が幻覚ではなく、間違いなく存在していると信じているのでしょうか?
こんな意地悪な質問に対して、私ならこう答えます。
「私が見たからである」と。
私という主体が認識したから、目の前の世界は存在しているのである、と。
すなわち世界とは私が認識する全てであり、認識の外に存在はありえない。
不変の真理たる存在Xを仮定しても、それは概念として存在を認めることが限界で、仮定以上に押し上げられることはないでしょう。我々が不変の真理を認識したとき、存在Xは認識の客体という次元に下がってしまいます。認識が変容する可能性を認めるならば、認識の客体もまた常に変容に晒されます。客体化した瞬間にXは不変という真理の条件を喪失します。こんな存在Xを人類が扱えるはずがありません。ture氏の仰るように人類に解明することなど不可能です。論理的証明を神のように崇める喧嘩師の皆さまであれば、証明しようがない概念上の存在Xを信じることなど到底できないはずでしょう。
自然科学的認識とは、自然という巨大な聖書を解読することであって、我々はその手法に絶対的な権威を付与し、自然世界を真理として認識しています。真理とは人間が作り出した一つの偶像に過ぎないのではないでしょうか?我々は真理というアッラーを無意識のうちに信じてしまっているのではないでしょうか?
論理的証明と科学的観測の正しさを我々は疑わずにいます。そこに懐疑的になったとき、陰謀論ですら容易に否定できないという事態に陥ってしまう。それは確かに恐ろしいことかもしれません。しかし、二度の大戦を経て、科学の正しさに疑問を抱いた現代哲学はまさにtrue氏が恐れるものを導き出しかねない代物なのです。だからこそこのテーマはあぶなかっしいのです。
科学の強力で眩しい光は、個人の目を盲目にさせてしまいます。しかし、余計なものを目に入れずに済むわけですから、その方がよっぽど幸せに生きられるのかもしれません。
哲学書のお話を少し
ヨーロッパの大陸哲学は難解でかつアイロニカルな文章が多いため、哲学科専攻でもない私のようなただの日本人が、彼らの主張を正確に理解することはほとんど不可能です
これまでも挫折の繰り返しでして、途中で読むのを辞めた哲学書がいったいどれだけあることか
一方で、分析哲学の流れを汲むアメリカ人哲学者は日本人にも理解しやすい論理構成をしています
特にその中でもリチャード・ローティはおすすめです
リチャード・ローティ著『偶然性・アイロニー・連帯』
https://www.amazon.co.jp/dp/4000004492
>>16
>客体化した瞬間にXは不変という真理の条件を喪失します。
これ、あんまり説明が入ってこないので聞くんですが
なぜですか?
>>19
この界隈をすべて追跡しているわけではないですが、本質的には何も変わっていないのではないですか?
>>20
認識によって客体化された対象の形質は認識の形式に依存します。あなたが見ているものの形質はあなたの5感に依存しているということです。我々の5感がまったく当てにならないということは言うまでもありません。勘違いや見間違いに代表されるように、我々が認識しているものの形質は容易に変わります。仮に存在Xが我々に認識できてしまえば、存在Xは認識形式によって如何様にもその姿を変えてしまうのです。そんなあやふやな存在に真理を委ねることはできません。不変という条件を重視するのであれば、ですが。
>>16
ふむ……
参りました。
またお話する機会があれば、是非お願いします。
ありがとうございました。
おお、文章がしっかりしている。これは期待できそうだな。暇な時に軽く読んでみます。それではまた…。
コロナに感染してしばらく寝込んでおりました。
高熱で浮かされいるときというのは、自身の身体感覚が不明瞭になります。我々は当然のように自身の身体をコントロールできると思い込んでいますが、それ程単純なものではありません。病というものは人間の身体に対する無力性を示す一つのサインなのかもしれません。
「半年ロムれ」
ある掲示板を訪れた際に、そこの住民から返ってきた言葉です。
当時糞餓鬼だった私は、すぐに反発しました。
半年ロムれとは何事か。
現実の社会的役割から解放され、ただHNとIDだけがアイデンティティのネット掲示板において、不特定多数に門戸を開かなければ何の意味があるのだ、と。
当時の私は、インターネットの世界に大変魅了されていました。現実社会では到底知りえない情報の宝庫、個性的だが怪しげなネットユーザーたち、現実に閉塞感を覚えていた私にとって、当時のインターネットは自由で奥深い世界に見えたのです。そんな風に目を輝かせて入ってきた私に掲示板の住民は酷い洗礼を浴びせてきたのです。
よくよく考えてみると掲示板”住民”というワードにも違和感が出てきます。私もつい咄嗟に>>1にて”住み着いていた”と言ってしまいましたが、これほど珍妙な言葉はないかもしれません。彼らが自らを住民と自称するのは、そこに居場所を求めていたのかもしれません。
ネット掲示板というのは一つのコミュニティでした。そこには住民がいて、文化があって、秩序がありました。
もう一つの社会的役割が各個人に与えられていたのです。特に現実社会に居場所のない人々にとっては、そこはオアシスに見えたことでしょう。半年ロムれという慣用句は、まさに彼らの自己防衛のために産み出された言葉だったのかもしれません。完全なオープンでもなく、しかしクローズドでもない、曖昧なものとして小さなネットコミュニティが数多く成立していました。
SNSの時代になり、個々のコミュニティは特定のSNSに還元されてしまいます。これらのサイトやアプリは大企業により運営され、利益を追求するためのシステムとして成立するようになります。各種の大手SNSを閲覧すれば容易に分かるように、現実のしがらみがネット上に跋扈しており、最早現実社会の一つのツールでしかありません。スマホの登場でインターネットの利用がますます便利になり、参入障壁が低くなったことで、利用者は爆発的に増加し、インターネットは巨大な市場になりました。各個人はかつてのように文化を生み出す住民ではなく、一部の人間が作り出したものをただ楽しむだけの消費者になります。社会の変化が激しいのと同様に、ネット社会の変化もまた激しく、半年ロムるなんて悠長なことはできなくなってしまいました。むしろ運営企業にとっては、馬鹿で金を落とす利用者が増えてくれた方が都合が良いでしょう。
日々どころか数時間単位でトレンドが移り変わっていく今の世に、あれほど反発を覚えた「半年ロムれ」という単語に愛着すら湧いてくるのです。
インターネットの世界に最早かつてのような魅力を感じていませんが、それでも利用を辞められない身体になってしまいました。しかし、一人の消費者としてただ朽ちるつもりはありません。自らの矛盾に耐えながら、思考し続けねばならないのです。
現実の人間社会に疲弊した人々がネットへ居場所を求めたように、ネット社会に疲弊した人々が次に求める居場所は人間のコントロールの外にある自然の世界なのかもしれません。
自然と共に生きる原始的なコミュニティに回帰していくとしたらそれは大変興味深いことです。
ややこしいこと考えないで外に出て自分の力で生きるまでとは言わないが
色々自分で寝る場所つくったり、飯作ったりしてると生きてるなーって実感できてリフレッシュできるよ
ややこしいことを自分の頭で考えることは私の実存的欲求なのです。
理屈だらけの現代社会や複雑怪奇な人間関係に疲弊し、そこに存在の喜びを見いだせない人にとって、動物的本能に従って生きるというのは単純明快で良いのかもしれません。あえて思考をシャットアウトすることで身体に訴えかけてくるものがあるのでしょう。
しかし、少なくとも私の場合にはこの魑魅魍魎な人間社会に自らを晒し上げ、それを題材に思考することに愉しさを感じているのです。人間は他者と共に生きていくことから避けられません。人間という存在自体を考察対象にするだけで、毎日が面白くなるものですよ。
常に考えても凝り固まってしまわない?
たまにはかけ離れた違うことする事で得られる刺激やら何やらを経てこそ
また違う視点、考えが産まれる事もあるものよ
アウトドアって本能的なものより結構思考錯誤するものよどれだけのものをもっていっていくとか
どうするのかそこに作業も体験でき、空気感も感じられるから新しい見解もうまれるものよ
他の人がどうやっているかも見て考えることもできるし
凝り固まってやらないことを増やすより色々やって色んなことを吸収して活かすそんな人生もありだよ
俺はね、喧嘩板でカッコつけるのはやっぱりどうかと思うんだよ
人間が心の中に猛獣を飼ってるとするなら、普段は檻の中に隠れてるといえる。それが喧嘩板ではのびのびと放し飼いにできるから、みな思い思いに暴れさせる。
そんな中で、自分だけ人目を気にして良いカッコをしようなんて、周りは裸なのに一人だけ股間を隠してるような居心地の悪さを感じるんだよ
自分の恥部をさらけ出してるほうが「粋」であり「マナー」と言ってもいいんじゃないかと
でもね、複雑なのは、俺にそんな度胸はないってことだ。
肝っ玉が恐ろしく小さいもんだから、ダサいと思っておきながら、さらけ出すことにもカッコつけることにもどこかビビってしまって、結局どちらも中途半端になってしまう卑怯な立ち位置にならざるをえない
「名無し」は最大の自己保身ですよ。俺はひどく傷つくのを恐れるあまりついには名前まで捨ててしまった。ぷくぷくと太らせた自尊心と羞恥心が俺を臆病な人間に変えた。いや、もともとそういうやつだったのか。
今や友達と呼べるやつは誰一人としていない。いや、もともといなかったのか。
そもそも友達ってなに?己の正体を包み隠さず開示できる相手なら、今までにおいても確認できてない存在になってしまう。
ずっと周りに合わせてきた人生だったから、自分が一体何なのか、よくわかってない部分も多い。
自慢じゃないけど俺はよく褒められる。でも評価されてきたのはいつも俺の演じる人物だった。無条件に受容された経験がないんだよね。そんな小さいことが苦痛に感じる。俺って社会不適合者?
社会不適合者といえば名無しだ。こいつら(俺たち?)はとにかく空気が読めない(読まない?)。
社会性のない名無したちが喧嘩界を衰退させた側面もあると思ってる。一方で、名無しの不気味な粘着精神に基づく生命力が今の喧嘩界を生きながらえさせているという見方もできる。
結局どうなの、いい奴なの、悪い奴なの、とあれこれ考えてるうちに、答えが出ない議論に迷い込んでしまった気分になる。
だからといって考えるのをやめようとしたら、それは名無しの思う壺だ。
たとえ名無しが今の喧嘩界を盛り立ててくれていようが
もとはといえば自らが起こした問題の後始末をしてるだけなんだから
これはマッチポンプに過ぎないじゃないか、騙されるな、とみんなに言いたいわけです
人間が一番恐怖を覚えるシチュエーションってなんだか知ってる?
それは君が言う「裸」だ。
当然身体を覆うものが無くなった状態というのに人間は不安を感じるものよ。
たいていの人はホラーを見るとき自分を投射するよね。
もし自分があんな状況で襲われたら
そんな風に潜在的に恐怖を覚えるのが人間
>>32
ご提案どうもありがとうございます。人生は有限ですから、全てのことに手を出すわけにはいきません。
多様な経験、新しい人生、といったワードは海外帰りの若者がよく言うことですが、そういう方に限って日常に疲弊しているように見受けられます。
だから無意識のうちに非日常の世界に刺激や休息を求めるのではないしょうか。名無しさんの場合はどうでしょう?
私の経験を少しお話ししましょう。
かなり昔の話になりますが、とある中南米の国に滞在したことがありました。毎日が非日常の連続で刺激に溢れて、自分の人生に活力を与えるような新しいものに出会えた気がしました。そのうちの一つがドラッグです。麻薬が日常に溢れている国でして、ドラッグパーティがよく開催されていました。パーティに参加した日のことは二度と忘れないでしょう。初体験で私は非常に興奮していたのですが、彼らにとっては日本のクラブパーティ程度の認識だったようです。薬のせいで私はハイになっていましたが、その私の有様を見て彼らは大変羨ましがりました。
どんな強い刺激でもそれに慣れてしまえば、感度が下がってしまい、退屈な日常のピースになってしまうのです。そしてまた新しい非日常的刺激を求めることになります。非日常の体験は、どこまでいっても観光に過ぎません。それは自然であれ、海外であれ、同じことです。観光地に刺激を求めるよりも、自分の感度を上げることに私は注力しています。その上で日常に新しい発見があったときの喜びは格別なものです。もし私がアウトドアに生きる実感を得られたとしたら日常に組み込む努力と工夫をするでしょう。
人生のほとんどを過ごすのは日常生活ですから、そこに生きている実感を見出すほうが豊かな人生を送れると思いませんか?
しかし、非日常の魅力は私も十分理解しています。
当時のドラッグの愉悦は未だに忘れられず私の脳内にしかと残っておりまして、死ぬまでにもう一度あの強烈な刺激を味わいたいという欲望もあります。
この身体から発せられる欲望には逆らいようがありません。
喧嘩サイトもドラッグと同じく、日常に退屈した者にある種の刺激と興奮を提供しており、彼らの背後には堕落した日常が見え隠れしてしまうのです。
サルトルの見解に立てば、本質なんてものは妄想に過ぎず、「あるがままのわたし」「本当の自分」などというものは空虚な言葉でしかありません。
喧嘩サイトは社会に適合していないコミュニティだからこそ存在価値があるのではないでしょうか?生真面目な”社会人”ばかりが喧嘩サイトを闊歩していたら面白くありません。
彼らは社会的不適合者に感謝せねばならないのです。我々の異常性が、彼らの正常性に自信を与えているのですから。
>>38
>>生真面目な”社会人”ばかりが喧嘩サイトを闊歩していたら面白くありません。
ここ、ここなんですよ、ものすごく俺が引っかかるのは。
だって思うにそれが昔の喧嘩界でしょ?
もちろんみんながみんなとは言わない。
でも高い評価を受けていた人たちの中には「生真面目な社会人」がおおかったはずだ
それはちゃんとした職についてるとか、人に迷惑をかけないとか、ありきたりな倫理観に根ざしたものじゃなくて
その場で周囲から期待されていることを敏感に感じ取って実行する力
それがあったからこそ昔の喧嘩界はエンターテイメント性が強かった
サルトルだかサトテルだか知らんけども、
俺たちは経験から「対人関係において本心を隠すことがある」ということを知っている
上司や先輩がムカつくからといって直情的に暴言を吐いていいわけじゃない
告白してきた人の顔があまりに残念でも、まさか「お前ブスだから無理だわ」と言っていいはずがない
それは社会的な生活を営む上での責任感が働いてるからだ
しかし、喧嘩界では逆の役割が各人に割り振られる
つまりムカつくやつとかブスには思っきり暴言をぶつけることが、かえって場を盛り上げることにつながるわけだ
そんな世界で良い子のフリして僕は争い好みませんというやつがいやがるなら、
そいつはもはや荒らしだ、そのコミュニティの不穏分子なんだよ
>>37そうやって何何だからと理由つけてやらないのはもったいないのよ
ちょっとでも興味もったならとりあえずやる
行動力つけないと
疲弊するのはあってないことしてるからだと
面白いことならワクワクして心は満たされるし、そういうことの疲れは心地よい疲れでより休息の質上がるし
色々やってみて自分に見合うもの模索するんだよ!
刺激も強くなくても、心を落ち着かせる、心休まるくらいのものの方が長く居心地よく過ごせるだろうし
それがダメになったらまた模索すればいい
そのための行動力を身体が動けるうちにやった方が後々選択肢も増える
色々言い訳つくって躊躇する君みたいなタイプは歳とったらとったで身体が動かないこと、老化を言い訳にして何もしなさそうだから今やろうと思わんと
喧嘩サイトなんてもうおしまいに向かっているんだから
今のうちに何かする、何かできる行動力培わないと!
>>39
私は今も昔も大して変わらないと認識していますが、そう思われるならそうなんでしょう。記憶や記録は後世の解釈によって如何様にでも変化してしまいますから。
ただ一つ思うのは、ある場所では多数派の中に埋没していた人間が、別の場所では少数派として目立ち、時には評価される可能性があるいうことです。
異常者が多数を占めていた空間だからこそ、ほんの少しの社会的な要素ですら、彼らの承認欲求を満たすには十分だったのかもしれません。
だから少しでも自分が評価されるような居場所を作り上げ、それを維持するための秩序を構築し、さらには歴史の中に残したのでしょう。その行動力と創造力には脱帽しますが、その性質自体は当時ネット上に数多く存在した他のコミュニティとさほど変わりません。SNSやスマホによってネットへの参入障壁が低くなったのとほぼ同時期に、どのコミュニティも過疎化の一途をたどっています。
彼らにとって、社会では満たされない承認欲求と自身の血生臭い欲望を思う存分に満たすことができたのがたまたまこの界隈であったというだけで、そこにエンターテイメント性などという小奇麗な要素はほとんど無かったと考えています。そのような解釈や歴史を語る方は多くいるかもしれませんが、少なくとも私は彼らが記述した記録にさほどの重きを置いていません。
>>40
そうですね。あなたの場合はまだ人生を模索中の段階でしょうから、様々なことに手を出してみるのは良いと思います。
喧嘩サイトという形態は終わりに向かっていくでしょうが、他者を蹂躙したいという人間の血生臭い欲望に終わりはないと思います。場所や形は変化すれども、その欲望を満たすための場が消えることはないでしょう。
またまたあなたの場合はとか変な言い訳しなくてもいいんだよ
人生の模索って終わりあるの?
色々変わっていく世の中なんだから達観しないで色々考えて行動しようぜ
こんなとこ使ってるくらいだからまだ独身の中年いってないかくらいだろ?
まだまだ色々やれるやれる
これから規制、規制で法を犯さずにそんなことできるとこってあり続けられるのかな
?
ってかそんなに蹂躙とかしたいって犯罪までしてそういことしたい人とか?
>>43
そう思われるならそうなんでしょう。
話は変わりますが、異常者は常に正常者の安心材料になっている側面があると思います。喧嘩サイトで喧嘩をしてない利用者は今もかつても多くいます。彼らの行動原理は何なのでしょうか?なぜ彼らはここを覗きに来てしまうのでしょうか?例えばあなたの場合はどうですか?
>>41
不思議だなぁ
もしかすると「社会性」という言葉に振り回されすぎかもしれない
ちょっと身近なもので例を挙げてみる
「クラスの人気者」、これって多数派?少数派?
俺のいう「喧嘩界で評価されていた人たち」も
「社会性」という点で見れば「クラスの人気者」とそう変わらない
だから「多数派/少数派」という次元で表と裏を分けるのはあんま適切とはいえない
「自分が評価されるような居場所を作り上げ〜」ってのも順序が逆だ
かっこいいやつがモテるのと同じ原理で
空気の読めるやつが評価されていた
それが自然の状態だった
ところがあるときから喧嘩という営みをゲームのようなものだと考えるやつらが増え始めた
そいつらにとって喧嘩には一定のルールが存在していて
その基準に従えば勝ち負けは一つに定まると
でもよく考えてみると、価値観は人によりけりなんだから一定のルールに収めようとするのも変な話で
「喧嘩師ランキング」なんか見るとだいぶ無理があるよね
そもそも勝負ってのは一つしかない共有不可能なものを取り合う行為だ
一方は正しさを、もう一方はおもしろさを、というとき勝負は成立しない
俺が正しいんだ、いや俺が正しい、なんていう風に互いの目指すところが矛盾するとき、ようやく勝負の条件の一つが整う
にもかかわらず、多種多様な価値観を持つ人たちはランキングのもとに、狭苦しい枠組みの中に押し込められる
口を開けば俺が勝ったやら俺の方が強いやらで不毛なやりとりが繰り広げられることになる
ランキングなんてものが流行ってる時点で腐ってるんだよ
>>45貴方って結局いくつぐらいなの?
犯罪までのとこも教えてほしいな
異常者は常になのかな?恐怖の的とかにもならん?
遠巻きの異常者、近場の異常者でも捉え方は違いそうだけど
ここに覗きに来るのは昔通った小学校とか見てノスタルジックになるとか
今どんなヤツいるとか色々あるんじゃない
自分の場合はこうやってたまに話題があって誰かと話せたらいいくらいだね
>>46
歴史の解釈は無限の可能性がありますからご自由になさればよいと思いますが、私の認識とは異なるようです。
喧嘩界隈は自然と発生したわけではなく、誰かによって作られたコミュニティサイトの集合体でしょう。学校や会社のように既に文化と歴史が積み重なっている場所では自らの承認欲求を満たせない者たちが集まって、それを満たせる場所を作ったのではないですか?当時のインターネットは空き地のようなもので、それができるだけの余地がありました。後から見れば彼らはもはや「クラスの人気者」と本質的には変わりありませんが、彼らは自身がそうなるように主体的に作り上げたのです。
その構造は今でも変わっていなくて、この場所でなら自分も評価される、と考える者たちが集まっているのではないでしょうか?それを根底からぶち壊し、新しい軸を打ち立てるほどの行動力とエネルギーがある人はまだ出ていません。ただ、既に利用者は創造者から消費者になってしまったと私は考えているので、今後そのような地盤変動が起こる可能性は極めて低いでしょう。
単に自分の主張を表明するだけではなく、それを他者に承認されることに意味があるからランキングが乱立されてしまう。その欲求がある限り、不毛な争いは一生続くでしょうし、それこそがこの界隈の有り様ではないでしょうか?そこに意味を感じない者たちは訪れることもないでしょうし、今いる者たちも別の何かを見つければ自然と去っていくでしょう。
おいおいおいおい
この気持ち悪い口調とやたら他人の個人情報をほじり出す悪癖に見覚えあるぞ
まさかお前ドコモ名無し?
背筋がぞくっとしたわ
あ、>>1じゃなくて>>47の名無しな
SONYという別人格でもまだ活動してんのな
https://jeison.biz/casphy/bbs/search.php?mode=thread&cate=kenka2&search=SONY&type=name
>>48
「空気が読める」ってのは特別な属性なんだよ。すべてのコミュニティで求められる性質だ。
なぜならその空気を醸成してるのはコミュニティの参加者の希望や要求だからだ
空気を読むというのはその思いを汲み取って応えることなんだから、周囲は「空気を読んだ人」を快く迎え入れる。
それに対して例えば逆に「強い」ってのは周囲の希望や要求とは必ずしも合致しない。
弱くあってほしい、そういう需要だってあるはずだ。
異常者が安心材料どうのこうのって話もそれと通じるところがある
もしその「空気」を作り上げた、ってことが言いたいなら
一体どうやったらそんなことができるのかぜひとも知りたいよね
単に気の合う連中で固まっただけじやなく
昔は人口の流入もそれなりにあったみたいだから
その都度ある程度の換気も起こるはず。
例えばPC勢と携帯勢が対抗しあって混ざり合っても、依然として高評価を維持しつづけた喧嘩師はいたけど、
これは空気に適応した、ってことじゃなくて、空気を作り上げた、ってことになるのかな?
それに同じ人だからといってずっと同じ心理状態を保ってるわけでもないから
空気ってのは本来かなり流動的だと思んだよね
それに反して、空気を無理矢理にでも一定の性質に保つってことは
自然法則に逆らうような超常的な力が働いたと思われるから
仮説としてとても受け入れられるもんじゃないね
俺は喧嘩界隈の起源まで知ってるわけじゃないけど
自然発生的に生まれた、っていうのは十分考えられると思うよ
だって、本来喧嘩って自然と起こるもんじゃん
特にネットの赤の他人と匿名で交流が取れる場所においては
暴力を振るわれる危険も相手を気遣う義理もないわけだから
攻撃的な発言が飛び交いやすいし喧嘩にもなりやすい
そうなると相手を言い負かした成功体験から
常習的に喧嘩を吹っかけるやつも出てくるでしょ
いわゆる喧嘩師ってやつだけど、そんなのが一人誕生すると、今度は周囲に刺激を与え始めるわけだから、
もともとのネットの性質も手伝って、そいつを中心にした喧嘩師集団(+野次馬連中)ができあがる
これが喧嘩界隈の初期段階であり、喧嘩板とかはそいつらの拠点として後から作られたもんだと思うよ
>>53
とても受動的な方なんですね。
周囲の希望や要求に応えなければならないという強迫観念のようなものを感じます。相手の希望や要求に応えるということと承認を得るということは本来は別のはずですが、そこを混同して悩んでいる方が多くいます。日本人は特にその傾向が強いかもしれません。
空気を読まなくても他者から評価されたり、承認されることは可能ですし、力さえあれば、空気を作り出すことも作り変えることも可能です。現実社会の場合は、あまりに既存の存在が大きすぎるがゆえにそう簡単にはできませんが、インターネットならもう少し簡単にできます。空気というのは人間が生み出したものであって、自然法則ではないからですね。
もしかしたらあなたの仰るように、彼らはコミュニティの空気を敏感に感じ取って、評価されるような立ち回りをうまく演じ続けたのかもしれませんが、あなたみたいな繊細な方はこの界隈にはあまりいないと思いますよ。
誰かによって作られた既存のコミュニティに参加するばかりではなく、新しいコミュニティを自分で作ってみると何か分かるかもしれません。最も身近なところで可能なのは自分の恋人や家族を持つということでしょう。空気をどのようにして作り上げていくかということについて、私がここでつまらぬ講釈を垂れるよりも、如実に経験できるはずです。
>>54
空気を作ることができないっていうのは言い過ぎだったね。正確じゃなかった。
言い直すついでに話を整理しよう
俺が言いたかったのはつまりこうだ
人間の心の動きというのは川の流れのようなもので
誰かが小石を投げたら水面が波立ち
雨が降って増水、勢いを増したり
水中で魚が泳いで渦ができたり
そういった細かな事象が重なることで
複雑怪奇な動きを見せる
ミクロなレベルにおいてはいくら知能の発達した人間といえども自由自在には操れない
それに対して、君が言いたいのは多分こうだ
川の流れを完全に制御することはできない
でも陸地を掘ったり埋めたりして進行方向をおおまかに変えることはできる
この意見には同意する
例えば説得する、煽る、論破する……そうやって喧嘩で相手の心を動かし、方向付けることは決して珍しくない
自分自身の経験を振り返ってみると、他人の考えに触れて、ハッと気づかされることも多かった
思い切って普段と違う行動をとったところ、自分に対する周囲の見方が変わり、別の役割が求められるようになることもある
こう考えていくと、確かに君の言うような「動かし方」はできる
ただし一対一ではなくある程度人数が揃ったコミュニティが相手となると、例えばクラスのリーダーみたいな立場になってくると思うね
>説得する、煽る、論破する……そうやって喧嘩で相手の心を動かし、方向付けることは決して珍しくない
喧嘩認識論とでもいうのかな
面白いんじゃねえの?
>>56
その上で申し上げると、少なくともこの界隈においては、そのような繊細な流れを理解されている方は少数派で、皆さんはもっと動物的な欲求に基づいて行動していると思うのです。その欲望のうねりみたいなものがこの界隈における空気感や価値観の根源にあるという点では、今も昔も大きく変わりはないのではないでしょうか?記録を辿ればどこかに起源があって、原初となる誰かがいたというだけです。
それが誰であるかという点に必然性はなく、偶然その時代と環境が彼らの欲求を満たす場所として合致していただけに過ぎない、というのが私の見解です。
>>5
>陰謀論を信じれば、社会の欺瞞から解放され、媚びを売る必要がなくなります
それは社会の欺瞞から解放されるために、そことはまた別の社会に媚びているだけではありませんか。