>>142
強さとはなんぞやというときに「説得力」にそれを見いだしていること自体に異論はないのですけれど、説得力自体は「口語/文語」に左右されない、いわんや強さもまたその道理であるという旨の意見にはいささかの疑問が残ります。
推察するところによりますと、口語もしくは文語というのはつまるところ「包装紙」であり、包装紙がいかようであれど中身が変化するわけではないということを考えられているのではないでしょうか。
それはそれで確かな事実であり、文章の形式によって内容そのものが変化するということはありえず、ゆえに説得力という点において文章形式はどうでもよいという考えに至るのはわからなくはありません。
しかし人間というのは不思議なもので、たとえ同じ意味内容であっても表現が異なればそこに違った印象を受けるものなのです。
例えば相手に好意を伝える場面を想像してみてください。
方法はいろいろあります。
しかしその方法によって相手が受ける印象は変わるものではないでしょうか。
「好きだ」とメールで伝える。「好きだ」とラインで伝える。「好きだ」と手紙で伝える。「好きだ」と話して伝える。
同じ意味内容であっても表現が違えば印象も違います。
このことについて、異論があれば根拠はいくらでも提示しますがいまのところは割愛いたします。
さて、今回の標題は「強そうな文体」です。
いわずもがな印象の話です。
上述した「表現方法が異なれば受ける印象も違う」というお話は、今回の件にも同様のことが言えると考えます。
同じ意味内容であっても、口語でまくしたてられるように言われるのか、文語で丁寧に諭されるのかによって受ける印象は違うでしょうし、それならば強そうな文体を探究する意味もあるというものです。