誰かさんみたいに『喧嘩必勝法』なんていう詐欺じみたスレを立てたつもりはないです。このスレでは、「何を意識して喧嘩に取り組めば、喧嘩が強くなれるのか」ということを皆んなで考えます。ただひたすらに喧嘩の数を増やしていくのでは勿体ないと思いませんか?どうせなら一回一回の喧嘩に「成長のきっかけ」があった方が良いはずです。ところで、みんなは「喧嘩に勝つこと」と「喧嘩が強いこと」を同じことだと思っていませんか。「喧嘩が強いならば、喧嘩に勝ちやすい」という論理は正しいと思います。しかし、これの逆、すなわち「喧嘩に勝ちやすいならば、喧嘩が強い」はどうでしょうか。ただ喧嘩に勝つだけなら、自分より実力の低い者を相手に選べば良い話です。別に相手が強い人でも、揚げ足でも取って、それを勝ちとすればいいのです。最近、喧嘩に勝つことばかりに拘っている喧嘩師が目立ちます。そして、こういう人ほど喧嘩が弱いです。先の論理より、喧嘩に勝ちたければ、喧嘩が強くなればいいのです。勝ちにこだわる人たちは「喧嘩に勝つ」という結果ばかりを追い求めて、「喧嘩が強くなる」という結果に至るための"手段"を殆ど考えていないんです。遠い月に手を伸ばしているだけなんです。月に行きたかったら、アポロ11号のようにそこに行き着くための"手段"を完成させなければいけません。今回は、この"手段"を磨いていくために、何を意識して普段の喧嘩に取り組めばいいのかということを考えていきます。少しこのスレの意義が分かってきましたか。それでは始めましょう。みんなの自由な意見を待っています。
「喧嘩に勝ちやすいならば、喧嘩が強い」という先の逆論理を信じている人、すなわち「喧嘩に勝つ」という結果ばかりに拘っている人は、喧嘩が強くなれるとは僕は思いません。だから喧嘩師ランキングでその人のランクが上がっていくことも多分ないです。「別に強くなくていいけど喧嘩に勝ちたい」という条件で活動している人は、自分より実力の低い者を相手にすればいいし、つまらない揚げ足で、それを自分の勝ちとすればいい。
僕はちょっと前から喧嘩をやっているが、よく負ける。
よく知らないうちに勝つこともあるが、とかく負けがちだ。
とはいえ最近ではマシになった、頭で考えられるようになった。
それでも負けるものは負ける、くだらないミスを犯して負ける。
とくに最初の頃はひどかった、どれだけ見直しても間違いに気づけない。
どうしてだろうと考える、自分がバカなのかと思ったら、つらくなった。
本当はこんなものじゃない、僕の洞察力はもっと深いものだと思っていた。
そんなふうに悩み悶えながらも負けを重ねるうち、やがて僕は諦めた。
たび重なる敗戦によって、その僕の考えは根っこから角度を変えられていた。
僕はもっと簡単に、もっとストレートに物を考えるようになった。
自然な流れに身をゆだね、最初から無理に話を広げようともしなくなった。
そしたらちょっとよくなった、おのずと勝率が上がった、間違った発言が減った。
だから僕は、あまり言論の場所だってことを意識してはだめだと思う、雑談の延長。
とくに僕のような弱い人は、そうやって自爆しているようにみえる。
普通に生きていればそんなにおかしなことは考えない、言いたくならないとおもう。
>>6
こんな話があります。創造力を働かせる必要がある仕事では、報酬のあるときよりも、報酬がないときの方がパフォーマンスが良くなるらしいです。さらに、報酬が低いときよりも、高いときの方がパフォーマンスは落ちるようです。その理由は、額が高くなればなるほど、力んで、物事を広い視野で見る力が失われるからだそうです。喧嘩でも豊かで自由な考え方が必要になってきます。そのとき、過度に自信を持ってやるよりも、肩の力を抜いて気軽な気持ちで取り組んだ方が、かえって良い考えが思い浮かぶのかもしれません。
まず、誰であっても、常に、自分と相手の「主張」と「論拠」は押さえておく必要があるでしょう。はじめは、これらの情報をメモに取って整理しながら喧嘩してもいいと思います。「対立点」も書いておくと、なお良いです。さらに余力のある人は、
・推論の種類(演繹、帰納、アナロジーなど)
・論拠の種類(具体例、エピソード、引用など)
も書き加えておくと、自分と相手の論証が目に見える形で記録できます。そうすると、論証の不備・誤謬が容易に見つけられます。
このようにまずは「状況の整理」から意識するべきでしょう。毎回意識していれば、そのうち紙に書かなくてもこれらの情報が頭の中で綺麗に整理できるようになると思います。