俺を論破できるやついんの?w

159名無しさん
2017-09-21 07:17:38
ID:IfnJvgc.

ざっと読んだところ君の説というのはある意味こんな感じっぽい。

複数存在する程度のうちから最強の「程度」を1つ決める。
例えば、上限100点のテストでは100点が最強の程度になる。
100点はいなくても95点が最も高い点数ならその程度が最強。
ようは数値(点数)を程度とみなして、その程度によってグループ分けをする。100点グループとか95点グループとか。
その数あるグループのうちで最も点数(程度)のまさっているグループを決めて
そこに属している人間をまとめて皆最強と認定する。

違ってたらすまんが。

う~ん。ヒエラルキーの図には三角形と台形の形の2種類が存在していて、台形の時の上底を便宜上最強と呼びたい勢が居る、ってだけの話かな。
まぁ言わんとしてる事は分からんでもないが、それは「層」とか「格」みたいなのでまとめられる存在であって、果たしてそれら層に属する存在までもを含めて「最強」でくくっていいものか違和感がある。
他のどの程度よりもまさった程度があるとして、そこに属する人間が百人いれば最強は百人存在することになるといったり。
(さっきの例で言えば100点が100人いれば最強は100人。イナバ物置に乗っても大丈夫)
「1+1=?」みたいなクソ簡単なテストを日本国民全体に出せば、「1億2千万人」くらい最強が生まれそうだし。

何かテストやタイム系の競技で程度をグループ分けして、最強の程度に属する人間が一人だった場合。
最強の程度に属する人間が一人だとその内で他の比較対象がいないから違和感なく「最強だ!」と言えるんだろうけど。
ヒエラルキー的にも綺麗な三角でまとまるしね。

問題はその最強の程度に属する人間が複数人いた場合。
最強の程度に属する人間が複数人いればそれらをまとめて最強認定。
これに違和感を感じてしまうのは
多分、一位と最強は必ずしも同一ではないと僕が考えているから、かな。
一位は同立という措置が取られる場合もあるから台形のヒエラルキーでも良い。
だけど最強のヒエラルキーは三角形であるから同一の存在を認めない。
僕は一位と最強の間で、こういう差別化を図っている。

君の説の前提には、一位=最強だという考えがあるからだと思うんだけど。

例えば君の喧嘩師ランキングも喧嘩師の程度をS+~E-にまで程度を分けてるよね。
S+を最強の程度として頂点に据えて綺麗な三角形なヒエラルキーになっている。
ここで「程度が他の【どれよりも】まさる程度」であるS+に属する喧嘩師(ひよこ氏と黒ウサ氏)は、君のランキングにおいて同程度に最強ってことになる。
しかし最強の程度に属する二人だけど、「実際どっちの方が強いんだろうね?最強はどっちだろうね?」
というやり取りをしばし見かける。
同じ程度に属する「同立一位」という状態の中で、さらに強いのはどちらかという疑問。最強はどちらかという疑問。
こういう疑問が生まれるのは「同立一位」の状態と「最強」を差別化しているからではないかなと。
これの例に限らずテスト全教科満点の秀才が2人いれば、2人のうち実際頭いいのはどちらだろうという疑問が話題に挙がることもあるだろう。同立一位が複数人いた場合、それらをまとめて「最強」と称することがないのも、その差別化が機能しているからではないのかなと。どれよりも優れた程度に並び立つ者が二人がいれば二人を最強と括るより「二強」と言ったりするしね。

要は一位と最強が=で結ばれる場合もある。だけどそれは一位が1人のみの場合。一位が複数人いれば最強と=にはならないのでは。だから厳密に最強と一位は=ではないと。まあそんな感じ。

問題をその最強の程度に属する人間が複数人いた場合に戻すと
だからこの際は皆まとめて最強認定するより
そいつらは「最強の層に属する人々」で厳密には「最強ではない」と目した方が違和感ないのではとか思うんだよね。
同立一位状態を最強の層に属しているとみなす感じ。
ヒエラルキーが台形の状態で上辺に属するのを皆まとめて最強認定しちゃうと、さっきも言ったけど百人の最強が誕生しちゃうし。
それよか最強の層に属するのが百人いる、と考えた方がすっきりするんじゃないかなって。
層のうちの最強は層のうちの最強。その層に属する内にも最強を適用するかはまた別問題。
俺はあえてこう考えてる。

君の例、日本に富士山と同じ高さの山が二つ存在すれば
その日本一の高さ3,776.12 mが「最強の層」で
その層に属する山が二山あるというだけの話。
つまりこれは同立一位状態で、厳密には最強ではないんじゃないかな~って。

思えば、僕はこれまでなんとな~く「最強」というのは、他に並び立つものはいない唯一の存在だと定義していた。
これは単に本で、テレビで、雑誌で、どれよりも優れた程度に属する存在が二つあれば
それらをまとめて最強とは括らず「二強」と言ってみたり。
そういう存在が複数いればそれらを最強で括らず「同立一位」と言ってみたり。
こういう世間の流れが最強は「唯一だ」とか「他に並び立つ者がいない」とかの定義を個々人に確立させていってるのだと思う。だから「最強は複数人存在する」に違和感を覚える人が結構いるんだろう。
けどそういう人らは別に馬鹿でもなんでもなくて
二強といったり同立一位といったりで、唯一でもなければ中々「最強」と称さない世間に生きて、それをなんとなく肌で感じ取っているから。
それで最強は三角ヒエラルキーの頂点を指すと、なんとなく考えている。
まぁ〜言葉の定義ってこんなもんじゃね〜の〜。
頑なに辞書に拘るとか辞書を絶対化するとか、別にそうする必要もないだろう。
必ずしも辞書が全て正しいということもないだろう。辞書だってミスることはあるだろう。
僕はこの件に関して言えば多少、辞書側に不足があると思う。
最強を「一番強い」と単純に定義してしまったため、同立一位のケースを考慮しきれていない。
同立一位のケースをも最強と称していけば、理屈的には1000人の最強認定だって可能だ。
だけどそれは世間の感覚と反する。世間の感覚、定義感と乖離すれば辞書の方に不足があると僕は考える。

辞書というのは、語の「真の意味」についての権威的な叙述を打ち立てているのではなく、人の能力一杯に、種々の語が遠い、或いは近い過去に著者たちにとってどんな意味であったかを記録しているだけだから。辞書の示す定義とは、人々の言語習慣を述べているだけだから。定義は言語についてのただの叙述だから。

名前:

メール欄:

内容:


文字色

File: