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【 ※ 自分の定義・相手の定義・第三者の定義 (辞書等)】
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そうでもないさ、あんがい私らには合ってるんじゃない?上記の文を、遡ってみても。
おのがじしに綴られた言葉・旨趣はあまりにもハイレベルで容易ではないしな。
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" ※ 神の定義(イデア) "
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面白い喧嘩とは=【自己満足行為】
【究極的な自己満足行為】=【他己満足行為】
【他己満足行為】言葉・人生。
ファーストパーソンから見た自分
──サードパーソンから見た自分
つまり、自分は自分見た≒【究極的な自己満足行為】
つまり、自分は第三者として見た【他己満足行為】
それでは、【自分】 の域から抜け出ていないのではと?
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" ※ 神の定義 (イデア) .2 "
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じつは、〈自分〉・〈他人〉の境界線を越えられるとも定義していたんだよね。
皆の言葉=自分の言葉+相手の言葉
であれば…言葉は誰のものでもない。
だから、自分は他人であり。他人は自分になる。
そして、それは皆の言葉となって、他人と自分の境界線は失はれ。
言葉は【自分モノでも他人のモノでもなくなる】
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" 神の定義(イデア).3 "
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" 君の定義 "
これは例えるなら 「A」 と 「A´」
今真に求めるべきなのは 【A】 と 【B】 が面白い喧嘩だと感じる状態だと思う◀️引用。
とりあえず
君の定義で進行しようと思う。
君の定義には
【相互間】と【面白い喧嘩】は
マッチしているべきだと書かれているね。
然しこの話は…「自分の面白い喧嘩の定義」や「どくてん・ヒロキングの思う面白い喧嘩の定義」とは異なります。
真理は分裂します、さながら様々と色を変えるカメレオンのようでそしてそこにはあるのは「定義」なんですよ。
【自分の定義・相手の定義・第三者の定義】です。
間違っているのではなく、真理は分裂する。
そして、それは一つ一つ保存される。
自分が面白ければ、面白い喧嘩だ【コレも定義です】
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───さて、きみの面白い喧嘩の定義は両者の理解で成立するモノだね。
『イデアの考察』
そして、イデアとは、この世に完璧な円はない。何故ならよく観察すれば凸凹しているからだ、然しこの世には完璧な円が存在している。我々は完璧な円を認知している。それは【円のイデア】と呼ばれ、
この世に存在しないはずのコレ、概念として存在しない
だが存在するとするのがイデア、完璧なイデア
円のイデア。そんな意味で捉えている。
【面白い喧嘩のイデア】とは、本質のコト、美しいイデア、満開のサクラを見て佼しいと感じるこの質感、エベレストの頂上からみて感じとった佼しさ。
我々の感じる美しさとはなにか?
この世に絶対的な美しさがあるのか?おのおのが感じるとる美しさには個人差があるのではないか…と。しかし、この世には人間が本質的に感じる、美しいイデアが存在するのではないか?というコト。
【面白い喧嘩のイデア】も同様に、面白い喧嘩のイデアが存在し、我々を本質へと導いてくれる。
美しいモノは、美しく、汚いモノは汚い、
そんな、絶対的なモノがないにも関わらず、この世には絶対的なモノがあって。
その基準を探ることコソが【面白い喧嘩のイデア】だ。
〈自分〉〈他人〉、存在していないはずの、絶対が存在している立場故、この相互理解の観念は、面白い喧嘩のイデアに内包される為。きみの無駄という考えは否定されると思う。
すまん【恐怖の考察】まで手が回らなかった。