りに文句あるやついんの?

313ノーマル◆eWVCV34qbk
2017-01-23 19:42:49
ID:KliYoZc2

 そして二つ目。(一つ目の主張の正否はどうあれこの二つ目の反論には全く関係ない。)
 背理方を使って、まず「勉強に対して真面目」が不適切ではないと簡単に証明することができる。
 「勉強に対して真面目。」が適切であると過程すると、勉強の何に対して真面目なのかが説明されていないため、「真面目に勉強する。」と「真面目に勉強をサボる」と相反した意味が同時に成り立ってしまうため、これは適切ではない。(「勉強に対して真面目」が不適切である証明完了)
 つまるところ"り"は俺に対して具体的な範囲付けがなされていない為に日本語として矛盾したりあやふやになって不明瞭な部分が見えているから不適切だと言っている。
 しかし、それはどんなに厳密に、具体的に言おうともその不明瞭な部分は存在する。
 ここからはその理由を説明するが、その前に"論理"という言葉の定義付けを確認しておく。なぜこんなことをするかというと、そもそも哲学とはなるべく多くの人間に共通認識を見出す"本質の探求"であって、ニュアンスや厳密な定義付けを覚えて日本語を使っていない者は、自分の思う"論理"とは違うニュアンスを控えているから、ほとんど話についてこれない。
 ここで言う"論理"とは「A→B」と記号に変換することができる言葉の集まりを指す。それはお前が今まで見てきた、ピタゴラスの定理のような確率された理論以外に、コミュニケーション時による発言も含まれる。例えば「明日は早いからもう寝なさい」は「A(明日は早い)だからB(もう寝なさい)。」だ。
 論理には必ず不明瞭な存在と暗黙の了解が少なくとも一つは例外なく含まれている。それはどう足掻いても証明はできず、例え証明できても、その証明自体が"論理"であるため、また別の証明不可能な存在が出てくる。初歩的な論理哲学では「公理」「飛躍」「矛盾」の3つがそれにあたる。

 まずは「公理」。
 証明不可能な暗黙の了解のことを公理と言う。すべての理論体系にはこのいくつかの公理が土台になっている。例えばユークリッド幾何学のうちの一つに、「三角形の内角の和は必ず180度である」とある。証明はされていなかったが、当時は誰がどう見てもそうであったわけで、恐らく現代人が見ても九割九分そう思うだろう。
 これは証明されたわけではなく、飽くまで人間の直感的な要素が含まれているため、そこに絶対的な正しさはない。そのため公理は何に置き換えても無矛盾な理論をいくらでも生み出すことができる。
 無から理論を組み立てることはできない。どんな理論体系にも必ず最初に公理が存在しなくてはならない。このことから論理ですら公理のような暗黙の了解であると導き出すことができる。

 そして「飛躍」についてである。
 ルイス・キャロルによる不思議の国のアリスにはこうある。

アキレスは、頭の回転の遅いカメに、
ある命題が論理的に正しいことを説明しようとしていた。

前提1 A=B である。
前提2 B=C である。

結論  A=C である。

アキレス「というわけだ。つまり、論理的にこうなるのさ」
カメ「ん~、わからないよ」
アキレス「論理的に考えたら、間違いなくこうなるだろ!」
カメ「ん~、なんで間違いなく言えるの?僕もそんなに馬鹿じゃない。A=Bはわかった。B=Cもわかった。でも、A=B、B=Cだったら、どうしてA=Cになるの?何の必然性もないじゃない。ちゃんと、説明してよ」
アキレス「だから、A=B、B=Cが正しければ、A=Cが成り立つんだってば!」
カメ「そんなこと どこにも書いてないじゃないか。そんな前提があるんなら、それをちゃんと追加してよ」

アキレスは、仕方なく、それを追加する。

前提1 A=B である。
前提2 B=C である。
前提3 前提1、前提2が正しいとき、A=Cが成り立つ。

結論  A=C である。

アキレス「どうだ?これでわかっただろ!」
カメ「ん~、やっぱりさっきと同じだよ。前提1,2,3はそれぞれ理解したよ。でも、それでなんでA=Cになるのかわからないよ。どうして?」
アキレス「だ・か・ら~、論理的に考えれば、そうなるだろ!」
カメ「どうして?論理的だからとか、そんなお題目はいいから、ちゃんと説明してよ」
アキレス「よく、みろよ!『前提1、前提2が正しいとき、A=Cが成り立つ』って、前提3で言っているだろ!」
カメ「なるほどね。前提1と前提2が正しいという条件が付けば、A=Cになるんだね。」
アキレス「そうだ」
カメ「じゃあ、そうするとさぁ~、前提1と2と3の全部が正しく成り立つときに、初めてA=Cになるって言えるんじゃないの?」
アキレス「う……。ま、まあそのとおりだが」
カメ「さっきと同じだね。そんなこと どこにも書いてないじゃないか。ちゃんと、厳密にやってよ~。それが論理的ということじゃないの~?」
アキレス「……………」

こうして、アキレスは、さらに
「前提1、前提2、前提3が成り立つなら、A=Cが成り立つ」
という新しい前提4を追加するハメになり、
それが永遠と繰り返されるのであった。

 つまるところ、このルイスキャロルの物語は、「A=B、B=Cならば、A=C」という基本的な論理に対しても、そうなるべき必然性などなく、それを論理的だと信じている人も結局は非論理的な部分に依存しているということを示している。
 結局のところ論理性も必ず飛躍が伴うため、本質的に公理と同様に証明不可能な前提のひとつである。我々が行う論理的思考とは証明不可能な思い込みのひとつなのである。

 最後に「矛盾」である。
 これは先ほど背理方によって導き出した矛盾と同じ性質のものだ。「公理」と「飛躍」は厳密に捉えれば捉えるほど、具体的に考えれば考えるほど浮き彫りになって、矛盾さらけになってしまう。(まあこれを押し通せば俺の日本語も不適切である証明になってしまうが、これらの性質を乗り越える方法を三つ目で説明するから別にいいがな。)

これらの性質は日本語文法にもある。では今回の場合、一体どこに、どのような性質が、どうあったのか?三つ目の反論に移り、それを説明しようと思う。がしかし、その前にこれらの性質をどう乗り越えるか説明する必要がある。というより理解してもらう必要がある。
 どういう意味かと言うと、実は飲茶氏のサイト「哲学的な何か、あと科学とか」の「哲学史メニュー」より「科学哲学史」で説明されている。

 ここから先はまずそこに目を通してもらわないと、ここから先は未知なる世界となるだろうな。絶対読んでからこれより先を読むように。

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