喧嘩しませんか?

27タイラク◆lDvkUYXEmw
2019-02-17 15:19:53
ID:iA9aU8lE

>>26
ご飯を人殺しに置き換えれば分かりやすいのではないでしょうか。人殺しが好きな人の感性を「変える」ことは出来ないですが、その人殺しが好きという感性が生み出すデメリットを説くことにより第三者から見て「悪だ」と思わせることが出来ます。
貴方はもしかして純粋な感性の否定を、「純粋な感性を変える事」と間違えていませんか?それは妥当ではないと思われます。例えば、デカルトは自分の能力の範囲外の、いわばコントロール出来ない事象に於いては負い目を感じるべきではない、という主張をしています。これはつまり能力の範囲外で起こった事象に対して負い目を感じる人種の「感性」の健全性を理性的に否定したこととなります。実際にその感性を取り除くことが出来なかったとしても、そうであるべきではないという否定をすることは容易であり、実際に長い歴史の中で幾度となく行われています。
貴方の主張というのは「感性」というものが何かしらの特別なベールに包まれているという謎の公理が存在しませんか?感性は否定出来ない、という主張における根拠が最も大切な筈なのにも関わらず言及が枯渇しています。
因みに感性の健全性の基準というのは客観的視点に於いて様々な種類が存在します。例えば「国のために利益になるか否か」といった基準で感性の優劣を決める人もいるでしょうし、「自分に利益があるか」といった基準で決める人もいるでしょう。具体例をあげるのならば
ご飯好きのAさんは、パン好きのBさんと比べ、日本産のご飯を食べているからこそ、日本の利益に貢献している。よって日本に貢献しているからこそ、日本が好きな私にとっては健全性のあるものだと言える。
と言ったように、日本に貢献することを健全だと判断することも出来ます。
そして、このような様々な判断基準を持つ第三者の薄っぺらい共感を得ることで欲求を満たすことも出来ます。
また、自分の中で「理性的」に相手の感性のメリットを理解し、それを心の中に留めておくことも出来ます。そうした場合、他の人にものを勧める場合に自身の感性とは切り離して、合理的によりメリットがある方を勧めることが出来るからです。
このように好き嫌いの論争は様々なメリットを齎すことが出来ます。この時点で不毛ではないと思われますが如何でしょうか?

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